礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年2月28日

『心が一つになる者に御力を』

井川 正一郎 牧師

第二歴代誌15章17節〜16章13節

中心聖句

9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわして下さるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

(9節)

アウトライン:

「その心が全く一つとなっている」とはどういうことか?(1)罪から離れていること(2) 聖言に身も心もあてはまっていること(3) 主が受肉されること。神の性質が私の性質であること。(4) 具体的な場面ごとに、キリストであられたらどう思い、どう考え、どのように行われるかをいつも思い、考えること。

実生活に適用するには、(1) 主の前に徹底的にへりくだること(2) いかに罪を犯さないようにするかを心がけること。

教訓:主と心を一つにする


導入

 きょうのメッセージの中心は、16章9節です。

文語訳では、

 「エホバは全世界をあまねくみそなわし、おのれに向かいて心を全うする者のために、力をあらわしたもう。」

 大切な暗唱聖句のひとつとなっており、お祈りの中でもしばしば引用されるおことばです。よく知られているおことばのひとつですが、案外、その背景、このおことばが言われている背景は知られていないのではないかと推察します。

 よく読むと、それほど、素晴らしい状況で言われているお言葉ではない、かえって警告としての文脈で言われているおことばであることがわかります。

 きょうは、そのような文脈・背景を正しく理解するとともに、このおことばが一体なにを意味しているのか、それを考えたいと導かれています。


 ここに出てくる中心人物は、アサという名前の王様。以前学んだヨシャパテ王のお父さん。14章から16章まで記されている人物です。

 16章の終わりにユダ王国・エルサレムを41年間治めた王様であったと書いてあります。ここで、すこし、短い時間を使って、聖書の学びをしたいと思います。きょうから、信徒聖書学校も再開されますし、CS教師指導訓練コースもスタートしますが、良い意味で神のことばである聖書の学びを深くすることは非常に大切なことです。

 それはともかく、アサ王は14章から登場します。41年の歩みの中で聖書は大きく言って、6つのことを記しています。マークをつけていきましょう。


 まず、(1)14章1節―8節。「10年の平安」としましょう。

 はじめの10年間、主の目にかなうことを行った。「きよめと正しい歩み」、偶像を取り除き、主を求め、主の命令・律法を行い、その結果、平安であり、安息が与えられ、戦いを挑む者がなかったのです。

 つぎに、(2)「時がたって」(9節)、これを「10年後の一つの試練、信仰のチェック」とします。

 クシュ人ゼラフ(今のエチオピア人)-ピラフを思い出す名前ですが(笑)−これは、神が与えられた一つの試練と理解できます。10年の安息の期間を経て、信仰の刷新・チェックを必要としたのでありましょう。

 人間、必ず、ある程度の期間ごとに試練、信仰の刷新・チェックを必要とすることが与えられます。11節のように、アサは神を求め、全面的に頼り、勝利を与えられました。テストに合格したのです。

(3)15章1節-18節。「預言者のメッセージと、それに対する即座の服従・刷新」であります。

 15章で、預言者が彼のところにやってきて、神の言葉を伝えます。

そのように主を求めるならば、主はご自身を示してくださる。しかし、もしも主を求めずに勝手なことをすると、主はあなたから去られる。

アサはこの預言者のことばを聞いたとき、即座に、刷新していくのです。この刷新のわざの中に、偶像に染まっている自分の母親を王母の位から退けたとも記されています。母マアカはあのアブサロムの娘とも言われています。

 10節に、そのことはアサの治世15年目であると記されています。その結果、15節の安息、そして15章9節、主がアサとともにおられるのを見ると、人々が彼のところにやってきます。人を引きつけるのであります。

 (4)として、19節にしるしをつけましょう。「アサの治世の第三十五年まで戦いは起こらなかった」。17節、「一生涯、完全であった」。意味深長な言葉であります。

 (5)、この五番目がきょうの箇所であります。仲間である北王国イスラエルが攻めてきました。36年目と書いてありますから、前の10年後にあった試練と同じ様な意味での信仰のチェックの出来事であろうかと思いますが。アサの態度はどうであったでしょうか。

 主に全く拠り頼まずに、アラムの王ベン・アハデに助けを求めた。そのとき、警告のメッセンジャーがアサのもとに送られ、そのときに語られたのは、9節のおことばであったわけです。

 しかし、悔い改めない。そして、預言者のことばを聞かないだけでなく、そのひとに激しい怒りを発して足かせをしてしまいました。また、民のあるうちのある者も踏みにじってしまったとあります。

 (6)、12節、「治世の第39年目に、両足とも病気にかかった」。預言者を足かせにしてしまったことから引き出された病気であるといわれていますが、彼は主を求めず、かえって、医者を求めました。

 この記事では医者をかかることが罪でありうと早合点してはいけません。この医者は、今風でいいますと、魔術的なもの、非常に偶像・異教てきなもの出会ったと言われています。

 そして、ついに41年目に死んだのがアサ王であります。35年目までは良かった、でも終わりが「竜頭蛇尾」-はじめはさかんで、終わりがふるわないこと、頭でっかち、しりすぼみ-の王様でした。まさに、はじめはよかったが、終わりはまずかった。

 あるふざけた人-私のことですが-が、「アサという名前がよくなかった。アサは強かったが、夕方は、夜は弱かったのではないか。典型的朝型タイプ。もちろん違いますが(笑)。

 アサとは、「与える」との意味を持った言葉であります。脱線するようでありますが、35年目という数字は、実は、この年はイスラエル王は死んでいました。ですから、35年目という数字は、アサ王が即位してから35年目という数字ではなく、王国分裂後35年目と読むべきであると解釈されます。

 難しいことはともかくとして、とすると実は、前の章の15年目と言われている直後か、しばらくたっての出来事といわれています。でも、どちらにしても、アサの後半の生涯での出来事には違いありません。

 はじめはよかった。あるいは中途まではよかった。なぜ、終わりの方がだめになってしまったのだろうか。いくつかの理由が考えられるでしょう。

 たとえば、成功を重ねた結果、傲慢になったとか、今までは外側・外国からの戦いであったが、北のイスラエルはある意味では仲間からの内側の戦い、内部からの戦い。その対処のしかた、憎さ百倍のようにその態度が変わってしまったのか、それともいろいろと考えられますが、聖書では一言で、その変わってしまった理由を明確に述べています。

「主に拠り頼まない」、「主を求めない」、「神と心が一つになっていない」


本論

 きょうは、その中心的なみことば、9節に心を向けたいと思っています。

 もし、アサがずっと神に心を向けて、神を求め、神の心と一つになっていればよかったのだが、そうはならなかった。愚かなことをしてしまったゆえに、戦いに巻き込まれると宣告を受けたアサでありました。

 それでは、結局、一体神の心と全く同じ、一つになっているとは、どういう意味なのか。これがメッセージの中心点であります。

 「その心がご自分と全く一つになっている」とはいかなる意味か。神の御心と一致・合致していることを意味しますが、それは具体的に言って、少なくとも4つの意味があると思います。これを短く学びたいと思います。


 (1) まず第一に、その意味は「罪から離れていること」であります。

 神の喜ばれないことから、全く離れていることです。すなわち、これは、神との和解・贖罪と深い関係にあるもの。罪が赦され、きよめの恵みにたち、罪から離れて、神との正しい関係にあることを意味します。

 罪があるとき、神のお心と全く同じにはなりません。ズレがあります。先ほども見ましたが、アサ王が神の目に正しいことを行っているときは平安があり、戦いがなかったと記されています。

 もとより、小さな小競り合いはあったでしょうが、罪のもたらす戦いはなかった。その戦いには巻き込まれなかった。しかし、この9節で言われていることは、愚かなことをした、それ故にこれからは「戦いに巻き込まれる」とあります。

 これは、罪の結果に拠る戦い、不必要な戦いに巻き込まれるとの意味、信仰者には、必要な戦いとわざわざ闘う必要のない不必要な戦いがあります。わざわざ歌舞伎町にいって、欲望との戦いをする必要はないのであります。

 神のお心と一つになっている信仰者は、いくつものことにわずわされません。不必要な戦いがなくなります。よい意味において、ひとつのこと、神のこころと自らが一つになることを宣伝出来るようになります。神の栄光のわざにです。罪から離れていること、これが第一にその心が技ご自分と全く一つになっているとの意味であります。


 (2) 第二の意味は何かともうしますと、「聖言に身も心も当てはまっていること」であります。

 アサ王は、その心が神と一致していたときは、「主の律法、命令」に心からあてはまり、心より従っていた。

 神との一致・合致を考えると言うことを考えると、しばしば、極端に走ることがあります。神を直接思い、考え、そして神と深く交わったと感じます。感じることは素晴らしいでしょうが、これが聖言を通してのもであるという必要があります

 あまりに神秘的になってはいけない。聖言なしの感覚・感じるというのは、不健全なことが多い。いや、間違いだと言っても過言ではありません。なぜならば、神はキリストを通して、ご自身を表された。そして、そのキリストがいかなる御方か、それを知る方法は聖書にあります。キリストを証詞しているものが、聖書、みことばであります。

 これをしなさい、これをしてはいけない、こう考えなさい、思いなさい、こう考えてはいけない、思ってはいけない。神と一つになり、心から憩う、喜び、平安を感じる。みことばは信仰者に語ってくれます。

 それに自分の心を,身を、実際の生活に当てはめる。まさに、それを神の御心と一致している、それ全く一つになっているといいます。お互い、そこにズレがあるか、ないかを吟味する大切さを覚えるものであります。


(3) 第三の意味は「主が受肉されること」。

 難しくなってはいけませんが、別の言葉で言いますと、神の性質が私の性質となること、神の性質にあずかること、神の心が私の心、キリストの心を心とするであります。

 15章17節に、「アサの心は一生涯、完全であった」とあります。16章の失敗、罪があるにもかかわらず、一生涯完全であった

 神の御前での完全・合一とは、どういう意味なのかというと、聖書の執筆者であられる聖霊が罪を黙認して、こう書かれたのではないかと思います。罪や失敗をよくご存じのうえに記されたものといえます。

 では、なぜか。そのことについては、後でお話ししたいと思いますが、ここでは15章までのアサ王はまさに、神のみ前で全き姿であったという点だけに絞りたいと思っています。

 アサの心は、神のみこころと一つになっていました、言い換えると、神の性質が私の性質となっていたと言えると思います。

 これには、それなりの説明を必要とします。いったい神の御心とはなにか?まじめな人は、これが最大の関心事であり、それを正しく知りたい、確かなものとしたいと思うものであります。

 みこころを知って、それにみずからを当てはめようと真剣にとりこんでいこうとする。それを信仰者といいます。

 そして、神のみこころを知る最大の道、近道は、聖言であり、それを通しての祈りであります。

 デモ、その原則はわかるが、具体的な個々の問題・課題で正しいものは何かを判断するのは、案外大変なことであります。

 たとえば、神の御旨はなんであろうか?献身して伝道者になることか、公務員か、会社員か、それとも...。この結婚は神の目にかなうものなのか、あるいはあの人の床とへ訪問すべきか、手紙にするか、電話にするか、それとも...。いったい、神の最善の、ベストのみこころはなにか?それを悟るには難しさが伴います。

 神の性質が私の性質となっていく。神のお心を知るのが上手になってくる。ここが鍵となります。

 今日のお話、信仰の核心部分にふれています。ある意味で景気のよいお話でもなく、元気がつく話でもなさそうです。霊的な、心の問題、心の営みの中心部分の話であります。このたぐいのことをお互い、真剣に吟味し、深く探らせていただきたいと思います。

 それはともかく、神の性質が私の性質となる。神のみこころと一つになるというためには幾つかの段階、階段、ステップがあります。

 まず申し上げたように、神の喜ばれないことから離れるいう段階、階段、ステップがあります。

 そして、つぎは自ら何がベストなのかを選び取っていく段階、チャンネル合わせ、チューン・アップといってようでしょう。

 そして、この選び取りの行いを、注意深く神の喜ばれることを何としても選びたいとの切実な思いをもって、選んでいく作業を続けていくと、それが習慣化していく、そして性質となっていくのであります。

 そういう段階・次元があるのであります。ことばでの説明に限界を感じますが、神の性質が私の性質となるという世界が現実に存在します。

 この世界、ある意味で霊的訓練を必要とする、絶えざる追求を必要とする、意識的に訓練する必要があります。

 ブラザー・ローレンスの「敬虔な生活」のなかで、主の臨在、神の者となる営みを習慣的に感じるようになったことについて記しています。経験の世界であり、過去の多くの人の証詞もあり、それが聖書の約束でもあります。

 コロサイ書2章に、

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた性質が形をとって宿っています。そして、あなたがたもキリストにあって満ち満ちている」

とあります。

 神と一つとさせていただく。神との一体化。そういう世界があるのであります。

 そもそも聖書の宗教の大きな特徴の一つは、神が私たちの内に住んでくださる、宿ってくださるということです。神に全面的に拠り頼み、神に住んで頂くべく、心を明け渡している者に対して、神が内に住み、日々生きて働いて下さり、守り、支え、また導いて下さる。そしてあまつさえ、信仰者の品性・性質をキリストに似た者に変貌させてくださるという。何という宗教でありましょう。

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心が御自分と全く一つとなっている人々に御力をあらわしてくださる』

とあります。


 神のおこころと一つになるとは、どのような意味か、三つのことを学びました。

(1) 罪から離れること、神に喜ばれないことから離れること。

(2) みことばに自らをあてはめること、人格全体をもってあてはめる。

(3) 神の性質を私の性質とすること。

これで終わってもよいのですが、もう一つつけ加えたいと思います。

(4) 第四の意味は、非常に実際的な問題・課題に直面するとき、この場合の対処は、みことばにあてはめると同じ様なことでも、キリストであられたなら、どう思い、考え、行われるかということをいつも思い、考えること、そして、その判断に従って行動することであります。

 イエス様であられたなら、どうなされるか。これを私たちの性質としたいのであります。

 細かい具体的な問題を含めて、常にこういう姿勢を私たちの性質としたくねがっております。これを霊的な人といいます。

 そして、結局信仰とは、キリストの立場に立つこと、キリストの側から物事を見ること、判断すること、キリストの見地に、観点に立つことと言えます。

 主の臨在を常に意識し、主の導きを仰ぐとは、私たち人間側の心の営みとして、みことばと照らし合わせながら、光に照らし合わされがら、イエス様であられるなら、どうなされるか。こんなことを口に出されるはずがない、こんなことを行ってはいけないとか、こうすべきだ、こうしてあげるべきであるとか教えられていきます。

 この営みを私たち信仰者の性質としたいものであります。ですから、この営みは非常に実際的・具体的に実際生活の中に深くはいりこんでいるものでありますから。神と一つになるというと、案外、抽象的・神秘的になりがちですが、そうではありません。ご理解されると確信しています。


以上、四つのこと。神のお心と一つになる。そういう人々を神は全治をみそなわして探しておられる。そして、そういう人物に。本当の力をあらわして下さる。

では、力があらわされるとはどういうことでしょうか。それに、半分程私の付け加えもありますが、

(1) 良心に責めがないとき、人は力強くいられ、歩むことが出来ます

(2) 神がともにいまし給うことを確信したとき、人は力強くいられ、歩むことが出来ます。

(3) 神が愛のお方であられ、常に神が私のために最善しかなし給わないお方と確信し、全くお任せするとき、人は力強い。

(4) 備えが出来ているとき、人は力強くいられ、歩むことが出来ます。

 言い換えると、聖言や祈りといった神の武具に装われているとき、人は力強く、そして歩める。以上であります。

 私たちは力強いでしょうか。力弱いでしょうか。

 力とは、きよめと神の臨在・内住と深く関わりがあります。そして、みなさん、神の力が私たちにあらわされていると言うことは、「なにか力が漲ったぞ」といったものではないと思います。

 私がやったとか、神の力が内に漲ったとか、その結果でこうなったとか、そういうこともあり得ますが多くの場合、良心の責めなく、ただ一歩一歩、地道に神に拠り頼みつつ、神の最善を信じながら歩んでいくときに、その人の内に結実が、また周りにも結実が、また香りが放たれていきます。

 そして、そのことを案外意識していない。神の力があらわされるとは、そういう性質のもののようであります。


さあ、メッセージがはっきりしてまいりました。

 このあゆみを一日一日の実際生活にあてはめる、適用していくにはどうしたらいいかですが、一言で言えば

「神に全面的に信頼するに尽きる」

のですが、これを箇条書き的に2つの要素に分けてお話しして締めくくりたいと思います。

まず第一に、(1)一回一回、主の御前に座り(立っていてもよいですが)、徹底的にへりくだることであります。

 主を求めるとは、自らや他の力を頼ることではなく、主に全面的に頼ることを意味します。アサの前半の生涯は、何か起こるたびに主のみ前でへりくだり、主を仰いだ生涯であったでしょう。先ほど、罪や失敗があったにもかかわらず、聖霊がアサの生涯は完全であったと評価されたのは、彼が一回一回、ことあるたびに、このような姿勢をとっていたからでありましょう。

 そして、人間、失敗はよくあります。ダビデのような大きな罪を犯すことさえあります。その罪のゆえにダビデは自分の家族のことで苦しまねばならなかったのですが、彼の生涯は、神の前では完全であったと言われています。

 これはあくまでも15章までのことであると理解せずに、同じようにアサも失敗を重ね、罪も犯してしまった。その罪の結果の後始末をせねばならなかったが、聖書には明確に彼が最後の最後で悔い改めたとは記していないが、一生涯完全であったと評価されているところから推測すると、彼は主に最終的には受け入れられたと見てよいと思っています。

 十字架上の盗人さえも土壇場で救われている、あのマナセさえ、土壇場で悔い改めている。土壇場の逆転劇。神の世界では、よくあること、このアサも悔い改めたのではないか、と。

 人間の最後を、人が決して評価できないのであります。

 何を申し上げたいか。

 要は、早い内から、私たちは、神のお心と一つになって歩みたいということ。そのために、神の前に常に砕けた魂をもって、自らを頼まず、主に全面的にお頼りしたいものであります。


第二番目に、(2)神のお心にひとつになろうと一所懸命になるのではなく、いかに罪を犯さないようにするかを心がけたい、ということであります。

 これはどこかで聞いた言葉ですね。そう、昨年のペンテコステ聖での河村先生の目セージのなかで引用された、われらが教会の初代牧者・蔦田初代総理のお言葉であります。

 「きよめに成長しているか、私はみ心に合っているか否かなど考えずに、何よりも、今の場面・出来事を前にして、いかに罪を犯さないかを考えよ」。

 実は、このお言葉、私の導き手でもあられた久芳先生方が、よく、若い学生方に口にされた言葉でもあります。

 詩篇119篇にも、

「神に罪を犯さないために、私はあなたのおことばをたくわえた。」

とあります。

 よいことをするのに熱中していくことが大切ではありますが、それ以上に、いかに罪をおかさないかを思いながら、生活すること、これは非常に実際的なアドバイスです。

 もとより、神経質になる必要はありませんが、歩みにも適用されます。場面場面、一回一回、へりくだりと主に対する全面的な信頼、求めをもって対処して参りたいものであります。

 そして、なによりも、いかに罪を犯さないかを考えながら歩みを進めたいものであります。そして、それがまさに、主のお心と一つになっている姿といえましょう。

「その心が御自分と全く一つになっている人々に御力をあらわして下さるのです」

ご一緒にお祈り致しましょう。


Edited and arranged by K.Ootuka March 5.1999