礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年10月25日

『堅固な青銅の城壁とする』

井川 正一郎 牧師

エレミヤ記15章10〜21節

中心聖句

 20私はあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。−主の御告げ。−

(20節)

教訓:主によって強められ、困難を乗り越える


導入

 今日は取り上げますエレミヤ記は、理解しやすいものではありません。ここには危機に瀕するユダ王国において、苦難と葛藤に悩む預言者エレミヤの心情告白も含まれており、良く理解するには時間を要する箇所であるといえます。

 先ず簡単にエレミヤ記の背景を、OHPを使って御説明いたします。

 エレミヤ記が書かれた時代は、二つに分断したイスラエル民族の国家のうち、北のイスラエル王国はすでにアッシリアによって滅ぼされ、残った南のユダ王国も、アッシリアに続いて覇権を得つつあったバビロニアによって、徐々に制圧されつつありました。

 そして、紀元前580年には最後まで残ったエルサレムもとうとう陥落し、バビロニア王ネブカデネザルの手に落ち、ユダの人々は多くがバビロニアに補囚として連行されていきました。

 エレミヤ自身については、非常に若い頃(19〜20才)に召命を受けた預言者です。彼は余り気の進まない使命を帯びていました。それは、ユダ民族が悔い改めなければ、バビロニアに屈するしか道はないと、ユダの民に説くことでした。

 彼はこれを大胆に説いたため、当時バビロニアに拮抗しようとしていたエジプトと連合を組むことでこの危機を逃れようとしていたユダの民からは「売国奴」「偽預言者」と呼ばれるほどでした。

 このような仕打ちを受けたエレミヤは、その使命を忠実に果たしながらも、神と民の狭間にたって、苦悩し、葛藤しました。他の預言書にないような預言者の心情吐露がエレミヤ記に見られるのは、このためであると思われます。

 今日取り上げます箇所、特に中心聖句の20節は、そのような苦難を抱え、葛藤するエレミヤに対する神様からの励ましのことばです。これと呼応するように、この直前の18〜19節では、エレミヤの召命時に与えられたことばが、再び示されています。

 今日を生きる私たちも、大なり小なりこのエレミヤと同じような苦しみを味わい、悩み、葛藤しているのではないでしょうか。今日のメッセージは、そのような方への励ましであり、慰めになっています。

 それでは、神様がなぜここでエレミヤに冒頭のことばを持って慰め、励ましたのか、その理由を3つ取り上げてみたいと思います。


1)エレミヤがおびえないため

 エレミヤが召命を受けるとき、神はエレミヤに「彼らの顔におびえるな」(エレミヤ記1章17節)と語っています。これはユダヤの民にとっては聞きたくもない忠告、即ち「敵に降伏せよ」というメッセージを伝えることになるエレミヤが、必ずや直面しなければならない批判に対し、神様があらかじめ「おびえるな」と忠告しているのです。

 実際彼はその後、民から売国奴と呼ばれ、大変な非難を受けました。ユダの民は、彼の言うことにほとんど耳を傾けることはなかったのです。しかし、そのような民に恐れることなく、使命を果たせ、と神様は勇気付けておられるのです。

 この励ましを象徴するのが、今日のポイントとなる「青銅の城壁とする」ということばです。神様はエレミヤの召命時にもこのことばを使用し(1章18節)、そして冒頭の箇所で彼が弱気になったとき、再びこのことばを用いて彼を励ましています。(後者の場面では、彼は自分が生まれてきたことすら悔やんでいるほどでした。)

 信仰を持つ者はこのように外側の人から誤解や中傷、圧力や挑戦を受けることがあります。このようなときに外部の圧力以上に問題になるのが、信仰者自身の心の葛藤であり、悩みであるのです。しかし、神はそのような信仰者をみことばを持って励まし、力づけて下さるのです。

 また、神様は悩み葛藤する私たちに、問題解決のポイントを教えて下さいます。ここではエレミヤの「私の痛みはいつまで続くのでしょうか?」という問いに対し、神様は「心を沈めたり、卑屈になるな。卑しいことを口にするな。」と答えられ、そして「尊いことを言えば、あなたは私の口のようになる」と解決の方向性を示しておられます。そしてその上で、エレミヤに「青銅の城壁」にすると、強い励ましのことばを続けておられるのです。


2)神ご自身のみわざを推進するため、エレミヤを用いたかったから

 神様はご自身の計画の推進のため、まさにエレミヤという人物を必要とされていたのです。ここで言う神のご計画とは、ユダヤの民をバビロンに引き渡し滅亡させることではなく、バビロンの補囚を通じて彼らの信仰をを今一度鍛え、神の近くに引き戻すことでした。当時これを理解し、民に向かってそれを説くことができたのは、エレミヤをおいてほかにいなかったのです。

 このように、私たち信仰者は時代時代においてそれぞれが神からの使命を受け、その為に生かされているのです。エレミヤでなければできない仕事があったように、私たちにも私たちでなければできない仕事があるのです。

 神はエレミヤに妻や子供を持つことを禁じられました。これはそれほどまでに彼が神のご計画に必要であったからです。私たちもこれほどとは言いませんが、その使命をしっかり意識して生きて行こうではありませんか。


 3)エレミヤを常勝の器とするため

 先週の祈祷会で主牧先生がロマ書8章から、「圧倒的な勝利者」と題してメッセージをされました。私もこれに大変励まされたものです。信仰者はこのように「圧倒的な勝利者」でありまた、「常勝」の者なのです。「青銅の城壁」とはまさにこの「常勝」を象徴することばです。

 この青銅という金属は、12節でも取り上げられているとおり、強固なものの象徴です。しかし、12節では同じように鉄も挙げられています。ではなぜ、ここでわざわざ「青銅」という金属が指定されているのでしょうか?理由を、取り上げてみたいと思います。

 i)堅く耐久性が高い:青銅という金属は、銅9に対し、錫1の割合で混合した合金であり、強度が高くまた耐久性にも富んだ物質だそうです。したがって「青銅の城壁」とは、「敵が来ても跳ね返すほど強い」というイメージを表しているのです。

 ii)内側からさびにくい:青銅はこの当時としてはもっとも耐腐食性が強い金属でした。つまり、内側からの錆に強い金属なのです。特に当時はステンレス鋼などはありませんから、鉄より腐蝕には強かったのです。

 そもそも城壁が崩れるのは、敵からの攻撃そのものより、内側の組織の乱れや内紛といった内的問題によって崩れるケースが多いものです。こういう事から守られると言うことの象徴として、「青銅」という金属がここで用いられているのです。

 iii)日常的に用いられていた金属:青銅はBC1500年頃から盛んに使われていた金属でした(青銅器時代)。これに対し、鉄は武器用、金は装飾品や富の象徴でした。つまり青銅という金属が用いられているのは、エレミヤに日常的な存在として奉仕をして欲しいと言うことの象徴になっているのです。これは普通の人と同じ状態、つまり「普段着の聖徒」として「常勝を得る」ということが込められているのです。

 またこれは別の見方をしますと、皆さんの誰もがエレミヤと同じように「青銅の城壁」とされ、常勝のものとされることができる、ということを意味しています。


 最後に、実生活への適用を見て参りましょう。

1)一回一回その都度、神の臨在・保障・約束を確認しましょう。

ピンチになるほど、神が臨在され、私たちとともに居られることを確認しましょう。神様は常に、私たちをぎりぎりのところで助け、強めて下さるのです。このステップを経るごとに、信仰から来る勇気と力が与えられるのです。今週、この神様の保障とみことばの確認をいたしましょう。

2)直面している課題から逃げないで、神の使命を果たしましょう。

外側からの圧力に屈してはなりません。苦しいときは、自分なんかいなくなってしまえばいいと思いがちですが、しかしそこから逃げずに進むとき、神の働きにより絶対の守りと、最終的な勝利が与えられるのです。


Editied and written by K. Ohta on 981025