礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年1月17日

『 連帯するクリスチャン』

竿代 照夫 牧師

エペソ人への手紙4章1〜16節

中心聖句

  16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

(16節)

教訓:クリスチャンが連帯する意味とその必要性


導入

キリストの教会は人体にたとえことが出来ます。キリストを頭として、私たちは、目であったり、口であったり、手であったりするわけです。そのたとえの趣旨は、キリストにあってみんなが異なった機能を働かせながらも、一致しているという事です。

先週は私たちが成長するクリスチャンにならなければならないことを学びました。

今週は16節に焦点を合わせて、一人一人がその賜物に応じて役割を果たすことの大切さ、そして互いに連帯することの大切さを学びたいと思います。


力量にふさわしく働く

「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により」(16節)

「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」(7節)

以上の箇所を見ますと、私たち教会のメンバーは、一人一人が賜物を与えられていて、誰一人同じ働きをする人はいないこと、また、その賜物も、皆その内容・力量において異なっているということがわかります。

「私は何にも賜物が無い」という方がいますが、これは与え主に対して失礼な言い方であると言えます。というのは、与え主は主ご自身だからです(7節、11節)。

従って少ないからといって卑下することもなく、多いからといって誇ることもありません。只感謝してその目的の為に用いればよいのです。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」(11節)。

さて、その賜物の内容ですが、この11節では4種類しか記されていません。だからある人は、私は「その他大勢」なのでは、と考えるかも知れませんが、他の聖書箇所を合わせて見ますと、もっと多くの賜物があることが分かります。

エペソ4:11から  --> ・使徒 ・預言者 ・伝道者 ・牧師(=群れが正しい方向に進んでいるかどうかを見極める人) ・教師

ローマ12:6,7から  --> ・奉仕、教え ・勧め ・分け与え ・指導 ・慈善

第1コリント12:8から  --> ・知恵のことば ・知識のことば ・信仰 ・いやしの賜物 ・奇蹟を行なう力、預言 ・霊を見分ける力 ・異言 ・異言を解き明かす力

これらの賜物は、以下のように区分することが出来ます。

A.指導的な立場
 (1)使徒であること
 (2)牧師であること
 (3)指導する人(行政的な意味で)
B.伝道・説教・教えの賜物
 (4)預言をすること
 (5)伝道すること
 (6)教えること
 (7)勧めること
 (8)知恵のことばを貯えること
 (9)知識のことばを与えられること
C.奉仕的な賜物
 (10)仕えること
 (11)分け与えること
 (12)慈善をすること
D.特別な(霊的な)賜物
 (13)信仰
 (14)いやしを行うこと
 (15)奇跡を行うこと
 (16)霊を見分けること
 (17)異言を語ること
 (18)異言を解き明かす力

ます。これに加えて現代に照らし合わせ考えてみますと、例えば音楽の賜物、絵を描く賜物、計算をする賜物、コンピュータを操る賜物など、活用され得る賜物をあげれば数え切れません。

そこで質問があります。「皆様、胸に手を当ててお考え下さい。私はいったい何の賜物がありますでしょうか?」

私が申し上げたいのは、誰一人として賜物を与えられていない人はいない、ということです。とするならば、私の教会における賜物は何だろうか、ということを真剣に考えていただきたいのです。そして、受け身ではなく、積極的に奉仕を申し出ていただきたいのです。

教会では、一人一人が欠けてはならない機能というものを持っています。場合によっては、教会の指導者でさえも気が付かないかも知れません。しかし、神はそのように一人一人を召しておられるのです。

その部分を私たちが忠実に果たすということが、主の体である教会を成長させるためとても大切なことであることを覚えていただきたいのです。逆に言うならば、私一人が力を抜くことによって主の大切な働きが止められてしまうのです。蟻の小さな穴がやがて堤防を破壊してしまうことが有り得るということを知っていただきたいのです。


連帯の必要(協力関係)

16節に「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」とあります。パウロはここで私たちが置かれた立場でバラバラに任務を果たすというのではなくして、束になって、結び合わされて、主のご奉仕に当たらせていただきましょうと強調しているのです。

ここで最初の「結び目」のもともとの意味は「関節」という意味であり、この「関節」により供給されるのだ、と語っているのです。

つまり、私たちは、お互いの結び目によって霊的なやしないを受け、励まし、力づけをいただき、時には刺激が与えられる(供給される)関係にあるのだ、ということなのです。そういう存在として教会には兄弟姉妹がいるのです。

2番目の「組み合わされ」という言葉は、バラバラになったものが復元され、あるべきものがあるべき所にある、ということなのです。つまり、私たちも本来あるべき所に組み合わされて、フィットするということなのです。

パウロはこのたとえを通して、私たちクリスチャンがお互い連帯していくことの大切さ、そしてそれが、私たちの霊的な命にとって必須であると語っているのです。

16節「愛のうちに建てられるのです」とは、私たちを1つに結びつけるものは、私たちを愛し、十字架にまで従ったキリストの愛なのです、ということです。

ここで、私は、以上のことを踏まえ、私たちの教会生活に当てはめて考えて、挑戦を投げかけてみたいと思います。

まず第1は、個人と個人の深い結び付きの大切さです。

礼拝に出席して、お互い挨拶したりしますが、社交的な薄っぺらい関係になってはいませんか。相互に供給し合い、励まし合うという深い霊的な結び付きにいっていないのではないでしょうか。その意味において私は挑戦を投げかけたいのです。私たちが存じあげている方のために、どれだけ関心を持ち、お祈りしているでしょうか。もちろんプライバシーの内容においては、ゴシップの対象にしてはいけません。

私たちの教会の交わりがきれいごとを言って、終ってしまってはいないでしょうか。日曜日に教会に来て、心の悩みとか苦しみ、失敗とかそういうものは出さないで、さようならし、月曜日から土曜日まではドロドロの中を苦闘しているなんてことがあったりします。

これでは私たちの交わりは深くなってまいりません。ほんとうの苦しみを祈り合うといった深い交わりを形成しなければ何のために私たちは教会生活を送っているのでしょうか。そうした個人的な結び目がしっかりとした群れであらせていただきたいものです。

第2は、結び目が切れていたらどうしたらどうだろうか、ということです。人間だから「私はどうもあの人は虫が好かない」ということはあるのものです。しかし、イエスさまは礼拝の生け贄をほっておいても先ず人間関係を修復し、その後で礼拝に戻って来なさいと語ったではありませんか。もし対立的な人間関係になっていたら、和解しましょう。この人は苦手とか、顔を合わせるのもいやという関係が教会内にあっては祝福されません。

第3にグループ毎の連帯を強めたいと思います。この度、6つの委員会が出来ますが、すべての方にどれかの委員会に加わっていただきたいのです。与えられた賜物を供えるために、委員会は作られるのです。そして、委員会の中で活動や交わりが確保されたら、それら同士の連携、助け合いが必要です。決して競合的なものになってはいけません。その為に役員会が形成されるのです。こうした新体制が連帯をかもしだすものであってほしいと考えています。


結び

教会が質的にまた量的に成長するために、私たちはお互い連帯しようではありませんか。そして、ほんとうの意味で愛の共同体というものが教会に見られる、この時代に有り得る、それが主都中央教会だ、という証しをさせていただきたいと思います。

最後に、こんな声ではありますが、「Bind us together」(私たちを一緒に結んで下さい)という歌を歌わせていただきたく思います。

”Bind us together”
Bind us together Lord,
Bind us together with cords that cannot be broken,
Bind us together Lord, (x2)
Bind us together with love,
There is only one God, there is only one King
There is only one Body, that is why I sing.


Editied and written by N. Sakakibara on 990117