礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年10月18日

第1コリント書連講(12)

『聖なる教会』(その2)

竿代 照夫 牧師

第1コリント5章6〜13節

中心聖句

 11私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのようなもとはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。

(11節)

教訓:イエス・キリストによって聖なるものとされる教会


導入

 今日はイムマヌエル総合伝道団の創立記念礼拝の日でありますので、賛美歌を創立者である蔦田二雄師作詞のものから選ばせていただきました。先週のジョイフル・アワーから新しく来られている方もおられるでしょうから、ここで簡単に当教会・教団の置かれている位置付けについてまとめ、それから先週の続きとなるコリント書の学びに入って参りたいと思います。

 キリスト教会の誕生はおよそAD30年と言われております。ここからしばらくは初代キリスト教会の営みが行われ、それが古いカトリック教会に受け継がれました。これが、ローマ教皇の神性と無謬性を主張するローマ・カトリック教会(西方教会)と、現在ロシア・ギリシャに分布するギリシャ正教会(東方教会)に分離いたしました。その後、ローマ・カトリック教会の中から、マルチン・ルターなどの宗教改革により、聖書の権威・信仰による救い・万人祭司を説くプロテスタント教会が派生いたしました。そして、プロテスタント教会である英国国教会から、ジョン・ウエスレーのリバイバル運動によってできてきたのが、メソジスト教会であり、その中においてウエスレーの働きの原点である第2の聖化の転機について強調をおいたのが、ホーリネス教会です。私たちは基本的にはこの、キリスト教・プロテスタント・メソジスト派・ホーリネス教会の立場を取っている教会です(下記図参照)。

 

 インマヌエル教団は蔦田二雄(つぎお)師という一人の器を通して、神の働きにより、戦後の日本に設立されたキリスト教団です。ロンドンへの勉学に向かう船の上で、新生経験・福音宣教・聖化の重要性を知った蔦田二雄師は、日本に戻るとその体験をもとにキリスト教の伝道活動を行っていました。

 太平洋戦争時代、単に信仰を持っているというだけで、多くのキリスト教牧師が迫害・投獄されましたが、蔦田二雄師もその例に漏れず投獄されました。師はその中で「神我とともにいます(インマヌエル」という体験を得、戦争終了とともにそのビジョンのもとに、聖書をまじめに信じ、本当に清い生活を送る人々の教会、そして海外までキリストの福音をのべ伝える教会を建てあげようとしました。

 当初船橋でその働きは開始されましたが、やがて本部は東京の丸の内に移り、当教会の前身である丸の内教会が建て上げられました。神様の祝福のうちに、全国に教会は広がり、現在では123の教会が日本国内に存在しています。また、海外宣教地も与えられて、宣教師を送り出しています。

 丸の内教会はその後この広尾の地に場所を移し、現在の主都中央教会となっているのです。(首都が「主都」となっているのは、この東京が主イエス・キリストの働きの中心となるようにという願いが込められています。)

 この教会は、きよめの信仰(人間の持つ罪への傾向性の打破)と、宣教の働きを大切にしている教会です。これはいわば創立時から継続して受け継いでいる、私たちの財産でもあります。

 21世紀を控える今日、この財産を生かしつつも、この主張を単なるモットーではなく、より具体的に実践していくことが期待されています。それには、福音の原則を変えることなく、時代に届きうる新しいるタイプの活動を行っていくことが大切なのです。


 コリント書の連講においても、この福音ときよめの実践という目標が込められているのです。先週は5章から、教会内に存在した不品行の現実に対するパウロの厳しい姿勢を学びました。ここでは、教会においては不品行を言うことはあってはならない、また、それに対して「まぁ、いいじゃないか」という誤った寛容を持って臨んではならない、ということを学びました。そしてこの問題の解決は、個人の努力ではなく、主イエス・キリストの十字架における贖罪によって行われるものであること、またその力は問題解決に十分であることについても学びました。今週はこれに引き続く箇所について、学んでみたいと思います。
 9節でパウロは、「私がまえにあなたがたに送った手紙で、不品行な者と交際しないようにと書きました。」と書いています。彼はコリント人への手紙第1の前にも手紙を書いていたようですが、その手紙は残念ながら失われてしまったようです。

 ここでパウロが書いている「不品行をする者と交際するな」というのは、そういう人たちと交際することで悪い影響を受けてしまうからです。「朱に交われば赤くなる」ということばがありますが、人間は周囲の影響を受けやすいので、自分のみをおく環境や交友関係には注意しなければなりません。

 10節ではその極端な姿勢を戒めることが書いてあります。つまり、世の中の問題ある人たちと全く交際しないというのは、間違っているというのです。事実そのようなことをしようとすれば、修道院僧アーミッシュ(映画、刑事ジョン・ブックに出てくる、昔からの宗教的生活を今でも守っているアメリカのキリスト教派)の人々のように人との交流を絶って生きるほかないでしょう。それは多くの人にとって無理というものです。また、そのような閉ざされた世界に閉じこもっていては、福音伝道の機会はないと言っても過言ではありません。

 9節と10節で使われている言葉を注意深く見てみますと、同じ「交際」でも9節のものは「お互いに重荷を分かち合う」という深いつきあいをさすのに対し、10節のものは「軽いおつきあい」程度の意味を持つことばになっています。したがってパウロが言っていることは、キリスト者の中で不品行を行うようなものと、親密なつきあいをしてはならないと言うことであり、世間一般との交際を絶てといっているのではないのです。

 ここで主イエスがその生涯の最後には「主税人・遊女の友」と呼ばれていたことを思い出してみると良いでしょう。主イエスはこういう社会からさげすまれていた人たちを避けることなく、それらの人の心にふれて福音を伝えていったのです。しかし、だからといってそれらの悪に同調するわけではなく、その罪を憎み、しかし人には寛大であったのです。

 このように、世間の未信者の人たちとのつきあいには、必要だからという消極的なつきあい方だけでなく、もっと積極的なつきあい方があるのです。世の人たちがそれこそ不品行を行ったり、貪欲だったり、偶像崇拝をしたりしても、それは神様の光がまだ当てられていないからで、そのようなことが悪いことだと十分知らされていないからなのです。私たちは、そういう方に神様の光を当て、良心の意識を芽生えさせ、良い影響を与えることができるのです。

 しかしだからといって、罪の中にどっぷり浸っている人と家庭をともにするようなことは、非常に困難なことであり、また危険性を伴います。したがって、その世界に引きずり込まれないようにする工夫は必要です。


 11節では、「兄弟姉妹と呼ばれている者で」という書き方がしてあり、10節と同じような「不品行、貪欲、偶像崇拝、略奪する者」があげられています。しかし、よく見ますとそれに加えて、「人をそしるもの」「酒に酔うもの」という項目が追加されています。これは、コリント教会の信者の中にこういうリストに載るような人物がいたことを意味しています。

 「兄弟姉妹」とはキリストの十字架によって贖われた人間を指すので、これらの人たちはその救いの意味と、その恵みの力を十分知っている人と言うことになります。つまり、そのような人たちは、たとえどんな罪深い身でも、悔い改めて主に救いを求めれば許されると言うことを知っているのです。にもかかわらず、このような罪を犯すことは、重大な背信行為といわざるを得ません。

 パウロは、そのような者とはつきあってはならない、場合によっては除名することも考えなければならないといっているのです。それはこういう人たちを残すことで、教会全体に悪い影響が及び、教会全体の霊的ポテンシャルが低下するからなのです。現実的は、いきなり除名するのは難しいことであり、その前に愛を持ってカウンセリングをするなどして十分に回復のチャンスを与え、それでも改めないときは除名をいとわないと言うかたちになります(ガラテヤ1:6)。


 最後に、これまでの話しに関連した二つの質問と、その答えについてまとめてみたいと思います。

Q1)不品行や男女関係などの内容は教会の礼拝で取り上げるべきではないでしょうか?

答え) 聖書とは現実の問題に即して、実に率直に書かれているものであり、そのような問題を避けることを勧めていません。100%聖書のことばにフランクに向き合うなら、このような問題もまじめに考えていく必要があるのです。

Q2)きよめと言うことについて考えるとき、これらの問題は大して重要ではないのではないか?

答え) きよめと言うことにおいて、この問題は決して小さな問題ではありません。第1テサロニケ4章3節で、「神のみこころは、あなたがたがきよくなることです。あなたがたが不品行を避け、」と書かれています。この部分はギリシャ語の原本では、一つの文章になっている箇所です。つまり、「きよくなる」というところと「不品行を避ける」ということの間にはかなり強い連結があることがわかります。

 また、本当にきめられていれば、そのような性的な誘惑に心惑わされることもないので、きよめにのみ心を向ければそのような問題は解決できる、と主張する人もいます。しかし、残念ながら、きよめられたからといって、誘惑から完全に隔離されるというようなことはないのです。きよめられていても、注意しないと再び罪の中に落ち込むと言うことはあるのです。

 このような点を理解しておかないと、1)禁欲主義か、2)偽善(ダブルスタンダード)に陥りがちです。禁欲主義は、世の誘惑を絶つために、町を歩くときに目をつぶって歩くというようなものです。偽善は、教会ではきよい人を装っているが、実際はそうでないという裏表のあるクリスチャンになってしまうことを指します。

 このポイントは非常に大きな罠になります。つまり、こういう事を隠していては、本来あるべき神様との関係を保つことができなくなってしまうのです。私たちは、どの様なことでも神の前にさらけ出し、真に神に祈ってその問題を解決していただかなければならないのです。

 神様は真実な方ですから、そのような率直な姿勢に対し、大いなる恵みを持って答えて下さります。なぜなら、私たちがきよくなることを、神様は切に願っておられるからです。

Editied and written by K. Ohta on 981020