礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年11月15日

第1コリント書連講(15)

『神第一の家庭生活』

竿代 照夫 牧師

第1コリント7章1〜24節

中心聖句

 3夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。

 4妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは妻のものです。

 24兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

(3,4,24節)

教訓:家庭は潔めを学ぶ最適な学校である


導入

先週はコリント第1の手紙の6章から「私たちの体を、神の栄光をあらわすものとして積極的に用いるべきである」と語らせていただきました。そしてパウロは7章において、それに引き続いた思想として、「結婚」の問題を扱っています。私たちがキリストを主と告白するならば、キリストの主権が私たちの生活・仕事・学びすべてに及ぶものでなければなりません。教会ではイエス様を主としていながら、家に帰ると「私のプライバシーですから、覗かないで下さい」というのではあってはなりません。イエス様が主であるというのなら、生活のすべてにおいて、彼に従うのでなければなりません。そういう意味でパウロは「結婚」の問題を真正面から扱っているのです。


結婚がこれからという方もおられるでしょう。あるいは、すでに結婚されている方もおられるでしょう。結婚生活というのは、家庭生活の基本であり、私たちは無関心ではいられません

パウロがこの問題を取り上げたきっかけを第1節に述べています。「さて、あなたがたの手紙に書いてあったことですが…」とありますように、パウロに手紙が届いたのです。それには、ここには直接書かれていませんが、「結婚はしなければいけないものですか?」という質問が書かれていたのです。

なぜこのような質問がされたかと申しますと、コリント教会のおかれた道徳的な環境が背後にあったのです。コリントは風紀の乱れた町でありました。コリントで救われたクリスチャンは、その反動から禁欲的に走る者があり、そういう性的な事柄から離れることが証しになるのではないか、ということが、この質問の背景にはあるのです。

パウロはその質問の背景がわかっておりましたから、聖書の全体的観点である「結婚は神様の祝福である」と積極的に述べるより、むしろ、「男が女に触れないのは良いことです」(1節)と、彼らの主張を一部受け入れ、「不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。」(2節)と消極的に結婚を勧めるにとどまっているのです。

私の住んでいたケニアでも夫が妻子を畑に残して町へ働きに来るという単身赴任(出稼ぎ)が多かったのですが、年に2、3回しか家へ帰らない場合もあり、夫が色々な誘惑に負けてしまうという事が現実には起きていました。このように、現実としては人間というのは弱いものですから、不品行を避ける意味で結婚の道が備えられているのなら、その道を歩みなさい、とパウロは言っているのです。


3、4節は相互の義務と権利が語られています。「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」3、4節は要するに、肉体的な欲求にわがままになってはいけません、ということです。つまり、自分の肉体的な欲求にわがままに振る舞うのが結婚と考えたならば、とんでもない間違いであり、互いに尊敬し、いたわり、互いに相手に従うのがほんとうの結婚生活であると語っているのです。

来る11月23日、当教会において森下兄と西村姉の結婚式がもたれます。結婚式では、普通であれば、エペソ5章22節から読み始めるのですが、今回は、21節から読み始めることにしました。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(エペソ5:21)これがクリスチャンの人間関係の一般原則であります。このことを念頭において、コリントの手紙に戻ってみます。この手紙が書かれたギリシア・ローマ時代は、男尊女卑の時代でした。男が偉くて、女はその奴隷、子供を産む存在でしかないという時代であったことを覚えていただきたいのです。

家庭生活というのは、1番わがままの出やすいところであります。潔められるということが試されるのは、家庭生活であると思います。教会へ来る時、あるいは会社へ行く時は、きちんとして、背広を着て行くのであります。けれども家庭に戻るときは、背広を脱いでくつろぐのです。その家庭において、私たちがどういう人間であるかということが、実は問われるのであります。わがままであってはいけない、自分の欲求を押し付けてはいけない、自分の体は相手に属するのだ、というパウロの考えは、当時にとっては革命的な教えでありました。当時のみにあらず、今日、家庭を営んでいる私たちにとりましても、また、しかりです。自我に死んでいるだろうか。ほんとうの意味で、おのれの如く隣人を愛するということがどういうことだろうか。それらを学ぶのには、我々がリラックス出来、また、1番くつろげつるところの家庭が適しているのです。パウロはそこまで、光を入れているのです。家庭において、キリストにあるところの生き方が表れることを期待しているのです。

私たちはしばしば自分の不幸を周りの環境のせいにしてしまいます。「私の今の不幸は結婚に恵まれなかったからだ」とか「この人と結婚したのは一生の不作だ」とか「ほんとうはあの人と結婚するはずであった」とか不平・不満を述べるのです。しかし、パウロは召されたときのままの状態に神様の摂理があると言っています。17、20、24節には「おのおの召されたときのままの状態で・・」という言葉が繰り返されています。奴隷の状態で召されたなら、革命を起こしなさい、とは言わず、そのままの状態でいなさい、満足し、主を誉め称えなさい、と言っています。このことは結婚生活にも当てはまります。不作だなどと不平を言うのでなく、主の恵みを感謝することが幸いなのです。


はじめのテーマに戻ります。潔めを学ぶ最適な学校は家庭なのです。自分に死ぬこと、隣人を愛することがどういうことなのかを学ぶのが家庭なのです。さきほどのエペソ5章21節に「互いに従いなさい」とありますが、「従う」ということは「自分を無にする」ことであり、これは、「自分は十字架に付けられた者であるという経験をすること」であります。その意味で私たちの家庭に十字架が立てられていることでしょうか。最もわがままの出易いところに十字架が立てられていることでしょうか。相手が自分の思うようでない場合に、自分に死に、相手に従うことが試されるのであります。隣人を愛することがどういうことかが試されるのであります。

イエス様は、私たちの自己中心のために十字架にかかって下さいました。そして愛を注いで下さいました。その愛を具体的な形で学ぶのが家庭であります。イエス様が家庭の真ん中におられますか。今週の歩みにおいて、家庭の中で、具体的な言葉、行動を通して、互いに従うことを表す1週間でありたいものです。

Editied and written by N. Sakakibara on 981115