礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年11月8日

第1コリント書連講(14)

『体をもって神の栄光を』

竿代 照夫 牧師

第1コリント6章9〜20節

中心聖句

 19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体をもって、神の栄光を現しなさい。

(19〜20節)

教訓:自分の体をもって神の栄光を現す


導入

 前回はコリント書に書かれている金銭問題から生じたクリスチャン同士の争いを通じ、教会は愛の共同体であるが、その愛に持たれあって不義理をしてはならないことを学びました。

 今日の箇所ではパウロは再び不品行の問題に戻って参ります。今日のポイントは最後の20節の言葉であり、ここをゴールにお話を進めて参りたいと思います。


 先ず12-14節の箇所では、キリスト者の行動に関する原則が述べられています。パウロはここで、「キリスト者は全てをする自由を持っており『してはならない』『すべきだ』と言う規範のかたまりのような存在ではないこと。これはキリスト者の行動規範が、全て信仰を土台にしているからであり、律法や規範の上に乗っているものではないからであること。しかし、その行い得る全ての行動が益となるわけではなく、神への信仰に生きるなら、自ずとその行動が他者或いは自身に対して益(単なる利益ではない)となる方向に動くものである。また、肉体がもたらす欲望の虜になったりしてはならない。」ということを言っています。

 13節では「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言う一見すると理解しがたいことが書かれています。これは、肉体と性的欲望が不可分なものであると言うことを暗に示すことわざなのです。

 つまり、肉体がある以上、そこに性的欲望はついて回るのです。これはきよめられた人であっても例外ではありません。きよめを受けたからといって、性的欲望から解放されると言うことはないのです。

 元来こういう欲望は神に祝されたものであり、正しく用いられるべきものです。問題は、その欲望を間違った方向に用いたり、間違った場所で用いることにあるのです。

 13節では引き続いて、我々の身体が不品行を目的としたものでなく、神の目的のための存在であることが書かれています。これはさらに発展して、私たちの身体はキリストの身体の一部であるとか書かれています。

 これは来るべきキリストの再臨において、私たちの肉体がその復活にあずかることと関連があります。その時天国では、私たちは全く異なった姿形で現れるのではなく、現在の肉体を反映した姿で、お互いに識別可能な状態として現れます。したがって、イエスがよみがえられるとき、私たちの身体はきよくなっていなければならないのです。その身体を、欲望に引き渡してはならないと言うことです。それが、「あなた方の身体は、イエス・キリストの身体の一部であることを、知らないのですか」と言う表現になっているのです。


 そしてこういう事を知っていて、遊女と遊ぶことがどういうことを意味するか16節に書かれています。コリントという町は、大変乱れた町でしたので、実に多くの遊女がおりました。したがって、コリント教会員たちもキリスト者とはいってもこのような遊女との交流があった様です。

 パウロは、遊女と交わるというのは、その遊女と一つからだとなると言うことを述べ、キリストの身体の一部を遊女と一つにするのですか、とコリント教会員たちに警告しています。つまり私たちの身体=キリストの身体なのに、そこに遊女を取り込んでしまうことをすれば、それは神に対する裏切り行為になると言うことになるのです。

 男女が交わると言うことが、一心同体となると言うことは、マタイの福音書19章4〜6節に書かれているとおりです。ここでは夫と妻が結ばれることで、一心同体になると書かれています。したがって、遊女との交わりは、この一体となった妻に対する冒涜にもなるのです。

 また、夫婦というのは、このように神のもとに一体化した存在であるので、勝手気ままに離婚することも許されていません。ケニヤなどでは一夫多妻制が社会的常識になっているところもあり、こう言うところでこの話をすると、いろいろな議論が起きてきます。あるケニヤの教会では、一夫多妻制を旧約聖書の事例から容認していますが、私はこれは違うと思っています。その理由の一つはここに書かれていることですが、聖書のほかの場所にも別の理由が記されています。それは宿題にしておきますから、各自探しておいてください。

 離婚同様に、浮気不倫などをしたり、遊女と関係を持ったりすることも、聖書のどこにも許されることだと書かれていません。このようなことは現代において少し古くさいのではと言う人もいるでしょうが、どんなに時代が変わっても、人間が神によって作り出された目的は不変です。世間がこのような不品行をどの様に美化しようとも、不品行は不品行であり、神を冒涜するもの以外のものではないのです。

 不品行がこのように重く問われる罪である理由は、その罪が身体の内側を汚すものであるからです。このような罪は時に様々な警告をもたらしますが、HIVによるエイズなどもこの一例ではないかと思われます。

 ケニヤのナクルでは、入院患者の実に40%がHIVに感染しており、またウガンダでは、ある村丸ごとエイズで死滅したところもあります。このような病は、不品行がはびこる現代社会への神からの警告であるととらえべきでしょう。


 さて、19節に入って参りたいと思います。ここでパウロは、「あなたがたの身体は、・・・聖霊の宮であり、・・・知らないのですか」と書いています。このような表現法は、すでに3節、9節、15節、16節で用いられているものであり、パウロが基本的なこととして強調をおいている箇所になっています。

 この19節と続く20節で、パウロはどの様に身体を用いて行くべきか、方向性を示しています。

 その基本となる内容が、私たちの身体が聖霊の宮であると言うことです。私たちの身体は、神の礼拝や祈りの場として、もっとも基本的な場所なのです。これは聖霊の働きによって、私たちの身体が聖なるものとされているからなのです。

 パウロはさらに私たちの身体は、キリストの血潮という大きな代価を払って神のものとなったと言っています。私たちはそのような貴い身体を、この世にあってお預かりしているわけです。いわば、家宝のように大切なものを、お殿様からあずかっているわけであり、それを粗末に扱うことは許されないことなのです。


 では、神はいったい何の目的で我々の身体を買い取られたのでしょう?その目的の一つは、私たちの身体を通して、神の栄光を現すためにあるのです。神の栄光を現すというのは、もっと具体的に言うと、私たちの活動を通じ、神のきよさ・愛・強さ・恵みと言うのが人々に知らされることなのです。

 具体的な勧めとしては、先ずきよい身体を汚す行いから離れなさい、と言うことが挙げられます。ここでは、私は大丈夫という慢心は禁物です。常にへりくだって神による守りを祈ることが大切です。

 次に、私たちの身体を不摂生から守り、常に良いコンディションにしておくことです。仕事でも何でもやりすぎは身体を痛め、結果的に神の宮を乱すことになります。キリスト者以外の人も最近は健康管理には気をつけていますが、私たちも健康の管理にはこういう意味で気を配る必要があるのです。

 さらには、より積極的に聖霊の宮である体を鍛えると言うこともあるでしょう。このためにスポーツを活用するのはよいことです。中には鍛錬することによって神様の栄光を示すことができる人がいるでしょう。かつてパリ・オリンピックで金メダルを取ったエリクリデンと言う人は、映画「炎のランナー」のモデルになった人です。彼は本来100mの選手でしたが、決勝が日曜日であったためその決勝を棄権し、そのかわりに400mで金メダルを取りました。このことを通じて信仰がどの様なものであり、また信仰に基づいて戦うことはどの様なことであるかを、彼はあかししたのです。

 最後に、第1コリント10章30〜31節に書かれているとおり、日常生活のいかなることにおいても(「食べるにも、飲むにも、何をするにも神の栄光を現しなさい」)、神の栄光を現せるようにつとめることです。学生さんでしたら勉強に、ビジネスマンだったらその仕事に、商売人でしたらその商売に、主婦でしたらその日常の家事において、神の栄光を現すように努めるのです。

 現実はそのように努めても思ったほどの結果が得られないかも知れません。しかし御利益宗教でないキリスト教の語っているポイントは、何かをしようとするとき、そのことに当たってどの様な姿勢で臨むかが問題ということなのです。一挙手一投足に神の栄光が現せるように祈って臨み、祈る者とさせていただきましょう。

Editied and written by K. Ohta on 981108