礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年10月11日

第1コリント書連講(11)

『聖なる教会』(その1)

竿代 照夫 牧師

第1コリント5章1〜8節

中心聖句

 7新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです。

(7節)

教訓:イエス・キリストによって聖なるものとされる教会


導入

 今日は教会50周年を記念したジョイフル・アワーの時ですので、初めて教会に来られた方もあるようです。毎週の礼拝は、クリスチャンにとって、聖書のことばから今日的な神様のメッセージを頂き、一週を始める重要な営みであります。

 聖書は大変率直で正直な書物であり、教会の持つ良いところ悪いところを単刀直入に表現しています。今日取り上げる箇所もそのような場所で、本来ですとその内容から避けて通りたくなってしまうような教会の恥部と、その対処法が描かれております。


 今日取り上げます箇所は、大きく分けてコリント教会が持っている問題が書かれている1〜2節の部分と、その対処法が示されている3〜8節の部分に分けることができます。

 1節ではコリントの教会が抱えていた問題の一つ、不品行の事実が書かれています。「不品行」ということばはギリシャ語では「ポルネーヤ」ということばになっており、これは「ポルノ」ということばの語源でもあります。また「ポルネ」と言う部分は、「遊女」という意味を持っています。以上をまとめると、この不品行と言うことが、道徳的でない性的関係、(某国の大統領はそれを「不適切な関係」と表現いたしましたが)すなわち姦淫行為を指すことがわかります。

 これは具体的には、ある男性の信徒が、その父の第二婦人か何かは知りませんが、属柄上の母に当たる人と同棲していたのであります。これは、ユダヤの掟(レビ記18:8,20:11)でも、またローマ法でも厳しく禁じられていた、近親相姦に当たる行為になります。つまり、ユダヤ教とクリスチャン、それ以外の人に関わらず非常に不謹慎なことと思われていた事を教会員が行い、しかもそれを誰がとがめるでもなく、皆が放置していたのです。

 コリント教会は確かに非常に環境の悪い土地柄にあった教会で、その周りの環境に影響されていたのでしょう。コリントには何千人という神殿娼婦というものがいたとされており、コリント風に振る舞うということばはそのままフリー・セックスをすると言うことを表しているような所でした。

 しかし、そのようなコリントにおいてでさえ、忌み嫌われているような事を教会内部の者が行い、それが非難されることもなく認められていたことは、実に大きな問題だったのです(2節)。

 ここでパウロが時に問題にしていたのは、コリント教会員が不道徳を行った者に対して、「まあ、いいんじゃないか」と言う対応、つまり誤った寛容を持って対処していたと言うことです。こういう重大な問題が起きているにもかかわらず、誰もカウンセリングをすることもせず、忠告することもなかったのです。そういうスピリットが失われていたのです。

 この背景には、コリント教会員がパウロの言っていた「福音の自由」を間違ってとらえていたことがあります。パウロは、ユダヤ人が律法にとらわれた信仰を持っていたことに対し、信仰にのみよって生きよと説き、そのような信仰は「自由」をもたらすと言っておりました。この意味するところは、主イエス・キリストに対する本当の信仰を持つなら、自ずとその律法の目指すレベルに到達し、もはや戒律に縛られることはない、ということが言いたかったのです。

 ところが、コリント教会員はそれを不品行をした者でも許されるという具合に、間違ったかたちにとり違えたのです。


 これに対するパウロの対処法は、厳しいものでした。パウロはこの時コリントから遠く離れたエペソにいましたが、この不品行の知らせを聞くや、祈りによって彼らを裁きました。しかも、「主イエスの名」によって裁いたとあります。(これは彼が使徒としてイエスの名によって裁く権限を与えられているからできたことです(ヨハネ20:3))。

 これは言い換えますと、不品行をした信徒をサタン(悪魔)に引き渡したと言うことです。大変ぞっとするようなことですが、しかし後に書かれていることを見てみますと、あくまで一時的・限定的に悪魔に引き渡したことがわかります。つまり、金輪際地獄に堕ちると言っているわけではなく、やがて回復することを期待していっているのです。5節では、これは彼の肉体が滅びる代わりに、霊が救われるためであると書かれています。このようにパウロの処置は、常にその人の救いを求めて行われていることに注意しなければなりません。

 私たちもともすればコリント教会員のように、教会の中での罪に対して「まあいいじゃないか」という寛大さを示してしまうことがあります。しかし、これは新約聖書の説くところの内容ではないのです。本当の愛があるのなら、罪を犯しているその人に直接働きかけ、カウンセリングをするなり、忠告をするのが聖書的な対応法なのです。それでもその人が改めないのであれば、役員会などにかけ、最悪の場合は除名することも考えなければなりません。

 子供をしかるとき、いつも「まぁ今回は許してあげるから、次から気をつけなさい」とばかり言っていては、その子が大きくなってからよりひどい罪を犯してしまうことになってしまいます。したがって、愛を持ってその子をしかることが必要なのです。間違った行いをし続ける教会員に対しても、同じような愛を持った対応が必要なのです。

 私がケニヤで宣教師をしておりました間、残念ながら4人の方を懲戒処分いたしました。これらのうちの半分の方は、それがもとで教会に対して悪い行いで報いましたが、残りの半分の方は悔い改め、正しい行いをするようになりました。また、それと同時に他の教会員も、教会の姿勢を確認し、正しい行いを心がけるようになったのです。あまり厳しすぎるのも問題ですが、時には確固たる姿勢で臨むことは大切なことなのです。


 6〜8節では、パン種とパンをたとえとして、問題を持った信徒をそのままにしておくことが、いかに教会に悪影響を及ぼすかについて説明されています。ここでは、良くないことをし続ける教会員は古いパン種にたとえられています。パン種とはイースト菌のことです。これが少しでもこねた小麦粉に入っていますと、中で増殖してあっという間にパンが膨らんできます。膨らんだパンは、食べればおいしいものですが、当時は防腐剤などがなかったため、腐りやすいものでした。

 これに反しパン種を入れないパンは、長い間取っておくことができます。このパン種を入れないパンは、ユダヤ人が出エジプトの際に作って携帯し、しばらく荒野で食べたものです。彼らは急いでいたため、パン種を入れたパンを作ることができなかったのです。

 ユダヤの重要なお祭りである過越しの祭りでは、出エジプトの記事を思い起こすため、種なしパンを食べることになっています。こういう背景があって、ユダヤ人またそこから改宗した者が多かった初期のキリスト者たちにとって、この種なしパンは聖なるものの象徴であったのです。つまり古いパン種を除くべしとは、教会を聖なるものに保ちなさいということを意味しているのです。


 ここまでお話を聞いてきて、どうか教会と言うところは、窮屈なところだな、と思わないでください。良く理解していただきたいのは、我々の努力ではなく、神がキリストをこの世に送られたことによって、我々がきよめられ、教会が聖なるものとされたということです。教会はあくまでキリストによって聖なるものと保たれるのであって、自らの修行や修練によってきよくなるものではないのです。

 このことと関連して、7節では「私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです。」ということばが出て来ます。過越しの祭りの起源は、出エジプトにあります。この時、エジプト国内の第一子は皆神様が使わした天使によって殺されましたが(映画「十戒」にも出ていた)、あらかじめ主から命じられたとおり、かもいに小羊の血を塗っていたユダヤ人の家はその災いを免れました。これが「過越し」の意味です。

 ここでは、過越しのいけにえとして、小羊イエス・キリストが取り上げられています。これは大変意味深いたとえです。なぜならこのたとえは、出エジプトの際、小羊の血を塗ったかもいを天使が過越したのと同じように、小羊イエス・キリストの血は我々の罪を除き、来るべき審判の過越しを得るというものだからです。今一度このことによって、我々と教会がきよいものとされていることを確認しましょう。


 人間はこのようにキリストによって聖なるものとされますが、残念ながら罪に堕ちやすい存在です。これはすでにきよめを得たというキリスト者でさえあり得ることです。私は実際、大変立派なあかしをした信徒が、女性問題で全てを失った例を知っています。

 したがって、どの様な人も謙虚に神による働きを求め、いつでも主イエス・キリストの十字架に立つ信仰を持たせていただくことが大切なのです。


 今日の世は、性的に乱れた世であり、様々な悪いことが氾濫している状態です。性そのものは、聖書では悪く書かれているものではありません。むしろ特定の男女の人格の結びつきに大切な行為として、神様もこれを祝しているのです。しかし、ひとたびこれが間違った方向に用いられるとなれば、それは重大な罪に結びつくのです。主に喜ばれる姿を保っていくことが、大変重要なことです。


 8節でパウロはコリント教会員に、「パン種のない純粋で真実なパンで祭りをしよう」と勧めています。この「純粋」ということばは、「太陽に透かしてみても大丈夫」と言う意味を持つことばが用いられています。これは、陶器などを売る店で、客がその器が良い物かどうか太陽に透かしてみて、傷やひびが入っていないことを確認したときに用いることばです。

 どうか皆さんも自分の姿を太陽に透かしてみてください。そして、ひびのない「純粋」なものかどうか吟味していただきたいのです。私は、人間である限り誰も完璧な人はいないと思います。しかし、キリストの血によって全ての傷やひびが埋められ、「純粋」なものとされているのだという確信を新たに持っていただきたいと思います。そのような信仰に立って、この乱れた世にあってきよきを示していただきたいと思います。


Editied and written by K. Ohta on 981012