礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年11月22日

第1コリント書連講(16)

『ひたすら主に仕え』

竿代 照夫 牧師

第1コリント7章25〜40節

中心聖句

 35ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを拘束しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。

(35節)

教訓:家庭において主に仕える


導入

早いものでもうすぐクリスマスです。ここまで学んできましたコリント書の連講も今回で一区切りをつけ、来月はクリスマスに備える時とさせていただきたいと思います。

日本にはまず最初に「自分」があり、その自分に仕え、役に立つ神様が存在すると考えている人が多くおります。これから年末年始にかけて、いろいろな宗教的行事がありますが、その多くはこういう家内安全・五穀豊穣と言う御利益宗教的な宗教観に基づいているものです。

ところがキリスト教では、先ず「私」より先に「神」の存在があり「私」は神の栄光を賛美するために生かされていると捉えています。これが聖書のヨハネの福音書に「初めに、ことばありき」と書かれているキリスト教の世界観です。

結婚や家庭という身近な問題についても、キリスト教ではこのような神がまず第一と言う立場で捉えます。先週は1〜24節の部分で、結婚・家庭生活において信仰をどの様に持つべきかを取り上げました。 今週も家庭において神第一とすることはどの様なことかについて学んでみましょう。


今日取り上げる箇所は、大きく3つに分けられます。25-35節では独身の男女に対する勧告、36-38節では未婚の娘に対する勧告、39-40節では未亡人に対する勧告を通じ、先週同様、神を第一とする結婚・家庭生活のあり方についてパウロが自らの考えを、アドバイスの形で述べています。

ここでのパウロの意見は、明日結婚式をする方もいるのでちょっとどうかなという気もしますが、結婚に対して消極的なトーンになっています。26節では独身の男は(現在危急の際は)独身のままでいた方が良いと言っています。

しかし、パウロは別の箇所で結婚を勧めています。ではなぜこのような消極的なコメントがされているのでしょうか?いくつかその理由を見て参りましょう。

1)コリントが危急の状態であったから

ここで注意すべきなのは「現在危急の際は」と言う但し書きです。つまりこの当時、普通でない状況がコリントに起きていたと思われ、そのようなときには結婚を急がなくても良い、と言うことなのです。したがって、この勧めはあらゆる場所・時代を通じて適用される原則ではないのです。

2)結婚生活は必ずしもバラ色なことばかりではないから

引き続きパウロは「結婚したからと言って罪を犯すわけではありません。・・・それらの人々は、その身に苦難をもたらすでしょう。」と語っています。

結婚は一般的にはバラ色に彩られた幸せな生活を意味するものですが、現実はそれほど甘美なものではありません。新婚の時にはあばたもえくぼであったものが、やがてはあばたにすぎないことに気がつきますし、また最初は気にならなかった相手の欠点に意識が集中してしまうこともあるでしょう。それ以外にも、経済的な問題や子育ての困難など、結婚生活には多くの困難が現実の問題として存在しているのです。

パウロはここで結婚する人が苦難を受けるから、結婚しない方が良いと言いたかったのではなく、こういう事をしっかり受け止めながら、主にあって結婚生活にはいるべきである、と言うことを語っているのです。

世の中でよくいわれる「結婚したいから」と言うだけで結婚していますと、その現実に向き合うとき、それに耐えきれずに離婚をしてしまうと言うことになるのです。パウロはそのような安易な決断で結婚することに対して、警鐘を鳴らしているのです。

3)今の時は終末に向かっているから

29節でパウロは「時は縮まっています」と言っています。これは終末が近づいていると言うことを意味しています。この縮まるというギリシャ語は「(巻物などが)巻き付いていく」と言う意味の言葉です。「時」は「大きな出来事が起きる時期」と言うことを意味しています。

つまり、世の終わりが接近しつつあるので、もっと主イエスに心を向けなさい、ということを言っているのです。

ただここで気をつけなければならないことがあります。良く終末が近づいたと言って、自分が今日行うことを放棄して、ただ終末を待つという人がいます。

聖書を良く読みますと、主イエスは、そのような形で世の終わりを待つべきではないと教えておられます。むしろ、毎日すべきことを主にあって当たり前に行いながら、世の終わりがいつやってきても良いように備えなさいと言うのが本当の教えです。

したがって、この世の終わりが近いから、結婚もしない方が良い、と言うことがパウロの真意ではありません。そういうことではなくて、結婚ばかりに気が取られて、主イエスに対する心の向け方がなおざりなってしまうことに対して、警鐘を鳴らしていると捉えるべきです。

4)結婚生活には思い煩い・気持ちの分散が伴うから

32節で、パウロは「独身の男はどうやって主に喜ばれるかと、主に心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り...」と語っています。

日本ではそれほどピンとこない内容かも知れませんが、外国、特に欧米では奥さんに対するサービスに旦那たちは大変な気を配るものです。その過程で、主に対する献身が損なわれることがあれば、それは良くないことである、と言うことがパウロが言いたいことになります。かといって家庭を顧みないでいたら、夫婦関係や家庭も崩壊してしまいます。つまり、何事もバランスが大切と言うことです。


これらのことについて言及した後、36節以降でパウロは、未婚の娘を持つ父親に対していくつかの勧告をしています。(この場所は一部の聖書訳では婚約はしているがまだ結婚していない男と捉えるものもありますが、ここではこの新改訳にしたがって未婚の娘を持つ父親を対象にした勧告と捉えることにいたします。)

そのポイントは、「娘に対する気配り・尊敬の心をもて」と言うことです。

この当時は今と違って、娘の結婚に対する全ての権限・鍵は父親が握っておりました。つまり、娘が誰と結婚するかを父親が全て決定することができたわけです。そういう状況に置いて、パウロは娘の気持ちを尊重して気配りをしなさい、と父親に勧めているのです。具体的には娘を尊重して、結婚させても良いし、結婚させずにいても良いと言うことになります。


最後の39-40節では、未亡人に対する勧告がなされています。ここでは、主にあってのみ、再婚しても良いと書かれております。「主にあってのみ」というのは、相手が主を信じていると言うことや、主が認め得る方法と手続きを取っていると言うことが含められております。

このことは未亡人の人だけでなく、これから結婚しようと考えて居られる若い方々にも良く気にとめておいていただきたい内容です。

「主にあって」と言う結婚をこの日本でするのはいろいろ難しいこともあるでしょうが、私たちは皆さんがそのような結婚に導かれますように祈っておりますし、また相談していただければできる限りのサポートをしていきたいと思っています。ですから、こういう事で悩んで居られる方がおりましたら、是非相談に来ていただきたいと思います。


以上のパウロの勧告を通じて、キーとなることばが冒頭の箇所35節の言葉になります。

この部分は、私なりにもとのギリシャ語に忠実に訳しますと、以下のようになります。

「むしろあなたがたが、正しい態度をとり続け、心を分散させることなく、主にできるだけ近づいて仕えられる様になるためです。」(竿代訳)

秩序ある生活を送る」というのは、「正しい態度をとり続ける」と言う意味であり、「ひたすら」ということばには「心を分散させることなく(別のことをあれやこれや考えることなく)」と言う意味が込められています。「主に奉仕」という箇所はギリシャ語では、「主にできるだけ近づいてすわる」と言う意味の動詞が用いられています。

つまり、あれやこれや世のことを考えるついでに、主イエスのことを考えるのではなく、まず第一に主の近くに来て主に心を向けることが大切であるということなのです。喩えて言うなれば、レストランのウエイターやギャルソンのように、お客様である主が何を求めて居られるかを、できる限り近くにいて絶えず気を配っていなさい、と言うことになります。

これと関連する箇所にルカの福音書11章39-42節の箇所があります。ここでは主イエスがマルタという女の家に迎えられます。そこにはマルタの妹のマリヤという女がいました。マルタは主イエスをもてなすため忙しくたち振る舞っていましたが、マリヤは主イエスの足元にすわって御言葉に聞き入っていました。

マルタはこれを不満に思い、イエスに妹に手伝うよう言ってくれと頼みました。そのとき主イエスは、「マルタよ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い法を選んだのです。」と答えられました。

つまり、主イエスはもてなされることより、近くに来てもらって話を聞いてもらいたかったのです。


これまでの話を聞いてきて、皆さんご自分の生活のスタイルを変えたり、結婚を取りやめようとかしないでください。大切なことは主に心を向けることなのです。

その延長線上に、今の生活を取り巻く細々したことがあるのです。このような信仰を持ちますと、ブラザー・ローレンスのように毎日の皿洗いにも主の栄光を賛美することができるようになるのです。極端な行動に走ることを主は臨んでおられません

そして、どうぞご家庭において、「ひたすら主に仕える」と言う姿勢をもってください。このことが本当の意味での家庭における幸福につながるのです。

最後に実際にどの様にすべきかという方法についてお話しいたしましょう。

「ひたすら主に仕える」の英語訳は「分かたれることのない献身・ディボーション」となっています。つまり、「ひたすら主に仕える」ためにはまず、毎日毎日聖書のことばに耳を傾けるときを持つ(ディボーション)ことが必要です。ディボーションを持つことで、あらゆることが主の栄光を賛美するために行うことができるようになります。逆にこれなしで、「ひたすら主に仕える」というのは大変難しいことです。

もう一つは、「家庭礼拝」を継続的に行うことです。家族全体で祈り、聖書のことばに学ぶことで、家庭レベルで「主にひたすら仕える」と言う特権・恵みを得ることができます。

Editied and written by K. Ohta on 981123