礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年2月7日

『ダニエルの悟り』

元WGMインターナショナル

デニス・アップルビー 博士

ダニエル書10章1〜14節

中心聖句

12彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

(12節)

教訓:祈りを通じて神との交流をもつ


導入

前回この教会にお伺いしたときは96年でしたが、その時はこれが最後と思っておりました。それからまたこのようにこの場に来ることが出来たことを感謝いたしております。また、今日は私がアフリカを訪れたとき、メッセージをスワヒリ語に訳していただいた竿代先生が隣にいて、日本語に訳してくれることは、大変心強いことです。

私がイギリスで学生をしていた頃は、ちょうど世界大戦が終了した頃で食料も配給制でした。そんな中、いろいろな教会でメッセージをお話しする機会に恵まれました。そのような集会の後、一つの楽しみであったことは教会の方が食事の用意をして下さったことです。

特にある方のお家では、いつも美味しいソーセージを出してくれました。そのうちのダイニングには、巣窟の中でライオンとともにいるダニエルの絵が掛けられておりました。このライオンは、ダニエルよりも私のソーセージの方が欲しそうな目つきをしておりまして、それが気になって急いでソーセージを食べた記憶があります。

ダニエルは祈りの人でした。その祈りの故に、ライオンのいる穴に放り込まれたのです。ダニエルはユダヤの民とともにバビロンに補囚として連れた行かれたました。彼はその後何回か王朝が移り変わる中、一貫して神の前に真実な祈りを捧げました。

今日はダニエル書10章について、このダニエルの洞察を3つの観点から見て参りたいと思います。


1)祈りは祈り手を変えるものである

ダニエルの生涯を俯瞰してみると、祈りによって大きな転機が訪れたことがわかります。まず、彼がバビロンの捕囚に連れてこられて間もない頃の出来事が挙げられます。

バビロンの王は、高貴な一族に生まれ、才能のあるダニエルたちを、バビロンにおいても重要な役人に育て、自分の政治の手助けをさせようと考えていました。

補囚当時は、ユダヤの人々は長い間の包囲にあっていたため、大変な飢餓状態にあり、ダニエルたちもご多分にもれず痩せこけていました。そこで、バビロンの王はまず彼らに十分な栄養を取らせようと、偶像に捧げてあった肉を食べさせようとしたのです。

ダニエルはその肉が偶像に捧げてあったものであるとして、それを拒否する事に心を定めたのです。(この時聖書には書かれていませんが、ダニエルは神に祈りを捧げたはずです。)そして、彼らの養育係の宦官に肉の代わりに野菜を与えるように願い、神は宦官を通じてそれを実現させました。

ここでダニエルがとった行動は、偶像に妥協せずに神を第一とした選択をしたと言うことです。私たちは、悪いことに妥協しながら、神の前に出ることは出来ないのです。そしてこのことは神に祈りを聞いていただこうとするとき、とても重要な意味を持っています。

神は常に我々の祈りを聞いて折られます。しかし、その祈りが聞き届けられないかのように見えるときがあるものです。そのようなときの理由の一つは、ダニエルが取ったような行動をすることが出来ず、この世の悪しきことに妥協しながら、神に祈りを捧げていることにあります。

神に祈りを聞いていただこうと願うなら、まずきよい身にならなければなりません。神に誠実な対応をしていただこうと願うなら、まず我々が神に対して誠実にならなければならない、といういうことです。

またそのような姿勢で祈るとき、祈りは祈りを捧げる人間に変化をもたらし、本当にきよい者へと変えられていくのです。


2)祈るうちにその思いが変えられることがある

祈っているとき、時としてそのテーマが変わっていくことがあります。私たちの神は、偶像の神と異なり、祈りに答えられる生きた神です。しかし、いつになったら祈りがきかれるのだろうと言う場合が時々あります。こう言うとき、祈りは必ずしも私たちが願うかたちで果たされるとは限りません。

ダニエル書10章では、ダニエルは3週間の間断食しながら祈りの答えを待っていました。このように祈ったからと言って、すぐその祈りが達成されるわけでは必ずしも無いのです。

しかし3週間後、素晴らしい回答が彼に与えられました。御使いが彼の所を訪れ、ダニエルに新たな悟りを与えたのです。この場合、祈りの答えはダニエルの考え方を変えることであり、その環境が変えられると言うことではありませんでした。このように、祈りがそのまま聞かれるのではなく、祈り手の理解や悟りに変化がもたらされることがあるのです。


これを喩えた話をしましょう。サンシャイン60という高層ビルがありますね。このエレベータに乗っていたところ、突然エレベータが故障で止まったとします。中に乗っていた人の中には「もうおしまいだ!僕らは死ぬしかない!」と騒ぐ人もいました。

ところがある人が落ち着いて非常用の電話を取り上げ、エレベータの管理会社の人とやりとりを済ませ、「皆さんもう大丈夫です。このエレベータは落ちません。もうすぐ助けがきます。」と語ったのです。

先ほど「死ぬ!」と言っていた人が「どうして大丈夫だと言えるんだ!」と叫びました。すると連絡を済ませた人は「私はこのエレベータを製造した会社のものですから、このエレベータがどういう構造をしており、またどういう安全装置が付いているか知っているのです。」と答えました。それでエレベータの中の人々は大いに安心したのです。

この場合、エレベータは動き出したり、助けがきたわけではありませんが、エレベータの中の人々の考えは明らかに前とは変わっています。電話で連絡した人が、エレベータの中に閉じこめられた人々の考え方を変え、悟りを与えたからです。このように人々に神の悟りを与えることが出来る人は幸いです。


同じ様な出来事が新約聖書に書かれています。ガリラヤ湖で船に乗っていた主イエスの弟子たちは嵐に遭い、命の危険を感じ、同船していて眠りについていた主イエスに助けを求めました。主イエスが起きあがると、その嵐は嘘のようにやんだと書かれています。さらに、これを体験した弟子たちは、イエスを主と崇めたと記されています。

この時主イエスは、弟子たちになぜ嵐に惑わされて騒いだのかと問うています。もし、主イエスに対する信仰が完全なものであれば、主が同船している船が沈むはずがないことがわかるはずです。そういう悟りを持てと、主イエスは弟子たちに教えたのでした。


祈っても何の変化もない、祈りが聞かれるのだろうかと思うようなときがあります。しかし、祈りは必ずしも思った形で適うとは限らないのです。ある時は、祈りのうちに自分の思いが帰られ、新たな悟りを得ることで祈りの対象であった問題がもはや問題とならなくなることがあるのです。

私がかつて経験したケースでこういう例があります。あるご婦人のお孫さんが病床で植物状態になっていました。私が病床を訪れますと、そのご婦人がこの状態から孫を治してもらえるよう神に祈りを捧げて欲しいと、私に頼んできました。

私はその願いに答えて一晩神に祈りを捧げました。その間、一つの考えが示されたのです。それは神はこの植物状態にある孫を治すのではなく、天国の御元へお招きしようとされているのではないか、と言うものでした。祈るうちにその思いは確実なものとなっていきました。

次の日、ご婦人に会いますと「神様はお祈りにどう答えられましたか?」と聞いてこられました。私は祈りの中でこのお孫さんが天国に招かれているのではないかと悟らされたことを伝えました。そうしますと、そのご婦人は「やはりそうだったのですね」と考え方を変えられたのです。

この時の私の祈りは、ご婦人のお孫さんに何の変化を与えることもありませんでした。しかし、このご婦人の考え方を変えることが出来たのです。このような形でも、神様は祈りに答えられることがある、と言うことを知っていただきたいと思います。


3)祈りは神にも変化をもたらす

祈りとは、神との対話に他なりません。これは、祈りという行為を通じて、神と「私」と言う人間の間に1:1の関係が生じることを意味しています。

神は我々の全てをご存じです。しかし、だからといって私たちに対し一方的にその考えを押しつけようとされるのではなく、常に私たち人間との1:1の交わりや対話を求めておられるのです。神は我々をそのような臨在の場に常に招いて下さるのです。

神と人間がそのような親密な交流関係に入ることは、非常に大切なことです。イエスはその弟子たちを「友」と呼んでいましたし、アブラハムは「神の友」と呼ばれる存在でした。

神との親密な交流を伴う祈りは、神ご自身の我々に対する対応も変えることがあります。つまり、当初神が用意されていた答えとは異なるものが用意されることがあるのです。むしろ神はそのような関係を我々と結ぶことを、望んでおられるのです。是非こういう親密な祈りを捧げたいものです。


最後に

11節には「神に愛されている人ダニエル」と言う表現があります。私たちはこのような親密な関係を神との間に持っているでしょうか?祈りは私たちを愛してくださる神との交わりをすることなのです。このような祈りの恵みが与えられていることを感謝しつつ、祈りを持って親密に神と交流しようではありませんか。

Editied and written by K. Ohta on 990210