礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年4月4日

イースターに因んで

『転び去った大石』

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書16章1〜8節

中心聖句

3 彼女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、誰かいるでしょうか。」と皆で話し合っていた。

4 ところが、目を上げてみると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

(3-4節)

アウトライン:

復活の朝、主イエスの墓の前の大きな石は、神の御業によって転がされていた。

主イエスの復活の御業は、このように我々の大きな問題を取り除き、我々を救い出す逆転勝利である。

主の復活の御業を見上げそれを信じる時、そこには問題の解決と安息がある。

教訓:復活の主を見上げ、希望と力に満ちた信仰生活を


導入

 今朝は主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。今日礼拝は日曜日に行われますが、それはこのイースターをおぼえてそれまでの土曜日から移されてからのことなのです。まず、イースターの出来事の流れをOHPでご説明いたしましょう。

日時 出来事
金曜午前9時 十字架刑 盗人の救い。
金曜午前12時 刑執行・叫び 酸いぶどう酒。「完了した。」ここから暗黒が始まる。
金曜午後3時 終息 次の日(午後六時から始まった)が安息日の為全ての仕事が禁止。その前に慌ただしくイエスの死の確認()・ヨセフへの遺体の引き渡し、ニコデモによる亜麻布巻き、ヨセフの新墓への埋葬が行われた。
土曜日 安息日 パリサイ人と祭司らが、イエスの復活の預言成就を恐れ、安息日にもかかわらず墓の入り口の大石にロウで封印をした。番兵も派遣。
日曜夜明け頃 イースター 夜明け頃、地震・御使いの働きにより大石が動かされ、見張りの番兵が恐れをなして逃げ出した。
日曜午前6時〜夕方 復活 墓を訪れた女たちや弟子たちへのエマオなどでの出現

足の骨を折ろうとしたが、既に事切れていたので、その必要が無かった。


 今日はこのイースターの復活の出来事について、3-4節を中心に、1)大きな問題、2)大きな救い、3)大きな信仰と言う観点から学んでみたいと思っております。


1)大きな問題

 イスラエルの墓は洞窟をくりぬいた横穴に順次死体を置いて行くというタイプのものでした。入り口近くには小さな広間があり、そこに臨時に死体を置き、処理をして奥の棚から置いていく仕組でした。その入り口には丸い形の石を置き、出入りの度にレールを転がすようになっていました。その石は泥棒とか野獣の侵入を防ぐためのものでした。この場合は特に、弟子達の死体運搬を防ぐ為にロウで封印まで押されていたようです。さらに、その上にピラトから送られた番兵が墓を警護するといったありさまでした。

 金曜日にあわただしく主イエスを墓に納め、安息日開けを待って急いで主イエスの墓に向かっていた女たち(マグダラのマリヤ、小ヤコブ・大ヤコブの母の3人)にとって大きな問題は、墓の入り口に置かれたこの大きな石でした。しかもこの石には、パリサイ人と祭司たちによって封印がなされており、さらに番兵による見張りがされていたわけです。

 この大きな石の存在は、女達にとってその細腕ではいかんともし難い、という物理的な困難さを意味しただけでなく、それを転がしたら違法行為としてとがめられる、という困難をも意味しておりました。

 サタン(悪魔、悪を行うもの)とその勢力の側から見れば、主イエスを十字架につけ、殺し、葬り、その力を完全に封じ込めた勝利の象徴でもあったのです。つまり、主イエスの業に対するサタンの一次的な勝利を象徴したもので、主イエスを死に導き、復活をさせずに自らの勝利を確実のものにしようとするサタンの働きを示したものになります。

 私たちの社会においても、悪を働く者が栄え、善なる者は苦しめられる状況が多く起こります。このように、悪が栄えることは我々キリスト者にとって大きな困難・問題であり、この場面での大石に相当することになります。

 また、私たちが持つ経済的な問題であるとか、家庭の問題、或いは健康の問題も、大石に象徴される課題となります。

 このような大きな問題に出会うと、墓に向かった女たちと同じようにその解決はあるのかと考えますが、誰がその大石を除いてくれるのでしょうか?


2)大きな救い

 墓の前の大石は、天使が転がしました。その結果地震が起きたようです。或いは、地震による石の転移を天使の業に帰したのかも知れません。いずれにせよ、悪の力の勝利の象徴である石は主の働きにより見事に転び去ったのです。主イエスは死の力を破って甦られたのです。

 このように主イエスの十字架上の死は、主イエスが死に支配されたのではなく、死からの復活を示すためのものでした。この復活等できごとは、頭で理解しようとしますとなかなか信じにくいことのように思えます。しかし、聖書の記述の中に見られるいくつかの内容は、この復活の事実を客観的に示しております。

 例えば、復活以前にはどこかおどおどして自信なさげであった弟子たちが皆大変強められ、力強い働きを始めたことがあります。もし、復活が架空の出来事であれば、かの弱々しい弟子たちがどうしてあれほどまでの力強い働きができたのでしょうか?

 また、復活を示した4つの福音書の存在があります。4福音書はそれぞれ少しずつ違った形で復活について記述しています。それらの間には、細かい点では相違や矛盾があったりしますが、むしろこの点は4つの福音書が独立に復活の出来事を記述したことを意味しており、その点で高い信憑性があることを示しております。

 主は実際に蘇られることで、死という棘を私たちから取り除いてくださり、我々が死に打ち勝つ道を示してくださったのです。これにより、私たちは天に帰られた兄弟姉妹を送るとき、世の人が悲しむようには悲しまずに済むのです。それは、天における私たちの復活がキリストの復活によって示されていることを信じているからであり、やがて相見舞える日が来るという希望があるからなのです。


 主の復活の御業は、逆転勝利とも言えるものです。柔道の巴投げのように、負けたように見えますが、究極的には勝利するというものです。

 創世記のヨセフの記事でもこのような逆転勝利のことが描かれています。ヨセフは兄たちのねたみによる罠にかかり、エジプトに奴隷として連れて行かれました。

 この出来事はその時点ではヨセフの敗北でもあり、兄たちの勝利でもあったでしょう。しかし、神はヨセフをエジプトで用い、彼を通して神の業をエジプトに示し、ヨセフをエジプトの総理大臣にまで持ち上げたのです。

 ヨセフはエジプトで再会した兄たちにこう言いました。

「あなたがたは私に悪を計ったが、神はそれを良いことへの計らいとなさった。」

すなわち、一見兄たちの策謀の成功に見えたことも、神の摂理の一面に過ぎなかったわけであります。これこそ、主による逆転勝利というものです。

 主イエスの十字架も、時の人気宗教家を抹殺するためになされたことではあり、一時はサタンの勝利のように見えました。しかし、その出来事は神のご計画である人間の罪の救済に用いられ、ついに逆転勝利となったのです。だからこそ、主イエスは十字架上で「完了した」と語られたのであり、このことばは主の勝利の言葉なのです。


3)大きな信仰

 4節に戻りましょう。この物語で問題なのは、女達が既に勝ち取られている勝利に気が付かないで悩んでいたことにあります。悩むのは当然かもしれませんが、でも問題です。第一に、彼女達はイエスの復活の約束を忘れていました。何度も復活の約束をしておられたのに、現実とは結び付けず、例え話し位にしか捉えていなかったのです。だから、香料を携え、墓石を自分達の力で取り除こうとしか考えなかったのです。神の力を限定していたわけであります。

 4節には、マグダラのマリヤたちが「目を上げると」「石がころげてあった」と書いてあります。これは第二の問題である、彼女らが「下を向いていた」ということを意味しています。つまり、問題は実際には解決されているのに、されていないと思って悩んでいたのです。

 このようなことは、私たちの日常生活でも多くあることではないでしょうか?苦難や困難を前にして、絶望し、下を見てしまうような気分になることは多いものではないでしょうか?

 思いますに、私たちの人生にも大石・小石がありますが、一番大きな問題は何かと言いますとそれは、将来の苦難を思い悩むことです。あるかないか仮定のことをくよくよと思い悩み、将来に対する漠然とした恐怖に落ち込んでしまうのが我々の常というものです。 

 しかし、それらは本当に信仰をしっかりもって目を上げさえすれば、すでに解決済みであることに気がつくのです。日本の諺にも「案ずるよりも生むは易し」とあります。実際ぶつかってみると粉々に砕けてしまうような問題が、下を向いているために如何に大きく思えることでしょう。想像と言うお化けに苦しむ人は多いのです。私達は既に解決済みである問題について悩んでいることが、案外多いのではないでしょうか。

 十字架によって「事は終った。」のであり、救いは完成し、罪は処置されているのです。にも拘わらず、罪を引きずっているのはどうしたことでしょう。私達の信仰が不徹底だからなのです。


 見上げるとは信仰の象徴でもあります。下を見ず、上を見ようではありませんか。人間などを表すanthroposという言葉は、「上を向いて歩く」と言う意味を持った言葉です。それは他の動物が四足歩行で下を向いて歩くのに対し、人間が二足歩行で上を向くことができるからだそうです。

 上を向いて、神の可能性に目を留めましょう。坂本九の歌にも「上を向いて歩こう」と言う歌がありましたが、神の救いの御業を見上げるとき、我々の課題は解決に向かうのです。それが我々の「大きな信仰」というものです。

 「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」

(エペソ1:19ー21)

というパウロの祈りを私達の祈りとしましょう。


結論

 今日は神が死の力を打ち破った勝利の記念日です。人生に、死ほど強く、恐ろしいものはありません。これを打ち破られた主が私達と共に居られるならば、どんな課題でも恐れる必要はないのです。

 イースターに主が死を打ち破られ、我々に希望を与えられたことに感謝しつつ、目を復活の主に向け明るい信仰生活を営もうではありませんか。

Editied and written by K. Ohta on 990404