礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年2月21日

第1コリント書連講(18)

『愛の配慮』

竿代 照夫 牧師

第1コリント書8章1〜13節

中心聖句

9ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。

(9節)

アウトライン:

せっかく救われながら、牧師や信者の言動につまずいて、教会から離れてしまう人は少なくない。

第1コリント8章から、信仰の弱い人々がつまずきとなる原因と、それのもたらす結果の大きさを見る。

クリスチャンとして、つまずきを与えないために、神を愛し、隣人を己の如く愛することを動機として、本来の権利(自由)に制限を加え、愛の配慮を実践することが必要である。

教訓:自由の制限は愛の配慮のために


導入

 先週は、「愛は徳を建てる」との題で、愛に基づいた励まし、忠告の必要を述べました。愛のもう一つの要素は、消極面ではありますが、「つまずきを与えない配慮」という面があります。今日は9節から、クリスチャン生活における「つまずき」という観点からこの章を学んで見たいと思っております。

 残念ながら救われた人が皆教会に残る訳ではありません。そして教会から去って行った殆どの人々が言う言葉は、「OOにつまずいた」ということです。牧師であるか、信徒同士であるか、その両方の教会につまずいた、ということがその理由であります。神につまずいたとか、自分につまずいた、と言う人は少ないものです。

 どんなに注意してもつまずきを完全に除くことは不可能です。イエスは言われました、「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」(マタイ18:7)と。不可避ではあってもそれを最小限度にする配慮が必要なのです。


つまずきの原因(第1コリント8章に見る)

 8章を見ますと、信仰の進んだ「知識の有る」人々の大胆な行動が、信仰の弱いもしくは信仰経験の浅い人々にとってのつまずきの原因であることがわかります。10節を見ると、知識のあるクリスチャンが、クリスチャンの自由という知識に従って、偶像は無いに等しい存在だからといって、偶像の神殿で、偶像に捧げられた肉をおいしそうに食べていた、というのです。もっともそのこと自体は誤りではありません。イエス様が、律法から私たちを開放された結果であり、クリスチャンの自由(9節では「権利」と訳されています)に含まれることなのです。

 しかし、クリスチャンになったばかりの人々が見たら、「ああ、クリスチャンでも偶像に捧げた肉は食べてもいいんだな。」というメッセージと受け取ってしまうのです。7節を見ると、彼等は長い間偶像礼拝に生きてきて、最近クリスチャンになった者達です。だから、偶像に捧げた肉を食べることによってかつての偶像礼拝の雰囲気に引き戻される懸念があります。これが「弱い良心が汚れる」状態です。その結果、彼等は力を得て、偶像に捧げた肉を食べるようになり、ひいては偶像礼拝に戻ってしまう可能性があるのです。


つまずきの結果

 それは正に、信仰の弱い人々を永遠の滅びへと戻してしまうことに他なりません。この事実をいかに考えますでしょうか。

 彼等は、一人ひとりイエス様が十字架上で身代わりになるほどに愛された尊い魂なのです。それを、たかが「肉の問題で」滅ぼしてしまったら取り替えしがつかない、とパウロは言っています。彼等をつまずかせるのは、彼等を愛しておられるキリストを踏みにじることと同じ、とさえパウロは言っています。主イエスも、「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」( ルカ17:2)と言っておられます。つまずきの結果は、非常に厳粛な問題です。

 少し脱線しますが、私達は多くの場合、対人関係の中で、邪魔に思え、私達を悩まし、気になる人が一人二人いるのではないでしょうか。私達は、この人さえいなければ自分の人生はどんなに楽だろうか、と考えないでしょうか。でも、キリストの目からその人を眺めて見ますと、私達にはどんなに憎たらしく見える人でも、キリストは彼を愛し、その罪をゆるし、その為に命を捨てて下さったのです。本当にその事が分かると、たとえ自分の敵をも愛する、という真の意味が分かる筈です。


つまずきを与えないために・・・愛の配慮(クリスチャンの自由の制限)

 さて、本論に戻って、クリスチャンの自由に制限を加えるものがあるとしたら、それは、こうした弱い人々を思いやる愛の配慮である、と言えます。自分ではそんなに悪いと思っていないことであっても、それが他のクリスチャン(またはノンクリスチャン)をつまずかせる、つまり福音から遠ざけてしまうと気がついたら、それを慎むというのがここでパウロが強調しているクリスチャンの態度なのです。

 今から150年ほど前のイギリスに、スポルジョンという有名な説教者がおりました。どうも彼は葉巻が好きだったらしいのです。ムーディが彼を訪ね煙草を忠告した時も、逆にムーディのビール腹を見て「もう少し食事を制限した方がいいんじゃないですか」と聞き入れなかったと言います。しかし、ある時、「これはスポルジョンが好きな葉巻です」という煙草の広告が出されたを見て、自分勝手な自由が他のクリスチャンをつまずかせることになることを考え、煙草を止めたということです。

 13節では、兄弟のつまずきの為ならパウロは、私は一切肉を食べないとまで言い切りました。今日の日本のクリスチャンでは、肉を食べるか否かは大きな問題ではありません。もし、当時の肉食と似た問題があるとすれば、それはアルコールの問題ではないでしょうか。

 私は聖書が一滴のアルコールの飲用も禁じているとは思いません。主イエスが葡萄酒を普通の飲料として飲まれた例(ヨハネ2:2)や聖餐式で使われた葡萄酒にアルコールが入っていたことは第1コリントの11:21にも伺えます。第1テモテには、監督は「酒飲みではなく」(3:3)と条件が付けられ、執事については「大酒のみでなく」(3:8)とあることは興味深いです。少しは良い、というニュアンスがあるからです。さらに同書には、パウロがテモテに薬としての少量の葡萄酒を勧めている例を見ることが出来ます(5:23)。勿論、酒に酔うことは禁じられております(エペソ5:18)。

 しかし、私達は禁酒の立場を取っています。それは酒の大きな害を目の当たりにして起きてきた禁酒運動をメソジストが主唱したという伝統もありますが、それよりまさって、私はこの「愛の配慮」にあると思います。少量ならば良いという「知識」に基づいた行動が、弱いクリスチャンを再び罪の奴隷の生活に導くとしたら、一切無しという立場をとるほうがはるかに安全ではないでしょうか。

 私達の周りにはこうした酒の問題に似たケースが多いのです。そこで必要なのはこの原則です。すなわち、自分の自由を主張するのか、愛に基づいて自由を制限するのか、です。

 当然ながら、この原理を実行するとき、気を付けなければならないことがあります。それは愛の心から出た判断でなければなりません。他人が見ている時とそうでないときの行動が異なるなど、人の目を恐れることが動機であってはなりません。それは偽善と二重倫理を生むからです。だから、気にしすぎも問題であると言えます。私の自由は他の人の良心によって裁かれない、とパウロは言っています(第1コリント10:29)。

 むしろ愛のほとばしりとしての配慮です。主イエスは、神への愛と隣人への愛が律法の要約であると言い切っておられます(マタイ23:37〜40)。これを全うする時、律法は自然に守られている事を発見するのです。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)。その愛の一つの表われは、神が愛しておられ、その為に十字架にまでかかって下さった兄弟をつまずかせない為の配慮です。

 クリスチャンとして、何をしていいのか、いけないのかを絶えず問われるときに、判断の基準の一つがこれなのです。「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」(ローマ14:13)。さらに15節には、人の心を痛める様な行動は愛に基づいていない、と記しています。


簡単につまずかないために

 また、つまずきに関して、付け加えたいことがあります。

 第一に、自分がつまずく側にならないようにしましょう。簡単なことで、或いは外面的なことで、皮相な観察で、つまずきやすいクリスチャンにならないようにしましょう。他人の行動を気にして批判したり、裁いたり、噂話しをすること(マタイ7:1)を避けましょう。本当に気になるのならば、行って直接に話し合いなさい(マタイ18:15、ガラテヤ6:1)。

 第二に、つまずくほど人間を見すぎないことです。そして、信仰の創始者であり、完成者であるキリストを見つめることです(へブル12:2)。また、つまずく暇の無い程良いわざに熱心でありたいものです。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」(第2ペテロ1:10)


まとめ

 最後に2つだけ申し上げたいと思います。

 私たちは、「大胆さ」を持つべきです。クリスチャンの行動の原則は、神を愛し、隣人を愛することです。この原則を貫くことで、たとえ今までとやり方が変わったとしても、大胆に進みましょう。その動機が正しい限り、人を恐れず行動する大胆さを持つ、それが今必要なのです。

 また、私たちは、その大胆さと同時に「繊細さ」が必要です。ほかの人の心を傷つけ痛めるようなものは慎みましょう。今までの習慣でそれに当たるものがあれば、喜んで捨てましょう。

 もう1度、第1コリント8章9節をご一緒に読んで、終りましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 990221