礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年1月24日

『 万人が預言者に』

竿代 照夫 牧師

民数記11章10〜17、24〜30節

中心聖句

24ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の 長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。

25すると主は雲 の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の 長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。 しかし、それを重ねることはなかった。

26そのとき、ふたりの者が宿営に残ってい た。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がと どまった。――彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かな かった。――彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。

27それで、ひとりの若者が走 って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預 言しています。」

28若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて 言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」

29しかしモーセは彼 に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、 預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

(24〜30節)

教訓:クリスチャン全てが預言者になる


導入

教会総会の朝を迎えました。教会総会とは、教会を人体に例えるならば「定期健康診断」のようなものであり、この機会に様々な統計資料を通して教会の長所・短所を把握することが出来ます。

また教会総会では、どのような道筋で健康体となることが出来るかという「健康指導」や「処方箋」が示されます。

さらに、教会の枝である私達クリスチャンが、どのような働きをし、またどのような役割を占めるのかについて確認する事が出来ます。これは場合によっては任命という形をとったり、奉仕申し込みという形を取ったりしますが、私達一人一人がキリストの体の建て上げの為 に自分の体をあてはめているのだと言うこと(コロサイ1:24)ことをぜひ確認して頂きたいと思います。

今日は、教会総会を前にイスラエル民族を指導したモーセの祈りについて学びたいと思います。それは今日の私の祈りでもあるからです。

彼の祈りは冒頭の29節に記されております、「主の民が皆預言者となれば良いのに。」というものですが、これは言い替えますと万人預言者への祈りであります。この祈りの理由、意義、実現について学んで参りましょう。


1.万人預言者を祈った理由

モーセが万人預言者を祈った理由には、消極的なものと積極的な者があります。

消極的にはまず、200万人もの人間を自分一人で指導するのは任務として負い切れない、というモーセ の苦しみがありました。

モーセは映画「十戒」ではチャールストン・ヘストン演じる大変格好の良い存在でしたが、おそらく現実はもっと苦難に満ちたやるせない存在だったに違いありません。

と言いますのも、イスラエルの人々は出エジプト後、荒野でさまよううちに次々とモーセに不満を愚痴り始めたからです。例えば、肉が食べたい、魚が欲しい、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくが食べたい、このマナには飽き飽きした(4ー6節)などと、大の大人が恥も外聞もなく不満を漏らしたりしました。

これに加え、モーセは独裁的ではないかと、モーセの指導者としての権威に疑問を投げつける者もおりました。これはコラとそのグループ(民16:3)、はたまたアロンやミリヤム(12:2)らによって、繰り返し提出された疑問でした。

モーセはこういう不満を聞いて苦しみました。民の不満にどう答えたら良いのか。自分には肉を与える術がないのです(13節)。彼は多くの場合、それを我慢して聞いていましたが、冒頭の箇所ではついに耐えきれず神に叫んだのです。

つまり、この指導者への不満を持っている民の重荷をどう して私一人が背負わねばならないのか、と言う叫びです。「とても無理です。もう私を無罪放免にしてください。(14節)」と彼は真剣に祈りました。その気持ちは十分に理解できものです。

これに対し、主はモーセの補佐として70人の長老を与えられました。主は、モーセの知っている70人の長老を集めるように命じられたのです(16節)。(後にこの70人議会はサンヒドリンというイスラエル固有の議会制度の基になり、今のイスラエル議会クネセトと いう形で引き継がれてもおります。)

さて、この70人の長老の役割は、モーセの霊の幾分かをもって重荷を分かち合うこと、つまり同じスピリットと同じ重荷を持って民の指導に当たることでありました(17節)。

そのあらわれとして、70人が預言活動を行いました。神を賛美し、神の言葉を代弁したのです(24、25節)。彼等の恍惚的な経験は繰り返されはしませんでしたが、 預言活動は継続していきました。


積極的な理由としては、預言、つまり神のみ心を知り、それを伝えるという働きは、この70人 に限らず民全体のものでなければという願いが、あるきっかけから起きたことが挙げられます。

そのきっかけとは、エルダテメダテという人物に起こったことです。この二人は70人の長老の中に入っておりましたが 、テントには何らかの事情で来ませんでした。彼はにもかかわらず、預言活動を時ならぬ時にまた定められた場所でない所で行ったのです。

これは、その目撃者である若者と、従者のヨシュアにとっては反逆的な行為とさえ映りました。そして彼らはこの問題をモーセに示し、彼らの預言活動を止めさせるように進言しました。

ところがモーセの対応は、ヨシュアの期待するものとは全く逆でありました。「それでいいのだ。預言は何も選ばれた場所で、選ばれた人々が行うとは決まっていない、誰でもがその賜物を与えられればそれに勝る恵はない。」と積極的な姿勢を示したのです。

このことが、やがて「主の民がみな預言者であればよいのに」ということばにつながっていくわけです。


2.祈りの意義

この祈りの意義を考えるとき、モーセの持っていた寛い心を見る思いがいたします。

モーセはヨシュアが彼の為に妬んだ行為を正しくないと感じました。神の賜物は少数の人々によって独占されるべきではない、全ての民が預言者となればよい、と真実に願ったのです。

勿論職務としての預言者に民すべてがなるように、と願ったのではありません。神の御旨は何であるかを知り、それを人々に語るという役割を、広い意味での「預言者」の仕事と捉えるならば、預言者は皆がなるべきである、とモーセは祈ったのです。

思いますに、全ての人が神を知り、もはや神を知れと教える必要の無くなる状況になることが新約の目標であります。たとえばエレミヤ書 31章には、

33彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

34そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――

と記されています。

これはプロテスタントの基本である霊的平等主義とも共通の思想であります。

この霊的な平等主義とは、(神によって定められた秩序の維持の為に、組織的・社会的な上下関係は避けられないものの)人は神の前には本質的には平等である、と言うことを意味するものです。つまり霊的に上とか下はない、というものです。

さらに、プロテスタント教会の大切な柱の一つに、「万人祭司」があります。

これは、全てのクリスチャンは自らにとって祭司であり、人間の仲介によらないで、神の元に直接近づくことが出来る、という思想です。この考えは、司祭が信徒の心を支配する権威を持つというカトリック教会の権威を真っ向から向き合うものです。

モーセの語った万人預言者主義もそれと軌を一つにするものです。主は特定の人物だけにその御心を示し、他の人はそれに無批判に従う事が要求される、という考えは聖書的な教えでもなく、プロテスタント的な教えでもありません。

また、この考えは私達の信仰の祖であるメソジストの主義でもありました。藤本満師は、昨年の年会でメソジストの組織についてこう語りました。

「メソジスト・コネクションは組織的にはヒエラルキーの形式で成り立っているが 、その根本を霊的平等主義が貫いていた 。そもそもウェスレーが回心した人々をコネクションに組み入れたのは、霊的成長には共同体的なプロセスが必須であると確信していたからである。ソサエティー(組会)は 、〈互いに〉、あるいは〈共に〉という原則で貫かれていた。」

「彼らは敬けんの型(form)を共有し、共に敬けんの力を追求する人々の集まりで ある。共に祈るために、訓戒のことばを受けるために、愛をもって互いを見守るために、すなわちそれぞれが自分の救いを達成するために互いを助け合う目的で合同している人々である 」(Works,269)。

主はその御心を聖霊を通して全ての信仰者に語られます。全ての信仰者は、個人個人として神の御心の何であるかを求める必要があるのです。

ローマ12:1 には、

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

と記されています。これは特別な指導者への命令ではなく、全てのクリスチャンへの命令であるのです。したがってモーセの祈りは、私たちへの祈りでもあるわけです。


3.祈りの実現

このモーセの祈りははたして実現したのでしょうか?私はペンテコステにおいて実現したと思います。

ペンテコステでは、全てに人に聖霊が注がれ、彼等は主の聖言を大胆に語りました。使徒の働きには、使徒と言わず、執事と言わず、何の肩書きもない信者が主の福音の言葉を語ったと書かれています(使徒2:4、18、4:31、8 :5、11:19ー21)。

そして、それは今日この21世紀に向かう私達やこの教会にも実現するのです。つまり、私達は主の御心を直接知り、それを語る器となり得るのです。

私の父は、その叔母によって教会に導かれました。病の故に絶望的になっていた父に、その叔母は、マタイ11:29を引用した後で、「靖さん、一度教会に来てごらんなさい。キリストには一切の解決があるんですよ。」と語ったのです。

この場合、父にとって叔母は「預言者」であったのです。

このように考えますと、私達も誰かにとって神の言葉を語る預言者であることが出来ると言うことがご理解いただけると思います。


結び

今日、この総会における私の祈りは、ここにいる皆様が聖霊に満たされ、福音の言葉を携えて家庭に、職場に、学校にと散っていくことです。大変なことに思われるかも知れませんが、その備えはすでに聖霊によってなされているのです。


Editied and written by K. Ohta on 990124