礼拝メッセージの要約(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
98年11月1日
第1コリント書連講(13)
『教会の自浄能力』
竿代 照夫 牧師
第1コリント6章1〜11節
2あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえも裁く力がないのですか。 (2節) |
導入
教会は多くの人々が集まる所である以上、いろいろな課題や問題が起こり得る場所であります。しかし、そのような問題が起きたとしても、教会にその問題を解決する自浄能力が備わっていれば、その問題解決を通じて教会がより成長し、前進していくのです。
自然界の水の流れには沼のようなものもあれば、絶えず流れる川のようなものもあります。川は絶えず水が流れているため、汚れが生じてもやがてそれが流され、きれいになっていきますが、水の滞っている沼では、一度汚染が進むとなかなか水がきれいになりません。いきいきと成長し続ける教会は、この川のような存在であり、水が滞って汚くなってしまうことがないよう、絶えず自浄作用が働いているものです。
例えば、キリスト教が出来立ての頃の初代教会では、教会での愛餐に絡んだ問題が生じましたが、教会員の真実な祈りによってその問題は解決し、それを通じて教会の新たな前進につながっていったのです。
ところが、パウロによるコリント人への手紙を見ますと、コリント教会にこの自浄能力がもはや伴っていなかったことがわかります。とくに今日取り上げます箇所では、パウロは教会員に生じた金銭問題を通じて、この自浄能力の問題をコリント教会員たちに問うています。
では先ず、コリント教会にどんな問題が起きていたのか見て参りましょう。1)教会員間で不正を含む金銭上の問題が生じた(8)。
コリント教会では、教会員の中でどうやら金銭上の問題が生じ、しかもその過程に不正があったようです。どうして聖なるものであるクリスチャン同士でこのようなことが起きてしまったかと言いますと、「兄弟愛」というものに対する一種の誤解があったからのようです。
「与えるものは幸い」ということばは、キリスト教では大切な教えの一つですが、これは与えるものが相手に対して愛をもって行うことを指しています。ところが、これをしてもらう側が言い出したらどうなるでしょうか?具体的に言いますと「クリスチャンなのになぜくれないのか?」と言われるようなものです。また、お金の貸し借りの際に、返すべき時期が来ているのに「クリスチャンだからすぐに返さなくてもいいだろう」と言う甘えを持ったりするようなことです。
このようなことは、兄弟愛に対する誤った理解があるが故に生じる事です。主イエス・キリストは、返すべきものを兄弟愛の故に返さなくて良いなどとはおっしゃっておられません。
2)問題解決を教会内で図ることをせず、いきなり外部に訴えた(1節)
コリント教会のさらなる問題は、この金銭問題を教会内部での話し合いや調停を経ずに、いきなり外部の法廷に持ち出したことです。
パウロはコリント教会員がどうしてこの問題を教会で「正しくない者(1節)」とか「無視される者(7節)」と考えられているような、コリント市民の裁判に持ち込んだのかと激しく非難しています。
これには理由があります。この当時の裁判は、いわゆる市民の集まりによる集合裁判というもので、裁判官は市民の中から選ばれ、しかもその金額の大小に応じて人数が決まりました。多い時に裁判官は1000人を越えたそうです。つまり、一般市民参加の下、その争いごとの一部始終が討議されるわけです。
コリント教会の金銭問題は、このような市民裁判に持ち出されたので、その教会内での問題がおそらく多くの市民の評判になり、そして教会の評価は大きく失墜していたものと思われるのです。これを評してパウロは「みなさん(教会)の敗北」とまで言っているほどです(7節)。
これに対するパウロの処方箋はどの様なものだったでしょうか?4つのことが述べられています。1)キリスト者の権威の確認(2〜3節)
マタイの福音書19:28にも見られますように、キリスト者はこの世の人々を裁く(善悪を識別する)能力を持っています。これは神が我々にプレゼントされた能力です。
こういう判断能力を神から与えられているのに、教会内で問題が生じたとき、その善悪の判断を外部の非キリスト者に委ねるのはどういうことか、とパウロは問うています。
私たちはこのような善悪を識別し、弁別する能力があることを確認しておくことが必要です。この能力は教会自浄能力を与えるものです。
2)知恵を用いる(5節)
これは上の項目に通じるものですが、私たちは問題を解決するために手段や方法について、神様からあらゆる形で知恵を頂くことができるのです。これは正義に基づいた正しい方法によるものであり、ある時は人間の常識を越えた働きによって達成されるものです。
3)柔和さを働かせる(7節)
パウロは7節で「なぜあなたたちはだまされていないのですか」とか「不正を甘んじて受け入れないのですか」と語っています。これは、このような問題に対しての一つの方策として、実践としては難しいですが、主の寛容を示して正義を明らかにすることもできると言っているのです。
これに関して、創世記26章のイサクの井戸のことが思い起こされます。イサクの頃、井戸は掘った者の所有になる掟がありました。ところがイサクが掘った井戸に、ゲラルの羊飼いたちがやってきてそれは自分たちのものだと主張し、イサクはそれを明け渡しました。別の場所でまた井戸を掘ると、またゲラルの羊飼いたちがやってきて自分たちのものだと主張し、その井戸もイサクは譲ったのです。
しかしイサクは三度目に掘った井戸(レホボテ)は、自分のものにすることができました。そして、「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」と言ったのです。
ただこの方法は注意深く実践する必要があります。この方法はあくまで限定的に行われるものであるのです。キリスト者だからと言っていつでもその権利を放棄して譲ってしまっていては、私たちは生きていくことすらできないでしょう。
このような方法は信仰によって次の方策が明らかに示され、それを譲ることが主の栄光を賛美する結果を生む場合のみ行われるべきことです。この時には、嫌々譲るような形にはならないものです。また、イサクの例でも明らかなように、譲ったことでその相手に神様の力が示されることになるはずです。
4)きよさを求める(8〜11節)
8節以降でパウロは、キリスト者はイエス・キリストの十字架の血によって罪を許され、聖なる者とされている、にもかかわらずあなた方はまた罪の中にいる人たちと同じような生活に戻ろうとするのか、とコリント教会員たちに叱責のことばを向けています。そして、そういう不正を引きずりながらキリスト者を名乗るべきでないと語っています。
9〜10節では様々な悪を行うものがリストアップされています。すでに取り上げた5章10節と比べてみますと、新たに「男娼となる者」と「男色をする者」と言うホモ・セクシュアルな人々も加えられています。このように、コリントという町は非常に不道徳に満ちていた場所であり、そこに住んで居る教会員たちもかつてはそのような不道徳にどっぷりと浸かっていた人たちだったのです。
これをさしてパウロはコリント教会員たちが「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。」と書いています。実際には教会員ほとんどがそうだったのでしょう。それほどコリントという場所は堕落した都市だったのです。
しかしこの話を2000年近く昔の話しであると思ってはいけません。私たちが住む東京も、このコリントとどこが違うと言うのでしょうか?ここで取り上げられている問題は、すべてメディアなどで日常茶飯事のこととしてとりあげられていることです。我々もコリント教会員と同じように、こういう社会の悪い影響を受け得ることを、良く認識しておくべきです。
11節の最後で、パウロはキリスト者が主イエス・キリストの御名により聖なる者・義なる者とされたことを確認しています。こういう存在であるはずなのに、どうして現実の姿とギャップが生じてしまうのか?パウロはこの問いかけをコリント教会員たちにしながら、そのギャップを埋めるのはキリストの十字架を自分の身に当てはめ、そこへの信仰に生き続けることである、と説明しているのです。
私たちはお互いに助け、愛し合うべきです。このことはキリスト者の大きな美徳の一つです。これにより、ローマ皇帝がキリスト教迫害をあきらめた時、「見よ。クリスチャンたちは以下にお互いを愛し合っているかを。この愛にうち勝つことはできない。」ということばが皇帝から出て来たのです。
ですが、これには一つ注意が必要です。もし助けるべき相手に、甘えや不正、正しくない動機があれば、それを愛をもって戒める必要があると言うことです。
つまり何か問題が起きたときに、教会員同士で愛をもってけん責しあうことができるようになっていなければなりません。これが本当の愛というものであり、そこに教会における愛と厳しさの調和が保たれるのです。どうぞその意味において、全ききよめと愛に生きる者になっていただきたいと思います。そして、教会を真の愛の実践の場とさせていただきましょう。
Editied and written by K. Ohta on 981101