礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年9月20日

第1コリント書連講(9)

『心を身給う神』

竿代 照夫 牧師

第1コリント3章18〜4章5節

中心聖句

 5ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。

(4章5節)

教訓:神による評価とそれに備える我々の姿勢


導入

 何か建物を建築する場合、設計図なしに建て始める人はいません。これまで私たちの教会の青写真はどの様なものであるべきかを知るために、第一コリント書の連講を行っております。

 先々週は、教会の土台がキリストでなければならないこと、教会を形造る「建材」が簡単に燃え落ちてしまうような材料でなく、キリストの十字架を担った一人一人の強固な信仰者であるべき事、そして建築された教会(また我々一人一人)には聖霊が住まわれるべきことを学んで参りました。


 今日取り上げるのは、コリント書の前半の中心的な問題であるコリント教会の分派争いに関して、パウロが一つの区切りをつける箇所であります。まず、この箇所でパウロが発したいくつかの命令に注目したいと思います。

 3章18節では、パウロは「自分を欺いてはいけません。...愚かになりなさい。」とコリント教会員に命じています。これは言い換えますと、自ら賢いように振る舞うなと言うことと、神の前において自分の愚かさをわきまえよ、と言うことを意味しているのです。

 21節では、「誰も人間を誇ってはなりません」と言う二番目の命令が語られます。ここで言うところの「人間」というのは、パウロやアポロという教会の指導者たちのことです。このような教会指導者を誇ることが、彼らの分派争いのもとになっていたからです。これに続けてパウロは、教会の指導者というものは、教会のすべての人に仕えるべき存在であり、教会員のものであると言うことを述べています。しかし、その教会員はキリストのしもべであると、さらに続けているのです。

 これらを語った後パウロは、「こういうわけで」と始めつつ、4章の内容に移っていきます。そして、「私たちをキリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。」と言う3番目の命令を発します。さらに、「先走ったさばきをしてはならない」と言う4番目の命令をするのです。

 以上をまとめますと、教会を構成する一人一人の主人は主キリストであることを、教会員すべてが認めなさい、と言うことになります。これがおろそかになったとき、教会に様々なきしみが生じてくるのです。今日はこれらの命令の内容を通じて、あるべき教会の姿について学んでみたいと思います。


1)教会員は指導者を含め神のしもべであり、神の救いの計画の管理者である。

4章に入りますと、パウロは指導者を二つのものに喩え、そのようなもだととらえなさいと説明しています。それは「しもべ」と「管理者」です。

 「しもべ」という言葉はギリシャ語ではヒペレーテスといいますが、このことばはヒポということばと、エレーテスということばに分解できます。

 「ヒポ」ということばは、〜の下でと言う意味です。ケニヤにはカバがいましたが、カバは「ヒポ」と呼ばれていました。これはカバが水の下にいる動物だからです。ケニヤにおりました頃、ある池でつりをするために船で漕ぎ出しました。その池の入り口には、「この池はカバが出るので、つりをする者は覚悟をしてするように」と書かれていました。漕ぎ出してしばらくしたところで、同乗していた者がカバの耳が水面から出ているのを見つけ、大慌てで岸まで漕いだことがあります。

 「エレーテス」というのは、ベン・ハーなどの映画でご覧になった方もあるかと思いますが、ガレー船という船の底のほうで、船を漕いでいる奴隷の人たちのことを指します。

 従ってパウロがここで用いている「しもべ」ということばは、「下の方で漕いでいる人たち」、もっと日本的な表現を使いますと、「縁の下の力持ち」という意味を持つことになります。パウロは教会の指導者をこのようなイメージでとらえよと言っているのです。

 二つ目のたとえは「管理人」というものですが、このことばの意味は「家にあって仕事を分ける人」というものです。もう少し解りやすく言いますと「執事」「steward」と言うような立場の人間です。つまり、家の所有者から鍵や様々な権限を預けられ、所有者に代わってその権限の一部を行使する人ということになります。

 この管理人は、所有者からあずかった家を運用し、最終的に所有者にその運用の様子を説明する責任(アカウンタビリティ)を持ちます。これを教会指導者に当てはめますと、彼らは神の奥義、すなわち神の救いの計画を管理する権限を預けられており、これをいかに運用したかを最終的に神に報告する責任を持つ、と言うことになります。

 しかし、この権限については、何も教会指導者だけが持っているのではなく、教会員一人一人がみな持っているのです。ということは、神から委ねられた資質や時間を教会員すべてが最大限活用して、神の期待に答え、良いかたちで最終的な報告ができるようになることが求められているのです。「執事」としての立場を理解しましょう。

 さてそれでは、良い管理者の条件とは一体どの様なものなのでしょうか?4章2節でパウロは、神への誠実さであり、忠実さであると説いています。より正確に言いますと「忠実さが認められる人物」ということになります。これは、いつ所有者である神が不意な査察を行っても、全く問題がないよう、普段から忠実な行いを怠らない人物と言うことになります。

 これに関して主イエスご自身も、ルカの福音書12章42節にありますように、忠実な管理人が良い管理人であると語っておられます。主イエスは、主人(すなわちキリスト)は、思いがけないときに現れ、それまでの行いの説明を求めると言っておられます。


2)人間がかってに裁いてはいけない

 パウロはコリント人への手紙第4章3節で、人間による判決・判定は小さな事であるといっています。これは人間による評価は全く無視して良いものではないにしろ、それほど気にすべき事でないということを言っているのです。つまり、一番大切なのは、神によって評価されることであり、人間による評価はそれに比べると取るに足らないものであるということなのです。

 これに関してパウロはさらに踏み込んで、自分で自分自身を裁くことさえしないと語っています。これは自己反省をしないという事ではなく、不必要に自己卑下をしたり、自分を傷つけたりするようなことをしないと言うことを意味しています。もし自分が行ったことに問題があったり、自分が不完全であると思ったら、主の前に祈り、神に心を預け続ける平安な姿勢をとればよいのであり、自分を責める必要はないのです。


3)評価を行う神というお方

 コリント人への手紙第4章5節で、パウロは、人間が勝手に先走った裁きをしてはならないと述べています。これは、神が本来の裁判官であるべきなのに、それに先だって一部の権限しか持たない人間が勝手に予備審判をするのは、大きなお世話であるということを言っているのです。

 この審判をされる神様というお方は、良きも悪きもすべてを見通すお方です。神の前には何事も隠すことができないのです。思いますに、日本人にはこの意識がうすいのではないでしょうか?誰も見ていないから、何をしても良い、周りがやっているから私もやっても良いだろう、こういう事は神の前ですべて明るみにされ、裁かれることなのです。

 その一方で、誰の目にも留まらないような小さな良い行いも、神様の前には明らかな事であり、それを漏らさず評価してくださるのです。


 このようなお方である神様に対し、私たちはどの様な態度をとるべきなのかについて、3つの点を最後にまとめてみたいと思います。

1)神への忠実さを持つこと。

2)一貫した変わらない忠実さを保つこと。

3)小さいことに対しても、神に忠実であること。

今社会に求められているのは、このような神に忠実な人物なのではないでしょうか?例えば小さいことでは、うそをつかない、時間や約束を守る、などのことがあるでしょう。こういう一つ一つのことが、神に栄光を帰すことになるのです。最後にこれに関連した詩篇のことばをあげて終わりたいと思います。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

(詩篇39篇23〜24節)


Editied and written by K. Ohta on 980921