礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年12月20日

クリスマス講壇(4)

『この方こそ主キリスト』

竿代 照夫 牧師

ルカの福音書第2章8〜20節

中心聖句

 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。

 12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

(10〜12節)

教訓:飼葉おけに寝ておられるみどりご、この方こそ主キリスト


導入

2週間前から、私たちの救い主のお名前について学んで来ました。1番最初には、「インマヌエル」とは「神が共におられる」という意味であり、どこか遠くにおられるのでなくして、私たちの心にあられるお方である、とお話ししました。先週は、もう1つの「イエス」というお名前について、「主は救い」であるという意味であり、生涯を通して救いを完成されたお方であることをお話ししました。

今日は、もう1つの職名であるところの「キリスト」について、お話ししたいと思います。


この方が待ち望まれていたお方

初めに「キリスト」の意味ですが、ギリシア語では「クリストス」といい、「油注がれた者」という意味です。ヘブル語では「マシーハ」、英語、日本語では「メシア」が同じ意味です。旧約聖書を見ますと「油注がれた者」とは、1)王、2)祭司、3)預言者の3つの職のことであり、旧約聖書には、この旧約の3つの職を兼ね備えた方がやがて来られるとの預言があり、それが人々の期待となっていたのです。旧約聖書の預言の個所を見てみましょう。

1) 王として

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」(ミカ書5:2)

2) 祭司として

「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(詩編110:4)

3) 預言者として

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)

この旧約聖書のメシア待望をわかりやすい表現で言うならば、次のようになるでしょう。

1) 私たちは王様を必要としています。王様は、私たちのこの世界を公平と正しさで治めてくれるのです。

2) 私たちは祭司を必要としています。なぜなら、私たちは、正しくあろうと思っても自分の弱さゆえ、それが出来ないのです。祭司は、私たちの罪を解決し、なだめの供え物をしてくれるのです。

3) 私たちは預言者を必要としています。預言者は、これが道であり、ここへ進みなさい、と神様の言葉を権威をもって私たちに語ってくれるのです。人間はたとえどんなに経験を積んでも間違ってしまうことがあるものです。今から20数年前、皆、"冷戦"がずっと続くと考えていました。当時、ソ連、東欧の体制がこのように崩壊すると誰が考えたでしょうか。神に任された者は、神の言葉を語るのです。私たちはそういう預言者を必要としているのです。

旧約聖書が書き終えた紀元前440年頃以降、人々は、アッシリア、バビロン、ペルシア、ローマなどにより、民族として踏みにじられ、苦しみを経験しました。1度たりとも独立することは出来ませんでした。その苦しみの中で、苦しみを救ってくれる王、祭司、預言者を兼ね備えたメシアを待望していたのです。そうした期待がありましたので、このニュースは喜ばしいビッグニュースだったのです。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(10節)

イエス・キリストの誕生は、おとぎ話でなく、しっかりとした歴史の中で、ベツレヘム(ダビデの町)で生まれたと記されているのです。この方こそ、皆が待ち望んでいたキリストです。キリストは、あなた方のために来られたのです。感謝しようではありませんか。


この方は驚くような方法で与えられた(キリストは彼らが期待しているような方法・形では来られなかった)

「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」(12節)

生まれたその方をどうやって見つければよいでしょうか。目印は、飼葉おけに寝ている赤ちゃんなのです。しかし、これはあまりにみすぼらしい、人々の期待に反するものでした。

飼葉おけというのは、動物が食べる食器です。当時の宿屋の状況は、人間は宿屋に寝て、動物は、現在でいう車庫(ガレージ)につないでおくのでした。どこの宿屋もいっぱいでした。その中で「うちの車庫なら空いています」と言われた小屋に、イエス・キリストは、力のない、何の抵抗力もないみどり子として生まれたのです。彼らが期待していたようなきれいなベッドに寝ているのではなく、人間として、底の底である、飼葉おけに生まれたのです。


この方こそ主キリスト

私たちは、心が汚れ、無力な弱い者です。しかし、この心に主が宿って下さるなら、試練の中で、主が支えて下さいます。失望のどん底にあっても、希望を与えて下さいます。肉体が弱いときに、いやしを与えて下さいます。人々からののしられた時、慰めて下さいます。私たちが光り輝くものとなれるのです。

神が与えた救いは、心の中に宿るところのキリストなのです。それが、ほんとうのクリスマスなのです。

パウロは「この宝(キリスト)をこの土の器の中に入れているのです」と言っています。私がりっぱな人間になるためではありません。キリストが心に宿って下さるため、私が光輝くのです。イエスさまを心に宿しているとき、キリストのすばらしさが人々に表されることになるのです。また、パウロは言っています。

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)

この方こそキリストです。このクリスマスの朝、皆さんは「この方こそキリスト」という方を心の中に持っておられますか。もしまだの方がおられましたら、「イエス様、私はあなたを心の中に受入れます。」とお祈りしようではありませんか。

すでに、クリスチャンとなった方々も、もう1度、心の中に宿っておられるキリスト、この方こそ私たちの王、祭司、予言者であるとの信仰を新たにする朝でありたいものです。

この朝、キリストを主として心に迎え、喜びを持って立ち上がりましょう。

Editied and written by N. Sakakibara on 981221