礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年3月7日

第1コリント書連講(19)

『当然の権利の抑制』

竿代 照夫 牧師

第1コリント書9章1〜18節

中心聖句

14同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

15しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。...

18では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。

(14.15.18節)

アウトライン:

パウロは教職者としての報酬を受け取らず、テントを作って生計を立てていた。彼は教職者としての権利の行使をしなかったのである。

人間には当然行使することが出来る権利というものがある。キリスト者にもそのような権利があるが、場合によってはより高い目的のために、その権利の行使を抑制していくことも必要である。それは、主イエスが十字架に於いて我々に示された道でもある。

教訓:場合によっては権利の行使を抑制しても主の務めを果たす


導入

 先々週は、 信徒の信仰の躓きを避けるためにパウロが肉食をしなかったという記事についてお話しいたしました。

 9章はその続きで「喜んで自分の権利を制限する」と言う内容を取り扱っております。

 ここで取り上げられている問題は、パウロがコリント教会員から教職者としての報酬を得なかったことに起因しています。パウロが報酬を教会から得ず、テント作りをして生計を立てていた話は有名ですが、これはパウロのコリント教会への遠慮や、福音宣教の促進のための配慮の故でした。

 しかし、コリント教会ではこのパウロの姿勢を曲解する人々がいたのです。具体的には、パウロが「使徒」と呼ばれるのにふさわしい人物ではなく、そのことに対するパウロの自信のなさが教会から報酬を得ないと言う姿勢に出ているのだ、と考えた人たちがいたのです。このような議論は、パウロが以前は主イエスを信じる者たちを迫害していた人物であり、ペテロやヨハネのような「直弟子」とは違うのではないか、という考えに基づいてされたことです。

 今日取り上げる箇所では、その誤解に対する弁明と、それを通じてコリント教会員に「主のために権利を抑制する」ことの意味が訴えられています。


パウロは主イエスの使徒=直弟子の資格を持っていた

 1〜2節でパウロは、ダマスコに至る道で主イエス・キリストに会い、回心したことを述べ、自分がヨハネやペテロ同様に「使徒=キリストの直弟子」と呼ばれる資格のある者であることを強調しています。

 さらに、パウロはコリントの教会員をキリストに導いたのは、他ならぬ自分であると言うことを強調しています。したがって、他の教会員がどのように言おうとも、ことコリント教会に於いてはパウロは「使徒」と見なされるべき人物ではないかと訴えたのです。彼はこのことを指して、「あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。」とはっきりと語っています。


使徒としての権利とはなにか?

 パウロは引き続き「使徒」としての権利について、具体的に3つの点を述べています。

 第1は4節に書かれている「飲食の権利」であり、第2は「妻帯の権利」(5節)、そして第3はここで問題になっている「報酬を得る権利」のことです。最後の「報酬を得る権利」というのは、かなりのスペースを割いて述べられております。というのは彼がこの権利をコリントで自制し、それがもとでコリント教会に誤解が生じていたからです。


パウロは使徒としての報酬を得なかった

 ここで、パウロがどのような生活をしていたか、使徒の働きの中にそれをうかがえる箇所がありますので、見てみましょう。使徒の働き18章3節をご覧下さい。コリントでパウロはプリスキラ(婦人)とアクラ(その夫)と言う天幕(テント)作りをしている夫婦の所へ行って、自分もテント作りをしてきたので、その仕事をさせてくれとお願いしたのです。そして彼は彼らと共に日曜から金曜まで(この当時は土曜日が安息日であった)テントを作り、それで生計を立てていました。

 これは今言われる「テントメーカー」ということばの元になっているものです。「テントメーカー」とは別の仕事をしながら、福音宣教を行う人のことであり、現在非常に注目されている働きの一つです。例えば、イスラムの国や中国などでは「宣教師」としてその国に入って宣教活動をすることなど出来ません。そこで、様々な形の仕事をする目的でその国に入り、その仕事をする傍らで福音宣教の働きを行う必要が出て参ります。

 話を元に戻しますと、やがてコリントにシラスとテモテがやってくると、彼らにテント作りを託して、パウロ自身は宣教活動に専念するようになったのです。しかし、そのようになっても、彼はテント作りを完全に止めたわけではなく、出来る限りそれに関わって生活費を自分自身の手で得ようとしていました。

 第2コリント書11章9節では

あなたがたのところにいて困窮していたときも、私は誰に負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。

と書いているとおり、困ったときでもコリント教会員に経済的負担をかけなかったようです。(この時はマケドニヤのピリピ教会が今の宣教応援委員会のようなものを作って助けたのです。今私は宣教師ではありませんから遠慮せずに言えますが、このような働きは本当にありがたいもので、皆さんどんどんやっていただきたいと思います。)

 これほどまでにコリント教会に気を使ってきたにもかかわらず、パウロの行為が逆に取られるとは人間とは不思議なものです。遠慮をしても、喜ばれるケースとそうでないケースがあり、コリント教会では後者のほうのケースになってしまったのです。すなわち、最初にも述べましたが、パウロが報酬を得ないのは、彼が使徒としての資格が無く報酬を受ける権利がないからと捉えられてしまったのです。

 これには当時のギリシャの風習も少なからず絡んでおりました。ギリシャでは当時、多くの人の前で講義や講演をする場合、かなりの額の謝礼をすることが常になっておりました。それを受け取らないと言うのは、演者に自信がないか、何か問題があるからととってしまうような環境だったのです。


報酬を得る権利は主も直接示された「使徒」としての当然の権利である

 第1コリント9章に戻りましょう。7-10・13節でパウロは7つのたとえ(兵士、葡萄園の農夫、羊飼い、石臼を引く牛、耕す者、脱穀する者、祭司を挙げて、働き手がその働きによって生活の糧を得ることの正当性を述べています(マタイ10:10参照)。

 さらに、福音を伝える者がそのことで報酬を得ることが正当であると神様ご自身が宣言されているということが、14節で述べられています。

 以上をまとめると、福音を宣べ伝える者が、その働きによって報酬を得て生活を営むことは、正しいことであり、またそうあるべきことであるのです(第1テモテ5章17〜18も参照)。


ではなぜパウロはその権利を行使しなかったのか?

 パウロはではなぜその権利を行使しなかったのでしょうか?彼は二つの理由を述べています。

 まず12節に書かれているように、「福音の妨げを与えないため」です。もし、パウロが教会から多額の報酬を他の宗教の指導者同様にもらっていたならば、コリントの未信者は、結局はキリスト教の福音も説教者の生活のためと思いかねないところがあったのです。つまり、パウロは自分の福音伝道の働きが、決して金儲けのためでないことを示したかったのです。

 もう一つの理由は、15節に書かれている宣教者としてのパウロの良い意味での「誇り」です。これは「武士は食わねど高楊枝」と言うようなやせ我慢でもなければ、意地っ張りのプライドでもありません。神に仕える者の信仰と奉仕への確信からくる、崇高な誇りとでも言うようなものです。彼はその誇りを奪われるなら、死んだほうがましだとまで言っています。


伝道者以外のキリスト者にこのことはどのような意味があるのか?

 このような話をして参りますと、「私は伝道者でもないし、私の実生活とこのことがどのような関わりがあるのか?」と思われる方もいらっしゃると思います。最後のこの点についてお話ししてみたいと思います。

 私たちは一人一人人間としての基本的人権や当然保障されるべき権利を持っており、それを尊重し行使することは当たり前のことであり、良いことでもあります。例えば、クリスチャンだからと言って、所有物が盗まれるままになっていいと言うことはありませんし、不当な扱いを我慢し続ける必要はありません。

 しかしある場合、より高次な目的のために、その権利を行使しないと言う手段もあり得るのです。ある場合は、各人の権利を主張しあうことで、不必要な争いごとが起こったりするでしょうし、解決困難な事態に直面することもあるでしょう。そのようなときには、お互いにそれぞれの権利を主張するばかりでなく、一歩譲っていくことが案外解決の近道になったりするものです。

 この権利の不行使は、「しなければならない」と言う類のものではなく、主イエスが注いで下さる御愛を受けていることで自然に示されるものです。そのようなトラックを進むとき、私たちはいらぬ軋轢から解放されるのです。

 教会に於ける奉仕に関しても、「私はこれほどまでに奉仕しているのに、誰からも感謝されていない」と思われる方もいるでしょう。たしかに奉仕をされた方を認め、その方に感謝のことばを差し上げることは忘れてはならないことです。

 しかし、そのような表面的な報酬を求めるより、何よりその奉仕によって神様ご自身が喜ばれていることを知ることが大切なのです。誰も認めてくれない、誰もほめてもくれないという状況でも、神様は見ておられ、評価をして下さっています。そこに感謝があふれるようになれば、本当に幸いです。

 このような姿勢は、実は主イエス・キリストご自身が十字架の上で私たちに示されたものです。主イエスは神の一人子として最大の栄誉を受ける身でありながら、罪人の一人として十字架に架かられました。その時主イエスの目的を知っていたのは神ご自身だけだったのです。主イエスは自らの権利を捨てて、主の目的を果たされました。そして、私の十字架を背負ってついて来なさいと我々にも語っておられるのです。そうです、これはイエス様だけの話ではないのです。


まとめ

 キリスト者は必要と神様の示しに応じて、より高い目的のためにその権利を行使しないと言う判断をするときがあります。そのようなときに、本当の意味での献身の姿勢をとっていただきたいと思います。


Editied and written by K. Ohta on 990307