礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年3月14日

第1コリント書連講(20)

『全ての事を福音の為に』

竿代 照夫 牧師

第1コリント書9章16〜27節

中心聖句

23 私は全てのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受けるものとなるためなのです。

(23節)

アウトライン:

パウロは大きな義務感をもって伝道に当たっていた。それは嫌々行ったのではなく、キリストの愛に心を捉えられるようにして、積極的にみずから進んで行ったのである。

その方法も、伝道する相手の立場に立って、柔軟な姿勢で臨んだ。それは、福音のためにあらゆる為し得ることに挑戦するという積極的態度である。

このような積極的な伝道活動の報いは、その活動を通じて「幾人かの人々」が救われることであり、これは神の喜びでもあれば主にある我々の大きな喜びでもある。

「自分が救われた」こと、また「一人の人が救われる」ことの価値高さを再認識し、その意識のもとで福音を伝えていこう。

教訓:キリストの救いの尊さを認識し、あらゆる事を福音宣教のために行う。


導入

 先週は、パウロが福音を広げる妨げとならないように、自分の持っている当然の権利をも抑制した態度について取り上げました。ここから、私達クリスチャンも献身の姿勢を徹底しなければならない事を学びました(12節)。

 今週はもう一歩進んで、福音を伝達する積極的な態度を学びたいと思います。


A 伝道の使命

 16節でパウロは、福音を伝えることは「どうしてもしなければならないこと」と記しています。つまりパウロにとっての福音伝道とは、しなければならない必修科目のようなものであり、好みや好き嫌いでやったりやらなかったりするような選択科目ではありませんでした。

 彼はまた、その「必修科目」をやらないことが、自分にとって災いをもたらすと信じていたほどでした。つまり、彼にとって福音伝道は極めて大きな責務であったわけです。

 かといって、何かパウロは義務感に苛まれて福音伝道を嫌々やっていたのかというと、そうではありません。パウロは第2コリント5:14で、

「キリストの愛が私達を取り囲んでいます」

といって、神の愛に満たされ、その愛に押出されるようにして、喜んで福音奉仕をしたことを告白しています。

 それでは何故パウロは「責務」「負債」として福音伝達を挙げたのでしょうか。この「取り囲む」ということばは「つかまえて離さない」と言うニュアンスを持ったことばです。もう少し言い換えれば、子猫が首を掴まれて持ち運ばれるときのように、自分の意志に関わらずにがっちりと掴まれてしまった、と言うような感じです。

 つまり、キリストの愛が私たちの心を捉えて離さない、そういう圧倒的な召命感がパウロにはあったのです。

 彼はダマスコ途上で復活のキリストに遭い、キリストご自身によって「あなたの生涯は、人々の目を開いて暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせる為」(使徒26:18)のものだとはっきり告げられました。この時から、彼の生涯目標は決まってしまっていたわけです。

 では、パウロと違う私達には、その責務はないのでしょうか、あるのでしょうか?結論から申し上げますと、「ある」と言うことになります。

 マタイ28:19、20に記された宣教大命令

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」

は、勿論それを聞いたのは12弟子とその周りの弟子でありましたから、私達には関係ないという議論も成り立つかもしれません。しかし、良く読んでみますと、この命令が12弟子だけに与えられたのではなく、私達全てに向けられたものであることに気付くはずです。

 理屈っぽく言えば、「あなたがたに命じておいたすべてのこと」の中にはこの宣教命令が入っているのです。即ち、あらゆる国で弟子となる人々(つまり私達)は宣教の命令が与えられている、と捉えるべきなのです。

 私たちにもこのような使命が与えられていることを、しっかり確認しましょう。


B 伝道の態度

 次にパウロの伝道の姿勢(=柔軟性積極性)について学んでみましょう。

 まずその柔軟性についてですが、パウロは伝道の折りに、自分の在り方・主義を主張しないで、伝道の対象となる人に合わせた態度で望みました。

 彼はそれを指して、「全ての人の奴隷となった(19節)」と記しています。この当時のギリシャやローマでは、実際の社会生活の大部分は多くの奴隷階級の人々によって運営されていて、その上部階層の人たち(パウロはこの階層にいた)はその働きの上に自由に生活していました。

 したがってこの部分は、パウロがその自由人としての権利をなげうって、救いを伝えるために多くの人の奴隷となったと言っているわけです。

 この意味をもう少し説明いたしますと、パウロは伝道される側の人々の心を開かせる為に、可能な範囲でその人の立場や心情に同化するように務めたことを指しているのです。

 具体的には、

1)ユダヤ人の間で伝道する時には、パウロはユダヤ人のように振る舞いました。彼は元々ユダヤ人でしたので、同じユダヤ人として彼らとともに律法を守り、会堂での礼拝に加わって伝道のチャンスを得ようとしたのです。

 ナジル人としての誓を果たして、ユダヤ人らしく振る舞った記事が使徒20:26に見られますが、これはその証であります。

2)パウロはまた、異邦人の間で伝道する時には、異邦人のように振る舞いました。

 例えば、ギリシャの宗教に対しても一方的な弾劾をせず、理解ある態度を示したりもしました(使徒17:22、30)。もっと砕けて言えば、一緒にオリンピック見物にでも出かけて共通の話題を得ようとしたかもしれないのです。

3)さらにパウロは、弱い人には、弱い人の様に振る舞いました。

 信仰に入ったばかりの弱い信仰のクリスチャン達には、その弱い良心をつまずかせないように、パウロは彼等と同じ振る舞いをしたようです。

以上の態度を平たく言いますと、福音の前に本質的でないことへ突っ張ってこだわることは止め、相手に応じて柔軟に応対し、できることを尽くして多くの人を導こうとしたのです。

  さらに言うなら、We are holier than you.(我々は聖よいのだ。)という態度では、人々の心を閉ざしてしまうものです。

 貴族の中では貴族の言葉で、スラム街に行ったらその人々の言葉で、飲む人にはそのような話題で応対し、まず心を開いて頂くことが福音を伝達する第一歩なのです。

 これは技巧とか戦略と言うことではなく、心の持ち方と言うべきものです。セールスマンのセールステクニックとは違う種類のものなのです。つまり、真実に相手の心と同化しようと務める姿勢が、相手の心を開かせる、というようなものです。

 私達でいえば、茶髪の高校生にはそのように、ビジネスマンにはそのように、主婦にはそのように向き合い、相手の立場に立ってまず心を開くようにすることが実に大切なことです。

 この点でクリスチャンは、この世の中で孤立した存在であってはいけないのです。あえて危険なところに立ち入れとは言いませんが、譲れるところは譲って相手に柔軟に対応し、いろいろな方と交流を持っていただきたいと思います。この世との接点をそれぞれの方が多く持っていただき、その中から幾人かでも主に導くために働いていただきたいと思います。

 パウロは「幾人か」の人を救いに導く、と記しています。この「幾人」というのはパウロの謙遜でもありますが、またその一方で福音伝道の困難さをあらわしてもおります。

 人間とは自己中心にできているものです。神様の存在を認めたがらないようにできているのです。そういう方々に単純に福音を説いて、信ぜよ、と言いましても簡単に信じてもらえるものではないのです。

 だからこそ、幾人かが救われると、天の大きな喜びとなり、また私たちの大きな喜びとなるのです。また、その人々や救いに導いた人々が貴いのです。パウロはそのことを良く知っていたからこそ、ここで「幾人か」の人と言う言い方をしているのだと思います。


 次にパウロの積極的な伝道態度を学んでみましょう。

 23節でパウロは「福音のために、すべての事をする。」と言明しています。

 この意味は、「彼の行動の全てが福音伝達に集中している」(つまり、福音伝達以外の事には全く関心がなく、何を為すにも福音の為というスローガンに生きている)と解釈すべきなのでしょうか?

 または「福音伝達に役立つあらゆる方法を試みている」と解釈すべきなのでしょうか?

 前者に立つと伝道以外は何もしないモーレツ伝道者を奨励する聖句となります。これは素晴しいといえますが、人間としては何とも狭いイメージが強くて、私達全てに対してはどうも、と思ってしまいます。

 後者の解釈はもっと自然であり、積極的な見方といえるのではないでしょうか。伝道のためならば何でもやって見ようという創意工夫が奨励されている、と見れば、私達にも出来ると思えます。

 あらゆる形態で伝道の方法を考え、また実践してみると言う積極的姿勢が重要であると言えましょう。23節は、私たちにこのような積極性を勧めているのではないでしょうか。

 去年、伝道懇談会というものを開き、伝道の為のアイデアを皆で出し合いました。こういう方法をブレーンストーミングといいます。私達の頭脳を刺激して今まで考えも付かなかった発想で物を考えようという試みのことです。

 私は今この教会にもまた教団にも求められているのは、この発想転換ではないかと思うのです。私達に伝えられた福音の素晴しさを、伝達方法の貧しさで減殺してはいないでしょうか?柔軟な発想で、現代人が何を求め、何に関心を持ち、どういった音楽や話題に共鳴を感じるかを知って、それに合わせて行く努力をもっと払いたいと思いますし、またそれを実行したいとも思っています。


C 伝道の報い

 先程も述べましたが、「幾人かの救い(22節)」と、パウロの様な大伝道者が語っているのは誠に興味深いものがあります。彼は実際にはとんでもない数の人間を導きましたが、ここでは何千人の救いとか、百万人救霊とかいう大風呂敷は一切広げていないのです。

 これは何故でしょうか?。前にものべましたが、これはパウロが一人の魂の救いがどんなにむずかしいかを知っていたからではないかと、私は思っています。それ故、彼はへりくだったのではないでしょうか。

 さらに、一人の救われる事の価値を知っていたからではないでしょうか。一人が救われるときには、サッカーのゴールを挙げるときに時に勝った爆発的な喜びが、天において御使い達によってなされるのです。

 人を救いに導く報いの二番目は、救いに導いた自分も救いに与る(23節)ということです。それは、他人の救いを通じて、パウロ自身が福音に関わる人間となったということを意味しています。

 エホバの証人の信者は、非常に熱心に伝道します。これは彼らが「伝道することで救われる」と教えられているのが一つの理由です。「救いに導いた自分も救いに与る」と言う内容は、このような「救いは伝道によってもたらされる」と言う考えとは違います

 こういう強制心理からではなく、福音の喜びと恵みに心動かされて、伝道活動をするということが大切なのです。言い換えれば、一人の魂の救いに参加することによって、私達もその喜びを味わうことができると言う意味で、報いがあるのです。

 さらに、人を救いに導くことで、失格者になることから守られることが挙げられます(27節)。福音の伝達という崇高な奉仕に携わる事によって、福音の素晴しさをより深く知り、結果的に自分自身も罪からも守られるのです。


結論

 最後にまとめをいたしますと、なにより「一人の人が救われる」ことの価値の高さを再認識する事が大切です。具体的には、

1.救われたと自覚している人は、その為に払われたキリストの贖いを値積もり、自分の為に祈ってくれた人々、労してくれた伝道者に感謝をいたしましょう。

2.まだ救いを経験していない人は、それだけ自分の魂が価値高く期待されていることを知りましょう。

3.隣人や家族、友人の為に祈っている人がおられましたら、「誰かを救って下さい。」とは言わず、「主よ、OOさんを救って下さい。」と特定的に祈るようにしましょう。

 更に今週、皆さん福音の為に何かの努力をして見ようではありませんか。例えば、「インマヌエル」をどなたかに送ること、電話を掛けること、訪問をすること、話題の中に主を証すること、どんな小さなことでも、祈って工夫して始めて見ようではありませんか。もう一度22-23節の言葉を交読し、お祈りいたしましょう。

23 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべての者となりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

23 私は全てのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受けるものとなるためなのです。


Editied and written by K. Ohta on 990314