礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年3月21日

年会・受難週を前に

『自分の生命を与える為』

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書10章32〜45節

中心聖句

45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

(45節)

アウトライン:

主イエス様が人類の罪のために十字架に向かわれる直前、弟子たちの最大の関心事は「誰が1番偉いか」でした。

私たちは、この世にあって「仕えられるため」にというの原理で行動をしてしまいがちです。

イエス様は「仕えるため」にこの世に来られ、完全な十字架の救いを完成して下さいました。この十字架により「私の問題の一切が終ったのです」と信仰を持って告白し、立ち上がらせていただきましょう。

教訓:この世の原理と神様の原理の対比


導入

 今日のテーマとなっております、マルコの福音書10章45節を、もう1度、ご一緒に読ませていただきたいと思います。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(45節)

 あと1週間で受難週を迎え、年会(3/25〜3/28、会場:聖宣神学院、青山学院講堂)の週に入りまして、私たち伝道者の任務は、あと1週間と半ばをもって解かれることになります。私たちの任期は1年という決まりがあります。その意味で、私たちは心を新たにして、全部を主にお返しして、新しい任命をいただくことになります。

 そうした意味合いを込めて、今日は聖餐式ももたれることでありますが、そのような時に、十字架に向かわれた主イエスの姿勢というものを、弟子たちのそれと比べてみて、皆さんと共に考えてみたいと思っております。


概観 − イエス様の心と弟子たちの心の対比

 主イエス様が、十字架に向かわれたお気持ちというものが、今読んでいただいた45節に記されております。それを1言でいうならば、徹底した謙遜ということであると思います。それに比べ32節からの物語は、弟子たちの心にある野心、高慢、権力欲という気持ちを代表しているのです。この箇所ほど、その2つが、コントラストとして述べられている箇所は、他にないように思います。

 弟子たちの話題の中心は、「だれが1番偉いか」ということでした。これは、マルコ9章34節にも見られます。いかにしたら伝道が祝されるか、魂が建て上げられるかと、もう少し気の利いた話題であったならばと思います。もう1箇所、ルカ22章24節です。「また、彼らの間には、この中で誰が1番偉いだろうかという議論も起こった」これは十字架の前夜の出来事です。イエス様の心の中は、明日、十字架に付けられ、弟子たちともサヨナラしなければならないという悲しみでいっぱいであったと思います。「親の心、子知らず」という諺がありますが、まさに「先生の心、弟子知らず」といったらよいのでしょうか。


弟子たちの心(野心、高慢 − 世の中の原理)

 それではマルコの福音書10章に戻ってみましょう。

 32〜34節までは、3回目の十字架の予告がなされております。「彼らは、人の子を死刑に定め、・・ついに殺します。」エルサレムに上る途中、いつもは一緒に弟子たちと歩くイエス様が、先頭を行き、それには弟子たちもただならないものを感じた様子です。

 35〜37節では、そういう雰囲気に対し、ヤコブとヨハネがトンチンカンな頼み事をしているのがわかります。今風に言えば「イエス様、あなたが総理大臣になったら、我々の内、1人を大蔵大臣に、1人を外務大臣にして下さい」ということなのです。

 38〜40節を見ます。「あなたがたは、わたしの飲もうとしている杯を飲み、わたしの受けようとしているバプテスマを受けることができますか。」ここでいう"杯"とは「苦しみ」の象徴です。また"バプテスマ"とは「イエスが死んで葬られること」もしくは、「苦しみの涙("浸す"の意から)」の象徴です。ヤコブとヨハネは、イエス様の言われた真の意味を理解せずに「できます」と答えたのでした。

 また、このことに対する十人の弟子たちの反応が面白いのです。「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」(41節)とありますが、何で、腹を立てたのでしょう?。2人がイエス様の苦しみの気持ちを理解しなかったからでしょうか。そうであればまだ救われるのですが、違います。2人に先を越されたと思ったからです。今まで1番弟子であると自認していたペテロは当然怒ったことでしょう。この10人の心の根は、結局、ヤコブとヨハネと同じ「人より偉くなりたい」という野心なのです。


イエス様の心(神様の原理)

 イエス様は言われました。「しかし、・・あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(43節)。この「しかし」という言葉が大切です。世の中では、偉い人が権力を持って人を支配します。そのため、偉くなることが人々の目標であり、生きがいになっているのです。 "しかし"あなたがたクリスチャンの間では、世の中のそれとは全く違った生活原理でなければならない、仕えられるのではなく、仕えるのでなければならない、と言っています。これは言うには易しいですが、行うに難いことです。

 次の44節では、「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と言われました。ここで言うしもべとは奴隷の意味です。世の中の生活原理とは全く違った神様の原理が見られます。

 45節「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」ほんとうは、主こそ、仕えられるところの御子、神ご自身としての栄光を持ったお方でした。そのお方が、その姿を全部捨てて、24時間すべてを人に仕える生涯を送られました。弟子たちの足を洗ったのは、自ら奴隷のようになって、仕えることを示されたのです。そして最後には、「多くの人のため、贖いの代価として、自分のいのちを与え」られたのです。

 ここで「多くの人のため」と限定的な表現になっていますが、なぜ「すべての人のため」ではないのでしょうか。もちろん、主イエス様は、すべての人のために十字架に掛かって下さいました。主イエス様の十字架は、すべての人に有効な、普遍的な救いであります。しかし、心を開いて「この方を受け入れます」と告白し、イエス様を心に受け入れる人にとっては「〜人のため」という意味が生きてくるのですが、すべての人が主イエス様の救いを受け入れるとは限らないからであります。

 「贖いの代価として」の「贖い」とは、元の意味は、「釈放する」という意味で、「われわれが罪の支配下・虜(とりこ)になっている状態から釈放する」ということです。「代価として、自分のいのちを与えるため」とは、「自分の生命と引き換えに」ということです。本来私たちが受けなければならない刑罰を、十字架において受けて下さったのです。「いのち」とは、人間が与えることの出来る最高のものです。イエス様は、私たちを愛し、それゆえ、ご自分の「いのちを与えて下さった」のです。それゆえに、今私たちがあることを感謝しなければなりません。


終わりに

 終わりに、このメッセージが私たちに与える挑戦、語りかけを3つの角度からお話しをして、終わりたいと思います。

 1)まことの謙遜

 主イエス様が示して下さったほんとうの謙遜の心を持って、人々に仕える者でありたいと思います。救世軍のブレイングルのいう中将が、士官学校に入った時最初に与えられた仕事は、上級生の靴を磨くことだったそうです。そして、靴磨きの仕事をしている時に、人に仕えるということを学んだとのことです。

 2)まことの献身

 私たちは、この世にあって、ほんとうの意味で人を愛することの出来ない(難しい)者です。しかし、イエス様が私たちを愛し、私たちの罪の犠牲となって死んで下さった十字架を見つめることで、神の愛が私たちに与えられ、兄弟のためにいのちを捨てる者とさせていただきたく、思います。

 3)まことの信仰

 イエス様は、完全な十字架の救いを完成して下さいました。十字架において、事が終った、救いが完成したのです。あなた方の罪の問題は、十字架ですべて終ったのだ、とおっしゃって下さいました。これを信じて、いただくことが信仰です。

 もし、皆さん方の中で、自分にはまだ罪がある、解決していない問題がある、事が終っていない、私の救いは不完全だと思っている方がおられますか。それはどこに問題があるのですか。イエス様の救いが不完全なのでしょうか。そうではありません。

 イエス様の救いは1回きりで完全(Once For All)なのです。問題は信ずる側にあるのです。私たちがイエス様の救いを単純に、全面的に「そうです」「私の問題の一切が終ったのです」「もしやめられないくせがあるなら、イエスさま、あなたを信じます。事終われりです、信じます」と言って立ち上がればよいのです。これが、まことの信仰なのです。

 お祈りを致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 990322