礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年3月28日

第54次年会合同礼拝・東京青山学院講堂

『われらの拠点』

藤本 栄造 総理

マタイの福音書21章1〜11節

テトスへの手紙2章12〜14節

中心聖句

14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2章14節)

アウトライン:

教団の改革期において、当教団の拠点を再確認することが重要である。

インマヌエルは蔦田二雄師の掲げた「聖宣」のビジョンを出発点としており、この「拠点」を変えてはならない。また、もう一つの「拠点」は聖書のことばである。

神は我々をこのような目的のために用いようとなされている。我々もそのご期待に応えられるよう、これらの拠点に立って日々の奉仕に励んでいこうではないか。

教訓:「聖宣」の拠点の確認


導入

 今朝は年に一回の第54次年会の合同礼拝の時です。全国各地から1800人にのぼる人々が、ここ青山学院の講堂に集っております。また、今日は「棕櫚の日曜日」(Palm Sunday)、すなわち主イエスが十字架に引かれる前、エルサレムに入京したことに因んだ日曜日であります。次聖日はイースター(復活祭)になります。

 フランスの画家にジョルジュ・ルオーと言う人がおります。この方は今世紀最大の宗教画家と言われている人で、1930年、ナチスドイツの勢いが増すヨーロッパにおいて集中的に描かれた「受難(The Passion)」というシリーズが有名です。このシリーズは、主イエスの受難をモチーフにした絵であります。

 ルオーは宗教画家として有名ですが、宗教関係以外の人の絵も描いています。例えば「道化師」や「王様」などを描いています。ところが興味深いことに、これらの人々の表情は、その中にどこか苦しみと悲哀に満ちたものが込められており、これらのものは「受難」に見られる主イエスの苦悩の表情につながるものがあると言われています。

 すなわち、ルオーにとってはこれらのキリスト教関係以外の人の絵も、主イエスが担われた人類全体の苦痛と悲しみを表すという意味で、非常にキリスト教的な意味合いを持っているのです。

 今日信仰が弱っている方や、苦しみの中におられる方は、是非もう一度十字架を見上げ、主イエスがそのすべての苦難を背負われて十字架に架かられた事実を思い起こしていただきたいと思います。そうすることによって、キリスト者は大きな慰めと励ましを得る特権を有しているのです。

 また、ルオーの絵を見たある伯爵が、その絵に付けられていた「私はあなた方にすべてのことをしました。あなた方は私に何をしてくれましたか?」という聖書のことばに打たれ、宣教活動を始めたという話しもあります。今日私たちの心も、十字架から何らかの語りかけを頂きたいと思っております。


私たちの教団の拠点とは何か?

 今朝のテーマは「われらの拠点」というものです。今年の6月、教団総会が行われ、新たに教会条例が改定されます。こういう大切な時期に、今一度私たちの教会のよって立つところを確認させていただきたいと思います。といいますのも、こういう大きな動きのあるときこそ、「拠点」というものをしっかりと持つことが非常に大切だからです。


拠点の第一:蔦田二雄師の信仰理念・ビジョン

 神様はその働きのために、特別な人物をお立てになることがあります。神様は私たちの教団の創設に携われた蔦田二雄師に、志を立てさせ、彼をしてビジョンを示し、実際にお用いになられて今日ここにあるインマヌエル教団を建てられたのであります。

 1945年敗戦に打ちひしがれる日本にあって、二雄師は非常にはっきりとした信仰とビジョンによって、私たちインマヌエルの群を生み出しました。このビジョンのもとになったのは、ジョン・ウエスレーによる18世紀英国の「メソジスト運動」です。二雄師はインマヌエルの群をこのメソジスト運動の流れを汲んだ、直線的に聖潔と宣教を目指す教団として出発させたのです。

 冷戦構造の集結は、世界の政治体制に大きな変化をもたらしました。政治はこのように世の流れとともに変化するものですが、教会の基盤をなすところの信仰の姿勢というものは不変のものです。これはいかに強い弾圧があっても変わらないものです。

 例えばルーテル派は何があってもルターの、改革派はカルバンの思想と言うものを大切にしており、変わってしまうことはないのです。

 二雄師が天に召されたのは、昭和46年のことでしたから、もうすでにかなりの方が直接二雄師を知らないと言うことが出て来ております。しかし、私たちの教会はこの二雄師のビジョンによってたっているのであり、その基盤は100年立っても200年経っても変わることはありません。

 二雄師のビジョンは何だったでしょうか?それは「聖宣」と言うことばに代表される「聖潔(きよめ)と宣教」さらには「聖書に基づく信仰」に他なりません。ジョン・ウェスレーも二雄師もそれほど背の高い方ではありませんでしたが、このようなビジョンを明確に持ち、実に迫力のあるメッセージを伝えた人物でした。私たちもこの道を受け継いで、さらに伸ばしていくことが期待されているのです。


拠点の第二:聖書のことば

 マタイの福音書21章を見てください。そこには、過越しの祭りの際にエルサレムに集まった多くの群衆(250万人とも言われている)が、ろばの背に乗ってエルサレムに入京されたイエスを、棕櫚の葉を振りながら、「ホサナ、ホサナ(「主よどうぞお救いください」と言う意)と叫んで歓迎している姿が描かれています。

 これは、ユダヤの王を迎える最大の礼儀を払っていることを意味しており、主イエスはそれに答えるべく、その後の一週をかけて最後の救いの御業を果たされたのです。

 このように主イエスは王としてエルサレムに入られましたが、それは尊大で高貴な王の姿とは全く違った形で行われました。主イエスは、ろばの背に乗った僕の姿であらわれ、そして罪人と同じ形で十字架にかかり、救いの御業をなされたのです。

 このロバという動物をイメージしますと、何とも主イエスの謙遜な姿勢が伝わって参ります。ロバは馬のように大きくもなく、立派でもありません。小さい体に多くの荷物を積んで、何か悲しげに一生懸命に荷物を運ぶ動物と言うイメージがあります。主イエスもこのように僕の姿をとって、私たち人間の重荷や苦しみ、くびきを負っておられるのです。

 それ故私たちはもはや罪の重荷やくびきから解放され、大変軽い「主イエスのくびき」しか背負わなくて済んでいるのです。このために主イエスがどれほどの重荷を負っておられるかを思いめぐらせていただきたいと思います。元来私たちは自分たちの罪の重さを知りません。その重さは主イエスの十字架に示された神の御愛の大きさにのみ、始めて見て取れることができるのです。

 主イエスは罪人として十字架に架かられました。しかし、主はそれに卑屈な姿勢で臨まれたのでなく、謙って柔和な心で臨まれたのです。


「聖宣」のための特選の民 

テトスへの手紙2章をご覧ください。ここは主イエスの死についてパウロがテトスに書き記した部分ですが、大切な箇所ですので、皆さんで交読していただきたいと思います。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

私たちすべてを不法から贖い出し」と書かれていますが、この「贖い出す」ということばは「(奴隷などを)代価を払って引き受ける」と言う意味があります。

つまり、私たちは罪の奴隷であったわけで、自分からこの奴隷状態を抜け出すことができませんでした。誰かに代価を払ってもらわなければならない立場だったのです。

このような奴隷の立場にあった私たちを、身をもって救いだしてくださったのが主イエスなのです。十字架の死はその為の代償なのです。つまり、十字架は人間を罪から解放するための働きであったのです。

ある人が救われるためには、これに加えその人自身がこの十字架の働きを信じ、悔い改めて主イエスを信じることも必要です。すなわち、神の愛の働きに応答する人間側の行動が必要になるのです。テトス書ではこのポイントがまず強調されました。

しかし、もう一点重要なことがテトスへの手紙に記されております。それは14節の最後にある「ご自分のためにきよめる」ということばです。

これは「救い」に加えて「聖潔(きよめ)」と言うものが大切であることを強調していることばです。すなわち人間は「救い」と言う恵みに加えて「聖潔」と言う恵みを受ける特権を有しているのです。

ローマ人への手紙12章1節にも

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

とあります。聖潔(きよめ)とは、罪に傾く心のあり方を改め、心を主イエスにお預けして住んでいただくことです。主に心を明け渡すとき、「聖められる」と言うことになるのです。これはまた、救われた者が、神の働きをしようとするのを妨げる心の傾向を除去し、浄化することを意味しています。

したがって、聖められた人々は、妨げが取られますので、ますます良いわざに熱心に励むことになります。しかもそれを自分の栄光の為でなく、神の栄光のために行うのです。こういう意味で、聖められた人々というのは「特選品」の様な人たちといえるでしょう。

今日この講壇の上の看板に

良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるため。

と書きました。このことばは実は昭和21年に行われた最初の新年聖会の時に与えられたことばなのです。この時の新年聖会はどのようなものだったかと言いますと、8畳間の部屋に6人の人が集まっただけのものでした。

しかし、この時蔦田二雄師は「今日は6人だけであるが、この6人は主にあって良いわざに励む特別な6人である」と語られました。

私たちはこれと同じように、良いわざに熱心に励むために特別に神様から召され、聖められたのであります。いわばこれが、我々の教団の原点であり、「拠点」なのです。このことをしっかりと捉えて、良いわざに励んで参りましょう。

お祈りいたします。


Editied and written by K. Ohta on 990328