礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年12月27日

『門がひとりでに開く』

井川 正一郎 牧師

使徒の働き12章1〜17節

中心聖句

 10彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んでいくと、御使いは、たちまち彼を離れた。

(10節)

教訓:神の法則を守るとき、御業はなされる


導入

早いもので、今日は一年の締めくくりの礼拝になります。

皆さんも年の始めに、「新年のおことば」を頂いておられますでしょうが、そのおことばは何らかの形で今年実現いたしましたでしょうか?「おことば」とは神様から与えられている以上、何らかの形で必ず成就するものです。今日は「新年のおことば」とは何か、また「おことばが与えられる」とはどういうことかをお話しする時間はありませんが、この機会に皆様が今年頂いたおことばを今一度思い起こし、新らしい年を前に今年の生活を吟味してみられてはいかがでしょうか?

今日取り上げる箇所には、ヘロデ(バプテスマのヨハネを殺したヘロデの息子)によって投獄されたペテロの身に起きた奇跡が記されています。ヘロデ王はキリスト教の広がりを押さえるために、当時その中核であったヤコブをまず捕らえ、殉教に至らせました。

次にヘロデ王は、教会のもう一つの中核であったペテロを捕らえ投獄したのです。ヘロデは彼を最も効果的に刑死させるため、ユダヤ人たちがエルサレムに多く集う過越しの祭りの時まで彼を投獄し、監禁していました。

この時、ペテロが捕らわれていたのは、アントニヤの要塞(OHP・下図参照)にある牢獄であったと言われています。

エルサレム略図

ローマ帝国時代のエルサレムの牢獄は、「直線洞穴型」(下記図参照)と呼ばれる構造で、その最深部の部屋にペテロは捕らわれていました(図参照)。

しかも、彼の両脇には二人の監視、牢獄前に一人、そして牢全体の入り口に一人の計4人のチーム(合計16名)が、3時間交替で24時間監視に当たっていました。

これは、重大犯罪人に対するものであり、当時としては最大級の監視体制でした。

ここで言いたいことは、この監獄は環境としては劣悪で、しかも脱出は不可能な構造をしていた、ということです。ところが、そのような監獄からペテロはいとも簡単に抜け出すことができたのです。それは、「門がひとりでに開いた」ということばで表されているとおり、神のみが為せる奇跡でした。

なぜ「門がひとりでに開いた」のでしょう。今日はその理由を4つ取り上げてみたいと思います。


1)神様が開いてくださったから

これは当たり前のようですが、やはり「神様が開いてくださった」からこそ門は開いたのであり、このことをしっかりと確認することが必要です。

神様が奇跡を起こされるときは、このケースと同様にその内容が「人間の罪からの解放・贖い」に直結しているものです。しかし、このような奇跡は、私たちが願ってもそう簡単に起きるわけではありません。ではそういう場合、なぜ「門がひとりでに開かない」のでしょうか?それには次に示す5つの理由があるからだといえます

i) 神の思いに反することだから、ii) 時が来ていないから、iii) 無理にこじ開けようとするから、iv) 最初からあきらめて何もしないから、v) 心に罪があるから。

特に、5番目の心に問題があって門が開かなくなるケースが多いのです。心に問題があると、多くの場合、開けよう開けようと無理矢理にこじ開けようとしてしまい、結果として門は開かないのです。

ところが、逆にこれらの条件が満たされるなら、私たちにとっても「門がひとりでに開く」のです。もし神様の業がなされないと思うことがありましたら、これらの条件を自分が満たしているか、吟味してみてください。


2)お祈りがあったから

最初の理由は、神様側の理由と言っても良いものでしたが、これから挙げる3つの理由は、私たち人間側の理由となるものです。

5節に注目してみましょう。そこには

「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」

と書かれています。ここには書かれてはいませんが、おそらくペテロも牢獄で祈っていたと思われます。

これは教会やペテロが、ペテロの身の安全というはっきりした目的のために、心を合わせて継続的に祈りを積んでいたことを示しています。

このように「祈りを積む」と言うことが、神の御業を進める最大の方法になのです。


3)通るべき道をペテロが通ってきたから

10節に書かれているように、ペテロは御使いの導きにしたがって、第一の衛所、第二の衛所を通り過ぎ、そして問題の鉄の門の所までやってきました。

神様はこのような段取りを経ることなく、いきなりペテロを解放することができるお方です。しかし、神様は一見すると無駄とも思えるような通常の道筋を通らせてから、奇跡を起こされました。

神の御業は、私たちが扱われるべき所(=受けるべき試練や解決すべき課題)を通って始めて起こされるものです。こういう関門を過ぎ、いろいろと神様に扱われて始めて、最後の扉が開かれるようになっているのです。この時ペテロらは始めて自分の身に起きたことの意味を悟り、神様が直接的に介入して事態を解決されたことを知るのです。

皆さんは今どこにおられるでしょうか?第一の関門でしょうか、第二の関門でしょうか、それとも最後の扉の所までこられているのでしょうか?こういう関門があるとえてして私たちは心が萎えて、先を見通したりできずに悩み、苦しんでしまうものです。

しかし、これらの関門は、神様が私たちを鍛錬し、より深い信仰を持つように備えられたものなのです。これを知ることで、最後に神様が用意されている勝利を確信することができるようになります。


4)ペテロが次の仕事に取りかかる心を持っていたから

17節を見てみましょう。ペテロは牢獄から救出されて、教会員たちの前にあらわれ、一通りの証をすると、すぐ別の所に移り、早速神様を宣べ伝え始めました。ここはとても意味深い箇所です。

神様は私たち一人一人にそれぞれ使命をお与えになっておられます。そして、私たちがそれを真剣に果たそうと考え、また行動するとき、奇跡的な介入によってその障害となっていることを取り除かれるのです。


最後に一つだけ実生活への適用を見て参りたいと思います。

それは「お互い、神の法則に従って歩み続けましょう」と言うことです。

「門がひとりでに開く」と言うところの「ひとりでに」は、原語のギリシャ語で「オートマテー」と言う単語が用いられています。これは「自動的」を意味するautomatic と言う英語の語源にもなっていることばです。

私たちが、「神の法則に従って」生活を続けることで、神様が約束されたことは必ず成就するのです。来年も皆さんにとって、神の約束が成就される年となるように祈っております。

Editied and written by K. Ohta on 981228