礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年9月27日

『しもべは聞いております』

井川 正一郎 牧師

第1サムエル記3章1〜10節

中心聖句

 10でそのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

(10節)

教訓:神の声を聞く姿勢


導入

 今朝は聖餐式の日です。聖餐式の意味と意義については、これまでに繰り返し教えられてきました。それは簡単にまとめますと、罪の許しの確認という過去についての内容、神への献身ときよさの確認という現在的な内容、そして来るべき栄光の御国への前備えという未来に関する内容が含まれています。もっと簡単に言えば、聖餐式を通じて献身を新たにし、信仰をリフレッシュし、新たにスタート切るための役割があるといえます。

 今日取り上げる箇所には、この信仰のスタートというべき事が取り上げられています。そのポイントは「聞くこと」です。

 私たちは何故「聞く」事をしなければならないのでしょうか?それには品性と行動を健全なものにすることができるという積極的理由と、人はなかなか他者の意見を聞かないものだからという消極的な理由があります。例えば多くの方は、会話の時相手の話をそれほど良く聞いていないものです。

 では何を考えているのかというと、次に自分は何を話そうかと言うことを考えているのです。言い換えますと、多くの会話はお互いに言いたいことを言い合っているだけと言うことになるかもしれません。

 これ以外にも良く知られたことばに、「馬耳東風」や「馬の耳に念仏」ということばがありますが、かくのごとく人間は人の話を聞くことが苦手なようです。

 信仰の再スタートを切るべき聖餐式の日に、スタートに必要である「聞く」ということについて学ぶことは意義があることと思います。今日は本当に聞くことができるためには何が必要なのかについて、サムエル記の冒頭の一節「しもべは聞いております。」から学んでみたいと思います。


1)相手に対する信頼の心を持つ事が必要

 人間が話を聞いているとき、その話をしている相手の人格そのものにも相当な意識が払われているものです。ここでサムエルは、会話の相手である神様を信頼していたからこそ、その話しに耳を傾け、心を傾けたのです。

 よく、神様の言うことは聞くが人の言うことは聞けない、という人がいますが、これはちょっと違うと思います。それは多くの場合、神様は一見無関係に思えるいろいろな人間の口を通じて、ご自身の考えを語られるからです。

 こういう人間の意見を聞くとき、相手へのわだかまりを持っていますと、なかなかその人の言っていることに耳を傾けることができません。まず、何かを言ってくる人に対して何らかのわだかまりがあるのなら、それを解決していく必要があります。

 今日神様に対してと同じように、「あの人」に対しても信頼の心があるかどうか一度心を吟味してみましょう。


2)謙遜の心が必要

 人の意見を聞くときは、相手に対して下の立場で聞かなければなりません。つまり、謙遜・へりくだりの心がないと人の話を聞くことが大変難しくなるのです。

 冒頭の箇所で、サムエルは「しもべは聞いております」と自らを「しもべ」と呼んでいます。これは彼の神様に対する謙遜の現れなのです。私たちはこの謙遜の姿勢を学ぶべきであり、またこの謙遜の姿勢こそが信仰者の重要な要件の一つなのです。


3)服従と行動を伴うこと

 「聞いた」というのは、馬耳東風のようにただ耳に入れたというようなものを指すのではありません。ここでいう「聞いた」というのは、その内容に対するうなずきと、またそれに従って行動する姿勢が伴ったものを指すのです。つまり、従おう、行ってみようと言う心が伴っていなければ、「聞いた」事にならないのです。神様の忠告・助言を聞いて、その通り実行してみようと言う積極的な意欲を持って聞くことが必要です。

 私がまだ社会に出ておりました頃、ある会社で訓話を受けたことがあります。その初めに、その責任者は「これから言うことを聞く前に、私の言うことが始めてのことであり、自分のことであり、また一生で最後のことばだと思って聞きなさい。」といったことがあります。その後の内容はさておき、こういう気持ちを持つことが人の話を聞くときには大切だといえましょう。


4)訓練されること

 この訓練というと、何か修行のようなものを思い浮かべる方もいらっしゃるかも知れません。しかし、これはそうではなく、繰り返し繰り返し聞くことを行いつつ、成長していくという経験のことを言っているのであり、修行とか修練というものとは違います。

 サムエルも4,6,8,10節の4回も繰り返し神のことばを聞き、最後にようやく神のことばを聞くことができました。おそらく最初に聞こえた神の声は大変細く、小さいものだったのでしょう。しかし、何度もそれを行こうとすることで、次第のその声が大きく聞こえてくるものなのです。

 また、この「聞く」ということ自体が、さらに成長を促し、より深く高いレベルの信仰に至ることができるのです。そして、何事に際しても冷静に心柔らかくして、聞く耳を持つことができるようになるのです。


最後に実生活への適用を見て参りましょう。

1)へりくだって相手の話を良く聞くこと

御利益宗教ではありませんが、人の話を聞くことは良いことがあるものです。意識して人の話に耳を傾け、良き導きを得るように心がけましょう。

2)神の御声を聞く訓練をする

初めは神の声は細く小さくとも、訓練を経るに従って大きな声に聞こえてくるものです。また、何が神の声かを聞き分ける指標は、その内容が聖書のことばに沿っているかどうかと言うことになります。聖書のことばに反した内容は、絶対に神の声ではありません。ここは重要なポイントの一つです。またその訓練は具体的に言いますと、日々のディボーションであり、集会出席であり、祈りなどの恩寵の手段の活用を指しています。

今週、聞く者とさせていただきましょう。


Editied and written by K. Ohta on 980927