礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年1月3日

『 恵みの大路』

竿代 照夫 牧師

イザヤ書35章1〜10節

中心聖句

 8そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。

(8節)

教訓:今年、神の大路を歩む


導入

新しい年に入りました。この一年の初めに当たって、この時代における世界がどの様に進んでいくかを読み、また見極めていくことは大切なことです。とくに、クリスチャンとしてどの様な道を歩めばよいかを確認する良い時でもありましょう。

今日取り上げますイザヤ書の箇所は、そのクリスチャンの歩むべき「王道」について書かれている所であります。イザヤ書はその内容から1〜39章40〜66章の二つの部分に大別できます。その後半の大きなテーマは、イスラエル民族のバビロン 捕囚からの回復と、それに象徴される主イエス・キリストの十字架による人類の贖いであります。それを最も絵画的に描写し ている表現が、帰還者達の通るバビロンからエルサレムに至る大きな「ハイウエイ(大路)」なのです。

35章はこの後半部分の序章とも言える箇所になっており(喩えれば、ベートーベンの第九の大合唱の前にあらかじめさりげなく挿入されるテーマメロディのようなもの)、ここでその「大路」が前もって取り上げられているのです。

こうした「大路」のイメージを表現した箇所は、他に10ヵ所程あります。代表的なものは、以下に示す3つの箇所です。

「荒 野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路 を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がっ た地は平地に、険しい地は平野となる。」(イザヤ書40章:3〜4節)

「見よ。わたしは新しい事 をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょう も、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの 民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」(イザヤ書43章:19〜20節)

「通れ、通れ、城門を。こ の民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の 上に旗を揚げよ。見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの 娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報 酬は主の前にある。』と。」(イザヤ書62章:10〜11節)

この3つのイメージに共通している点は、バビロンから神の奇跡的な御業によりイスラエル民族が解放され(繁栄の極みにあったバビロンがペルシャ王クロスによって一瞬にして滅亡させられ、補囚となっていたイスラエルの民がクロス王やその後の王の助力を受けた)、エルサレム(その中心的な山であるシオン)に至る道(ハイウェイ)が備えられたと言うことです。

この内容は、新訳聖書的に解釈すると、罪の奴隷から解き放たれ、天国へ向かうク リスチャンの歩むべき道でもあります。

今日は、この「大路=ハイウェイ」の特徴について、4つの点を纏めてみたいと思います。


1)神の設けられた道である

これらの箇所で語られる「大路」とは、獣道や街道、林道や畦道などのような自然環境にしたがって出来てきた道ではなく、特定の目的を持って神様が設けられた十分な広つ特別の道、すなわち「神様によるハイウエイ」を表しています。神様は、私たちが歩む道を恵みと思いはかりの故に、全ての準備をされ、文字通り「低きは高く、高きは低く」されて備えてくださったのです。

ではその目的地はどこなのでしょうか?神様はイスラエルの民に、「回復」への道を備えられたのです。具体的には囚われの場所バビロンから故国イスラエルへ帰る道でした。現在的な意味においてこの道は、主イエスの働きを介して、神様のきよきへの回復の道筋を表しております。


2.清き道である

イザヤ書35章に戻りますと、8節に「汚れたものは通ることができない。これは、贖われた者たちのもの。」と書かれております。また9節には「ただ贖われた者たちがそこを歩む。」、10節にも「主に贖われた者が帰ってくる」と書かれており、この道が贖われたきよい者だけの為の特異的な存在であることが記されています。

この「贖われた者」と言う表現の中に見られる「贖われる」ということばの原義は、「代価を支払って買い取る」と言うものです。

ここからも理解可能なように、イザヤ書での「贖い」というアイデアは、「代価または犠牲を払っても民を救い出すという行為、罪を犯した民をその悔い改めを前提として赦すという行為」を指します。

これを指示する例としてイザヤ書43章14節に、

「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。」

また、イザヤ書44章22節に、

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

さらに59章20節に、

「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」

と書かれているとおりです。

現代的な意味としてここを捉えるのなら、私達の誰もが「もともと清い」と言うことはないのであり、誰も神の設えたハイウェイを通ることが出来なくなってしまいます

だからこそ主イエス・キリストによる贖いの十字架が、救いやきよさへのハイウェイとして必要になるのです。

この部分を別のたとえで話してみます。私はついこの間、千葉方面へクルマで行くために「東京湾アクアライン」と言うハイウェイを通りました。この道路は実に素晴らしいもので、私も大変感心いたしましたが、その通行料金の方は(安くしているとはいえ)感心いたしませんでした。せっかく素晴らしい道を作っても、法外な料金では通行する人は限られてしまいます。

神様の用意されたハイウェイはそういうものではなく、神様ご自身が「イエス・キリスト」の命と引き替えに、すでに通行料を払っていてくだっているので、私たちはただ主イエスを信じて進めばその道を通行できるのです。

私は是非教会の皆様に、今年この神のきよき大路を進んでいただきたいと願っております。

一方で残念なことに日本には「清濁合わせ飲む」と言う風土があり、目的のためにはきれい事ばかり言ってはおれないと言う考え方が主流をなしています。

そのような社会状況の中、真に「きよい」道を守り通すことは並大抵のことでないことは重々承知いたしております。しかし、グローバル・スタンダードが叫ばれる最近の日本に求められているのは、まさにこの社会における個人倫理の確立なのではないでしょうか。

クリスチャンがこのようなときに率先してその方向性を社会に示し、困難はあってもそれを確立していくことが大切だと思っております。教会の中と、社会の中で二つの人間を演じる二面性を持つことなく、どちらにおいても神の清さとはどういうものかを示していただきたいのです。


3)安全で分かりやすい道である。

神のお造りなった大路は、ライオンや猛獣がいない道であると書かれています。(アフリカでは実際にこういう猛獣が出てくると標識に書かれた道が存在します。)ライオンや猛獣は、サタン(悪魔)の象徴であります。

私達の仇であるサタンは吠えるライオンの様に巡り歩いて呑むべき者を探しています。しかし、私達が意図的にハイウエイから逸れない限り、つまり、キリストに留まり続ける限り私達の安全性は完全に保証されているのです。

またこの道は、どの横丁の何軒目といったごちゃごちゃと入り組んだ複雑な道ではなく、実にわかりやすいまっすぐな一本道になっています。しかも、それには明確な標識があって、迷うことがありません。もっと言えば、迷うことの方が難しい 。このような王道を歩もうではありませんか。

一方神の道に反し、自分中心な独りよがりの道を歩むものは、嘘の混じった生活に陥りやすいものです。このような嘘の混じった生活はどんなに知恵を要することでしょうか。一度うそをつけば、それを守るためにまた嘘を上塗りしていかなければならなくなるのです。

しかし、真直ぐな人生は迷いが少ないのです。サーカスのような芸当をクリスチャンはしてはなりません。分かりやすく真 直ぐな道を歩むのです。神のみ心を行うと決めた人生こそ楽なものはありません


4)喜びと交わりの道である。

私たちはきよめを信じている教派に属しますが、良くきよめへの道はなんとなく「暗く」、「根暗」であると思われているようです。これは何とも残念な誤解であると言わなければなりません。

実際は、きよめを説いたJohn Wesley が書き記しているように、きめられた生活には本来「歌と笑い」があり、「とこしえに続く喜び」があり、「悲しみや嘆きは消えて失せ」るものです。彼はきよめの本質について、

「清め の道とは『常に喜べ、絶えず祈れ、全てのこと感謝せよ。』を実行していることだ。 」

と言っていますが、これらの喜びはその感謝から自然に生まれるものなのです。詰まるところ、ホーリネスの民は陰鬱であってはならないのです。

また、きよい生活は孤独な旅でもありません。祈りにおいて、信仰において励まし合う友が与えられているものです。

私は私達の群れの在り方として、喜びと賛美と感謝に絶えない群れであることを望んでいます。また、そのことの故に多くの人々の羨望の的となるような群れでありたいとも思っております。


皆さん、是非今年、この恵みの大路を手を携えて天国まで共に進もうではありませんか。昨日の聖会では御霊によって生きるのならば、御霊に導かれて、一線となって進もうではないか( ガラテヤ5:25)と語られました。天国に至る行進を喜び歌いつつ進もうではありませんか。

最後にこの内容を良く表した「聖者の行進」の一節をご紹介します。

O, when the saints go marching in,

O, when the saints go marching in,

O, Lord I want to be in that number,

O, when the saints to marching in.

Editied and written by K. Ohta on 990103