礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年11月29日

クリスマス講壇(1)

『この身になりますように』

井川 正一郎 牧師

ルカの福音書1章26〜56節

中心聖句

 38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

(38節)

教訓:「身に付いた信仰」の決心を!


導入

教会はこれより、クリスマスに備えるアドベント(待降節)を迎えます。今日はその最初の講壇となりますので、ルカの福音書の中に記された、クリスマスの出来事の発端の記事を取り上げたいと思います。

冒頭の箇所では、ナザレという町に住んでいた娘マリヤの所に神の御使いガブリエルがあらわれ、主イエスの受胎告知したことが記されています。

この箇所で書かれている「この身になる」と言うことばは、聖書を通じて、またキリスト教を通じて、非常に重要な内容を示しています。それは、「信仰を自らの経験的事実にする」ということです。実はこれなくして、キリスト教の信仰は意味を持たないと言えるのです。

つまり、いろいろ聖書に書かれていることが、誰か他人にとって意味があってもどうしようもないのです。その内容が、「わたし」個人にとって意味を持つ経験となってはじめて、キリスト教の信仰として意味が出てくるのです。

このような「身になる」と言う表現は聖書のあちこちに見られます。例えば、詩篇126編2〜3節では「私たちのためになされた神の御業」と書かれていますし、マルコの福音書5章33節では長血を患っていた女が癒され「自分のみに起こったことを知り」と書かれています。また、使徒の働き3章10節では「この身に起こったことに驚いた」、ピリピ人への手紙1章12節では「私のみに起こったことがかえって」と書かれています。

このように聖書のあちこちでふれられているように、信仰体験とは「自分の身に起こって」始めて意味をもってくるものです。他人様の信仰経験を借りてくるわけにはいかないのです。このクリスマスを機会に是非信仰経験を自分のものとしていただきたく、今日のメッセージを取り次がせていただきたいと思いました。


今日の聖書のことばから、マリヤの信仰の決意の現れを4つの角度から見て参りたいと思います。

1)祝福と災いの両方をこの身に受けていくという決意

主イエスをその胎に宿すということは、大変な恵みであり特権・祝福であることは明らかなことです。

しかし、その反面まだ結婚もしないうちから子供をおなかの中に宿すと言うことは、周囲の目からあらぬ疑いをかけられたりすることもあったのではないでしょうか。

当時婚約していた女性が、不貞を働くことは大変な罪であり、石を投げつけられて殺される可能性もありました。

それとは別に、婚約者ヨセフがどの様に思うかと言うことを考えれば、マリヤの決意が以下に大変なものであったかを想像できると思います。マリヤは、ルカの福音書2章34節では、「剣があなたの心を刺しつらぬく」と言う表現が用いられているほどの苦しみを感じたはずです。

このように神の祝福とは、私たちにとって都合がよいかどうかとは関わりなく、神の意志に沿ったものが達成されると言うことを指すものです。したがって、多くは私たちにとっても都合の良い結果をもたらすのですが、その反面都合の悪いことも起こってくるわけです。

「神の祝福を頂く」ということは、このように自分の都合の良いことばかりでなく、悪いことを含めて、全て神様の御心のまま受け入れると言う姿勢が伴うものなのです。マリヤはそのような心がけで「この身になりますように」と表明したのです。

2)マリヤの一生涯をかけての信仰の決意

マリヤの決意は、単に子供を産むところで終わるものではなく、その後も一生涯をかけて神への信仰を貫く、と言う継続性を含んだ決意の現れになっています。

私たちクリスチャンの信仰では、一時だけの刹那的なものでなく、生涯をかけて信仰を守っていくという継続性が必要になります。すなわち、信仰とはその時限りのファッションやアクセサリーではなく、一生涯掛けて守っていくべきものなのです。また、その信仰が単に心にあるだけでなく、実際に行いや態度に現れていく「身に付いた」信仰であることが期待されています。

3)神のことばに対する信頼の決意

「この身になりますように」ということばは、マリヤに与えられた神様のことばが、本当に自分の身に成就すると言うことを信じきります、と言う決意でもあります。これは言い換えますと、神様の約束に100%信頼し、自分の身を委ねる決意です。

神様の約束に100%委ねきってしまうとどうなるでしょうか?そこには御ことばによる保障がありますので、どんな形になるにせよ、私たちにとって(表面的な意味ではなく)最善の結果が与えられるのです。わかりやすく言えば、任せれば全部神様が責任をとってくれるのです。

ここで興味深い点は、マリヤに向かって神様が具体的な例(不妊の女であったエリサベツが、バプテスマのヨハネを身ごもったこと)をあげて、成就を約束・保障している点です。

実は信仰に伴う決意をするときは、多くの場合こういう具合に客観的事実とことばが与えられ、後はそれを我々の側が受けるかどうか、と言う展開をするものです。つまり、信じたり決断したりという最後の一番大事な過程は、神様は我々の自由意志に基づく判断にお委ねになるのです。これは人間という存在への愛と信頼がなければできないことです。このような「委せなさい」と言う神様の申し入れを受け入れると、そこから神様の働きがどんどん増し加わっていくのです。

4)周りの人への影響を与える決意

まりやは、主イエスを産むと言うことが、イスラエルの民にとってどの様な意味を持つかを知っていました。マリヤは、主イエスが救世主=メシアであり、その誕生がイスラエルの民に大きな恵みをもたらすことを知っていて、その決意を言い表したのです。

この気持ちを良く表す賛美歌の一節に「卑しきこの身を管ともなして」と言うものがあります。これはルカの福音書1章48,50,54節あたりにも書かれていることです。

「私の決断」を通じて、最終的には周囲にも良い影響が及ぼされるのであり、そのことを決意した場面でもあるのです。


最後に実際にどの様にすべきかという方法についてお話しいたしましょう。

1)いつも神様のからの語りかけを期待する。

多くのイスラエルの女からなぜマリヤが選ばれたのでしょうか?それは、マリヤがいつも神様とその語りかけを期待していたからなのです。また、そういう語りかけがあれば、いつでもそれに従います、と言う心を持っていたからなのです。

2)「私」の生活において新しい変化の第一歩を踏み出す。

何事も踏み出して進むことが大切です。そこにとどまって何の変化もなければ、いつまでもそのままなのです。新たな信仰の決断をし、それに伴う変化と成長をさせていただくことが大切なことなのです。

このクリスマス、皆様方に素晴らしい変貌が訪れるよう、祈っております。

Editied and written by K. Ohta on 981203

(風邪と残業のため更新が遅くなりました)