礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年4月11日

第1コリント書連講(21)

『霊的スポーツマンシップ』

竿代 照夫 牧師

第1コリント書9章19〜27節

中心聖句

24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただ一人だ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

(24節)

アウトライン:

パウロは伝道者への教えとして、競技者をたとえにそのあり方を説いた。

それは、1)神に認めらる働きを全うする事は難しいを知ること、2)しかしその勝利者への栄誉は大変大きいこと、3)節制を必要とすること、4)キリストというゴールをはっきり認識すること、である。

これは伝道者だけでなく、信徒にも求められている姿勢である。キリストに基盤おいたレースを走り終え、天国で主から朽ちない冠を頂こう。

教訓:キリストというゴールを目指した福音宣教


導入

 前回は、福音伝道のためにパウロがあらゆる手だてを尽くして働いたその理由を見て参りました。

 それは、「幾人かの人」で表される「一人の人間を救うこと」がいかに大変かを知っていたからであり、福音宣教を通じて自分自身が恵みを得るためであり、さらには伝道者としての勤めを持つ身として「失格者」とならないためでした。

 今日取り上げる箇所では、パウロは伝道者をスポーツ選手に喩えて、失格者にならないためには何をすべきかということを説いています。内容的には大きく見て2つの喩えがなされています。


1)短距離選手

 パウロがコリントで宣教に従事していた頃も、ギリシャのスポーツが大変盛んな時でした。この時代、古代オリンピックなども行われ、スポーツは人気ある価値ある存在として認められていました。

 コリントのイストマスでも、オリンピアに於けるオリンピックに次ぐ2年に一度の競技会が行われ、コリント人たちもスポーツへの関心は大変高かったと思われます。

 現在でもそうですが、やはり陸上競技の花形は100m短距離走(当時は約200mの競技であったらしい)です。何しろ、これを制した者は「世界一速い男」とよばれるくらいです。パウロはまず伝道者をこの短距離走者にたとえました。

 パウロがこのようなスポーツ選手を用いたたとえを使った理由の一つに、彼がギリシャ文明の影響を受け、スポーツに大変関心を持っていたからではないかと思われます。それは彼の書いた書簡の他の部分(例えば、

ピリピ3:13-14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

第二テモテ2:5「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」

第二テモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」

にも見られます。

 パウロにとって、ゴールを目指すランナー達のひたむきな姿が大きな魅力であったらしく、クリスチャン生涯をしばしば陸上のレースに例えています。パウロのイメージするクリスチャンとは陰気で暗い存在ではなく、スポーツマンのような明るい活発な者であり、それは現在の我々にも必要なことではないかと思います。

 クリスチャンになると、ひたすら聖書を読み、祈りをし、証をする生活を送るべきで、ほかの一切の事に興味を持ってはならない、というのはすこし違うのではないかと思います。神の与えて下さった肉体を健康に保ち、それを最大限に活かすスポーツは精神の健康の為にも必要のことです。それをファンとして楽しむ事にも何の後ろめたさを感じる必要は無いのではないでしょうか。むしろ、証の為にも素晴しいクリスチャンスポーツマンが生まれて欲しいとも思っています。


2)ボクシング選手

 パウロのたとえの二番目は拳闘(古代ボクシング)の選手でした。古代のボクシングは現在のように柔らかいグローブを用いず、逆に金属や石などの突起のついたて武具を付けて戦う一撃必倒の大変危険な競技でした。じじつ、拳闘選手を讃える像がギリシャに今でも残っていますが、これらは耳が欠けたり、鼻が曲がったりしているものが大変多いのです。

 ですから「空を打つような拳闘」という表現は、この時代のコリント人にとっては大変わかりやすい「無謀・無意味かつ危険な行為」のたとえになっているのです。


これらのたとえを用いてパウロが伝道者のあるべき姿勢を述べているわけですが、それは大きく言って4つに分けられます。

A 優勝者は一人(限られている存在)である

 当時の競技会では今のような準優勝や敢闘賞のようなものはなく、優勝者だけが栄誉を受けるという大変厳しいものでした。しかし逆にひとたび優勝者になれば、大変な英雄としてもてはやされ、故郷に帰ればさまざまな栄誉や恩恵を受けることになっていたのです。

 クリスチャンとして、伝道者として召される者は多いのですが、表彰に値する走り方をする人は少ないかもしれないのです。昨日その告別式を持った阿由葉兄は、昨年の5月にここで証をされました。そして、「牧師だって天国に行ける人は少ないでしょう。だから真剣に悔い改め、祈る者となりなさい。私は80歳ですから、ここに立つことは二度とないでしょう。だから遺言と思って聞いて欲しい。」と語られました。

 この言葉を厳粛に受け止めたいと思います。伝道者のなかでも、天において主に認められる者は限られており、このような厳しい一面を持っています。言い換えれば牧師であっても、本当に悔い改めが徹底していて、神様との交わりを持ち、真摯な心で福音伝道に努めなければ、天国において主イエスからほめられることはないのです。

 さらにいえば、「あの人がどうして」というような形で、何人もの伝道者を初めとした人々が、レース途中で棄権していってしまうケースも多いのが現実です。

 パウロはこのことをコリント教会員に告げ、身を引き締めて福音宣教に臨むべきであることを説いているのです。

 他人に福音を伝え、奉仕を一生懸命にしながら、自分の魂を顧みないと永遠に滅びる可能性をパウロはレトリックではなく真剣に信じていたのです。だからこそ、彼は真剣に節制したのです。


B 優勝者への栄光の大きさ

 このように最終的な勝利を得る者は限られていますが、その反面勝利者となった場合の栄光は大変大きなものです。優勝者は木の葉(しゅろの葉かパセリの葉)であんだ冠が与えられるだけでしたが、その後彼は故郷で英雄的な歓迎を受け、像が建てられ、詩に歌われ、有名人となり、税金まで免除されることがあったそうです。

 パウロの競技者のたとえではその栄光を「朽ちる冠」といっていますが、我々が受けるのはそれよりもさらに貴い「朽ちない(義の)冠」だといっています。

 この「朽ちない冠」とはいったい何かといいますと、天国において主イエスご自身から私たちの働きに対する栄誉が授けられるという事を意味しています。つまり、天国において主から「よくやった」と直接言っていただくことが我々にとっての最大の報酬となり、また希望ともなるのです。


C あらゆる節制が必要

 25節には「闘技をする者は、あらゆる事に自制する」と書かれています。実際一流と呼ばれるスポーツ選手ほど、最高のパフォーマンスをするために、日頃から食生活やトレーニング、日常の生活に至るさまざまな点での節制を行っています。

 クリスチャンの生活も、時としてこのような自制を必要とすることがあります。例えば、世に「二本の箸で自分の墓を掘る人」がいますが、食べ物を食べたいだけ食べたのでは健康が損ねられてしまいます。また、時間の使い方も過度の夜更かしや、不規則な生活をしていたのでは、有効な働きをすることができないものです。

 しかしここで注意を要するのは、我々クリスチャンはこのような自制を積むことによって「救われる」のではないということです。「救い」はあくまでも神の働きによるのであり、信仰によって得られるものです。

 この節制は「がんばらなくては」というものではなく、心に住まわれる聖霊の働きによって自然と促されるものなのです。また、この聖霊の促しを受けたときは、心柔らかくしてその促しに応じ、自制を働かせる柔軟さを持つことが一番大切なことになるのです。このような姿勢を欠く場合、最悪は「失格者」になってしまうことがあるのだと、パウロは警鐘を鳴らしているのです。


D ゴールを持つ

 競技を行うものは誰もそのゴールという存在を意識するものです。マラソン競技でいかに速く42.195kmを走り終えたと言っても、ゴールと全然違うところに向かって走っていったのでは、誰もそのものを勝利者と認めてくれないのです。

 キリストにある伝道の働きも、このようにゴールがあるのです。それはキリストが我々の心に形作られ、その品性が我々にも宿って、キリストに似たものとされていくことなのです。

 これにより、柔和・愛・平和・自制などの「御霊の実」というものが身に付いていくことになります。このゴールをしっかり見据えて、主イエスに祈りつつ日々歩み、幾人かの人でも救いに導くことが期待されているのです。


結論

 これらのことはパウロが伝道者の心得として書いたものですが、これは何も伝道者に限ったことではありません。信徒の立場に置いても重要なことです。

 24節を見ますと「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」と書かれているとおり、彼はこれをコリント教会員にも向けて書いているからです。そして、これはコリント教会員だけでなく、現在の我々にも向けられたことばなのです。

恵みから落ちない為にはどうするかを実際的に考えますと、

1.恵みの中にあることを日々自覚してそれを告白すること。

2.恵みに留まるための法則を覚えて実行しよう。

3.罪に陥らぬよう恵みを真剣に求めよう。

4.自分は大丈夫と高ぶらないこと。パウロでさえも「自分が失格者とならないよう

に」切に祈った。

 これまでにこのレースに加わってすでに走っている方は引き続きゴールを目指して走り、まだ救いを得ることなくこのレースの外にいる方には、是非この素晴らしい競技会に参加していただきたいと思っています。


Editied and written by K. Ohta on 990411, modified on 990413