礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年10月4日

第1コリント書連講(10)

『本当の誇り』

竿代 照夫 牧師

第1コリント4章6〜21節

中心聖句

 7いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

(7節)

教訓:私たちが誇れるものは?


導入

 前回は、教会の指導者や教会員が、神の所有物である教会の管理者・しもべにすぎないことを学びました。今日取り上げる箇所では、パウロはコリント教会にはびこっていた間違った「誇り」を正そうとしています。

今日はいつもと異なり、項目をあげてメッセージを語るのではなく、聖書の文脈に沿ってお話を進めて参りたいと思います。


 まず6節でパウロは、聖書に書かれている以上に、教会指導者の立場を持ち上げてはならないと、コリント教会員たちに訓告しています。この訓告の真意は、このような間違った態度を避けることで、教会内に指導者に対する度のすぎた批判や、それに伴う分派争いを避けることができる、というものです。

 7〜8節では、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」という冒頭の中心聖句などが語られています。

 ここでパウロは、コリント教会員たちの高慢な姿勢を暗に批判しています。つまり、彼らが自分の力で獲得したと言っている財産や地位など全てが、実は神から頂いたプレゼントなのであり、それを自分だけで得たと言うことは、神の前には大変不遜なことであると言っているのです。

 これは私たち現在を生きる者にとっても真実であります。私たちは信仰生活を続けていく中で、様々なものを神から頂いています。それは、命であり、健康、知性、財産、才能、環境、仕事、地位、家庭、友人、外見などです。これらのものは、神様から頂戴したものなのですが、多くの場合人間はそれを自分の努力や行いによって獲得したものと思い込み、さらなる高慢に落ち込んでいくのです。

 このようなことは、実は神に対する大きな罪である、とパウロは端的に述べています。彼はこのような高慢さに浸っているコリント教会員を「私たち抜きで、王様になっている」と評しています。これは、神から頂いたプレゼントを前に、自分で全てを得たかのように自画自賛をしているコリント教会員を痛烈に皮肉っているのです。

 私たちも、コリント教会員同様、このような問題に陥りやすいものです。そのようなときには、「誰のおかげでそうなったのか?」と自問自答してみる必要があります。


 9〜13節では、少しわかりにくいことが書かれています。それは、ここでパウロが、さらにえん曲にコリント教会員の態度を皮肉っているからです。パウロがここで言っていることは「」付きの自己卑下ととらえなくてはなりません。

 パウロはこの箇所で、もし自分が誇りに思うことがあるなら、それはこういうものだ、とうことを説いています。その誇りの内容は、一見何とも誇ることができないような、彼の「弱さ」になっています。

 まず彼は、自分を評して「死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出された者」といっています。この時代、戦いを終えた戦士は大変華やかな凱旋パレードを行いました。パリやローマにある凱旋門はそのようなパレードのために特別に作られたものです。その行列の最後には、囚われの身となりやがて処刑される捕虜が、鎖につながれて連行されるのが常でした。パウロは自分自身をそのような、悲惨で哀れな者に等しいと言っているのです。

 そして彼は、自分がキリストにあって「愚か者」として生きていることが、もっとも誇りに思うことである、と言いました。もっと後では、パウロは自分を「世の塵、あらゆるもののかすです(13節)」と表現しているほどです。この当時のギリシャでは、年老いて役に立たなくなった人を、姥捨て山のように、海に投げ捨てていたようですが、パウロは自分をそういう捨て去られるような人間だと言っているのです。そして、自分はかくのごとき弱き人間であるが、コリント教会員よ、あなた方は強い人間ですなと、強烈な皮肉を語ったわけです。もちろんコリント教会員は、パウロが超エリートの経歴を持った、すぐれた指導者であることを認めている事を知った上での発言です。

 実際パウロの境遇は、大変な苦労の連続でした。彼は、何度もむちで打たれ、牢獄に投げ込まれたり、荒野をさまよったりせざるを得ませんでした。また、彼は自分の生計を立てるのに、当然もらってしかるべき教会員の助けを借りることなく、天幕(テント)作りのバイトをしていたのです(12節)。しかし、パウロの言いたいことのエッセンスは、このような苦労をしてきたパウロが、その苦労の故にキリストをより深く知ることができたのだと、その苦労または彼の弱さを誇りに思う、と述べているのです。


 これらのことを語った後、パウロは教会員たちに、このような弱い私を見習うようなものとなって欲しい、と嘆願するのです(16節)。そして、神から頂いたものを自分の栄光にしてしまうのではなく、キリストにあって生きる全てを、もっと真摯にキリストにあって喜びなさいと、勧めています。そして、この訓告が、愛する者への心の叫びであると告白しています(14節)。

 彼のコリント教会員への思いはそこにとどまりません。15節で彼は「たとえキリストにある養育者が一万人いても、自分はあなた達を生んだの父親のような者だから、なんとしてもこの私を倣う者になって欲しい」と切々と、コリント教会員たちに説きました。そして、「指導者に倣う」と言うことは、パウロがキリストにあって歩むその姿を倣うことを、意味するのだと説いたのです。


 17節でパウロはその具体的な表現として、使者テモテをコリント教会に送ったので、彼にいろいろ指導を受けなさいと語っています。テモテはこのコリント人への第一の手紙をコリント教会に携えていった人物であります。おそらく彼を通じて、手紙に書ききれないパウロの真意を伝えたかったのでしょう。

 18〜19節でパウロはダメを押すかのように、「どうせパウロはコリント教会に現れないだろう」とたかをくくっている人たちに、「近いうちに行って、そういう高慢な人の力を見せてもらいましょう」と釘を差すことも忘れませんでした。しかし、彼はできれば今度訪れるときは、そういう状態になっていて欲しくないと、心からの希望を述べています。

 実際、第1の手紙が書かれた紀元55年から、第2の手紙が書かれた56年の間のごく短い期間、パウロはコリント教会を訪れたようです。しかし、残念なことにパウロの忠告は、必ずしもこの時のコリント教会に徹底されていなかったようで、厳しい態度を伴った訪問となってしまったようです。


 最後に今日の中心聖句である7節に戻り、今日のメッセージのポイントをまとめてみたいと思います。

1)人間の誤った誇りは、神が与え給うたものを私物化することから始まります。

 この誤った誇りは、教会・信仰生活の中に非常に解決しづらい難しい問題を持ち込みます。

 この問題は、人間の罪の根幹をなす部分ではないかと思います。私たち人間は、いつも自分ものだと当たり前に思っていることが、本当に自分のものなのか、へりくだって一つ一つ考え直してみる必要があるのです。

2)誇るべきものは、自分の弱さでしかありません。

 これは、第2コリント11章30節、12章5〜9節にも書かれていることです。私たちも、神から頂いたことを自慢するのではなく、神をより知ることにつながる自分の弱さを誇ることができるようになるべきなのです。

 思えば人生というのは、いつも楽ばかりではありません。むしろ大半が苦労の連続と言っても良いかも知れないのです。しかし、そのような苦労や挫折を通して、私たちはより神様に落ち込んでいくことができます。

 ここで7節の言葉を心底納得し、誇るなら自分の弱さと言うところまで、神飲み手に落ち込んでゆくことで、神様が私たちに語っておられる本当のメッセージに耳を傾けることができるようになるのです。

 「私は何ものでもありません。どうかあなたが助けてください。」と祈るとき、神様の本当の力が働き始めるのです。


Editied and written by K. Ohta on 980921