礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年1月10日

『 成長するクリスチャン』

竿代 照夫 牧師

エペソ人への手紙4章7〜16節

中心聖句

 15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

(15〜16節)

教訓:一人一人の成長に基づく教会の発展


導入

生物にとって「成長する」と言うことは非常に重要なことであり、これ無しではもはや死に至るのみと言うものです。教会やクリスチャン個人にとってもこの成長は欠くべからざるものであります。今日取り上げますエペソの箇所は、パウロが教会やクリスチャンの成長について書いているところです。

その内容を今日は、1)成長の目標、2)どの様な点で成長が見られるのか、3)成長をもたらすもの、の3つの点から見て参りたいと思います。


1)成長の目標

まず成長の目標についてみてみましょう。

13節では「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです。」と書かれており、15節では、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」と書かれています。

つまり、成長の究極的目標は「キリストのようになる」と言うことなのです。これは、見てくれがキリストのような風貌になる、と言うことを意味しているのではありません。神の栄光が繁栄された主イエス・キリストのご人格にもとづく「キリストらしさ」を指します。

このような素晴らしいゴールが与えられていることは、何という恵みでありましょう。


2.どういう点でキリストらしくなるのか?

次に、一体どの様な点で成長するのかについて、見て参りましょう。

15節の言葉には「あらゆる点において成長し」と書かれています。しかしこれを具体的に見て参りますと、大きく分けて次の3つの要素があることがわかります。

i)信仰、ii)知識、iii)愛。

i)信仰

13節に「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し」と書かれています。これは言い換えますと「キリストが持っておられる信仰」と内容的に一致するものを、我々も持つと言うことになります。

さらに言い換えるなら、もはや信仰によってキリストの心が我々の心に宿り、一体となるほどであると言うことで、これはキリスト教信仰の究極の姿であるといえましょう。

この信仰を測るリトマス試験紙のようなものが、試練というものです。試練は信仰を持っていてもやってくるものです。その時にその人が本物の信仰を持っているかどうかが試されるのです。

試練にあうと多くの人が、恐れ、惑い、落ち込み、悩みます。しかし、そのような姿勢を示すのではなく、主にあって堅く立ち、揺るぎない信じ切る信仰を持つことが大切です。そのような姿勢で試練に臨むとき、試練はもはや成長のための一つの糧に過ぎなくなります。

ii)知識

成長によって得られる知識に関しては、エペソ書の1章17〜19節に

「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどの様なものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることが出来ますように。」

と書かれています。

これは端的に言うと、主キリストが私たちに受け継ぐ財産と言うべきその御業の大きさや偉大さを知る、と言うことになります。

私たちは、聖書の勉強や、クリスチャン同士の交流を行っているわけですが、これはこの「神様の御業・恵みの偉大さ」を知る為なのです。

iii)愛

愛に関しては、3章19節に、

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と書かれています。

主イエス・キリストが私たちに抱く愛の深さ、広さ、高さがいかに偉大なものかを知ることが大切だといっているのです。この愛の偉大さを知りますと、私たちは本当の意味で他人に対する愛を持つことが出来るようになります。そして、その反映として必ずと言って良いほど、人々に対することばの使い方、応対の仕方が変わってきます。これは、試練が信仰を測るリトマス試験紙であるなら、愛を測るリトマス試験であると言っても良いでしょう。

以上のように、クリスチャン一人一人について、キリストにある信仰が「信仰・知識・愛」において深められ、成長していくことが非常に大切なことです。

それはひいては、教会全体に満ち、そして目に見える形での教会の成長にもつながっていくものです。


3)成長をもたらすもの

最後にどのようなことをすれば成長がもたらされるかについてを見てみましょう。

i)命をもつ

成長するためにはまず命がなければなりません。逆説的なようですが、成長することによってもまた、命が与えられるのです。

エペソ書の2章1〜2節でパウロは、クリスチャンに向かって「かつては死んだ者」と言う呼び方をしています。これは文字通り取りますと変な表現ですね。

この内容を説き明かしますと、「死んだ者」とは「神との正常な交流・関係が絶たれている者」を指します。よく、電気の配線が断線しているのを、「この配線は死んでいる」と言うようなもので、神様と人間をつなぐ回路が寸断された状態を、「死んだ」と言っているのです。

こういう人々は、サタンの支配下にあり、容易に世の流れに流されて自分を見失っていきます。これからキリスト教の信仰を持とうかと考えておられる方には、少し厳しい言い方かも知れませんが、人間は所詮、悪魔か、神かどっちかにつかなければならないのです。二股をかけるわけにはいきません。5節に書かれているとおり、

「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」なのです。

神につくと言うことは「キリストを知る信仰を持つ」と言うことであり、この信仰によってのみ我々人間は本当の意味で命を得るのであります。

この命の御業は、一方的に神様から人間に向かって差し伸べられた、キリストの十字架によって与えられるものです。しかし、人間は自動的にその恵みに与るようにはなっていないのです。その恵みを受けるかどうかは、あくまでも個人に委ねられており、私たちの側から手を伸ばして受け取る必要があるのです。

信仰を持って成長し、神の備えてくださった道を進んで、まことの命を得ましょう。

ii)じゃまなものを除く

4章22〜24節では「古い人を脱ぎ捨てる」、「新しい人になる」問い言うことが書かれています。ここでいう「古い人」とは、我々が持っていた罪であり、「新しい人」とは神が私たち人間に与えられようとしている清さ・正しさを象徴しています。

つまり「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になれ」という言葉の意味は、これまでの罪に満ちた生活を改め、神の清さを求める生活に向けて転換を図りなさい、と言うことになります。

成長を妨げるものとは何があるでしょうか?例えば、自分自身の楽しみ、世の楽しみ、快楽を追い求めること、などがあります。

その全てを否定するものではありませんが、ここでのポイントはもしその内容が信仰の成長にとって妨げとなるべきものであるなら、信仰の告白により、それを脱ぎ捨ててしまいなさい、そしてそのようなものに向かう心の傾向にメスを入れ、手術をしなさい、と言うことなのです。聖霊の喜ばないことから離れましょう。

さらにパウロはもう一歩踏み込んで、「聖霊に満たされ続けなさい」と、その姿勢の継続性の重要さを強調しています。聖霊によって生かされるきよい姿勢を絶えず持ち続け、生活に生かしていくことが大切なのだと、彼は主張しているのです。

成長には「栄養素」が必要です。これは日々聖霊に満たされることでありますが、その為の手段として、教会集会への出席があり、聖書の学びがあり、お祈りがあり、密室の時があるのです。このようなことは、喩えると「神様とのデート」とも言えます。しかも、イエスさまの方から待って下さっているデートといえましょう。このようなことを疎かにしていることは、イエスさまをデートの待ち合わせにほっぽらかしておくようなものです。そのようなことがあってはなりません。


是非今年、皆さん一人一人が成長し、進歩を遂げる年として頂きたいと思います。そして、そのことを通じて教会全体が、目に見える形で成長することを願い、お祈りしております。

Editied and written by K. Ohta on 990111