礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年4月18日

第1コリント書連講(22)

『試練とともに脱出の道を』

竿代 照夫 牧師

コリント人への手紙 第1 10章1節-13節

中心聖句

13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます。

(13節)

アウトライン:

・私たちは、過去の生活に死に、神とともに新しく生まれ代わることを許され、霊的に養われている。

・にもかかわらず、さまざまな誘惑などによって、その恵みから逸脱する危険があり、それらに十分気をつけなければならない。

・そして、さまざまな試練には、神様は脱出の道を備えていて下さり、私たちが試練の中にあって神に信頼するとき、あらためて、神の私たちへの愛、信頼、摂理を新たにするものである。

教訓:試練と脱出の道


導入

 今回は、第1コリントの10章、格別に13節に焦点を置きますが、13節だけに絞らないようにしたいと思います。

 といいますのは、10章13節は大変有名な言葉であり、多くの方の愛唱句であり、また励ましとなっている言葉ですが、文脈からはずれて取っている方が多いのかな、と危惧されますので、1節から丁寧にお話をしたいと思います。

 まず、13節を読みましょう。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます。(13節)

 先週は、福音を伝える自分が失格者とならないようにという警戒で終りました。

 9章27節にありますが、

 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べつたえておきながら、自分自身が失格者にならないようなことのないためです。

 パウロは、ここでクリスチャンの節制の必要、そして節制の恵みが十分でないときには、私たちが失われる者となる危険性もあると、自戒をこめて言っています。

 10章では「失格者となる可能性」という思想が引き継がれ、それに対する警戒とそれに打ち勝つ保証が述べられています。

 ある神学のグループの人々は「人は救われたならば、滅びることはない。」と主張し。この考え方を「永久保全」(eternal security) といいます。これを示唆するような聖句が無い訳ではありません(例えばヨハネ6:39)。

 しかし聖書全体を公平に見ると、この考え方は明らかに行き過ぎであります。救いの事実は確かであっても、クリスチャンに逸脱の危険性はなくなりません。パウロが

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

12節)と警戒されております。


 では、きょうの箇所を3つに区切りたいと思います。

 まず、1−4節が「恵みを確認しよう」、5-12節までが「逸脱する危険を覚えよう」、そして13節が「神の励ましを頂こう」ということです。

 つまり、恵み危険励ましと分けることが出来ます。


A.クリスチャンの頂いた恵みを確認しよう(1-4節)

 どんなに大きな恵みをいただいているかを、旧約聖書の出エジプト記のできごとから解きおこしております。

 1節から4節まで読みましょう。

 「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました(1節)。

そしてみな、雲と海とで、モーセのバプテスマを受け(2節)、

みな同じ御霊の食べ物を食べ(3節)、

みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストです(4節)。

 エジプトで奴隷状態であったイスラエルの人々はみな出てきて、彼等は、雲の柱にあって、昼は陰となり、夜は、火の柱をもって導いたという神の偉大な導き、そして、その紅海を渡るときにバプテスマを受けたといっているのであります。

 どのようなバプテスマかといいますと、「雲と海とで」と書いてありますが、海がいわば切り立っていたわけです。映画の「十戒」のように、海が切り立っていたので、水しぶきがあったと思います。雲が低くたれると、霧のような状態になります。

 ですから、彼らがそこの地の下を通るときに水しぶきがかかって、対岸に着いたときには皆がびっしょりになった状態を、パウロは「バプテスマをうけたようなものだ」と形容しているわけです。つまり、水に浸されて、過去のエジプトでの奴隷の生活に終止符を打ったことになり、これを契機としてユダヤの民は奇蹟をもたらした(実際は神ご自身がなされたのですが)器モーセを指導者と仰ぐようになりました。

 パウロはこれを「バプテスマの絵である」と述べております。バプテスマの意味は、「過去の生活に死に、神とともに新しい命に移り変わる」ということであります。(元々、バプティゾーとは浸すと言う意味ですが、やむを得ない場合は滴礼で水を注いだりしますが、出来れば全浸礼が望ましいです。ちなみに、バプテスト教会は、全浸礼「でなければならない」と主張いたします。私たちも、全浸礼が望ましいという立場であります。)

 そして、バプテスマを受けた後、「同じ御霊の食べ物(マナ)を食べ、同じ御霊の飲み物(岩からわき出た水)を飲んだ」、つまり、パウロは新約のクリスチャン経験を絵で描いているわけであります。

 エジプトの生活を送っていた者、罪を犯す者は罪の奴隷であります。奴隷というのは、自分の意志でなくて、なにかをさせられるものです。悪いことは悪いことだからやめよう、そう思いながらやめることが出来ないというのを、イエス様は「罪の奴隷」である、と仰いました。そこから、イエス・キリストの血潮によって贖いだされ、バプテスマを受け、過去の生活にさよならをし、新しい生活に入り、イエス・キリストに属する者となり、毎日聖書のみことばによって養われ、御霊によって導かれていくというクリスチャン経験を物語っております。

 もしこの経験や転機がないとしますと、何年教会に来ていても、クリスチャンとは言いません。どうか、私たちは主が私たちに与えて下さった恵を確認させていただきたいものです。


B.逸脱する危険を覚えよう 

5節の「にもかかわらず」という言葉の意味は重いものです。「そんなに豊かな、超自然的な恵を頂いているにもかかわらず」という残念さがこの言葉に篭められています。

 出エジプトを果たしたイスラエル人の成人は全部で200万人ですが、40年間の荒野の放浪の中で、全部死に絶えてしまいました。残ったのは、ヨシュアとカレブだけでした、これは、厳粛な私たちに対する警戒であります。パウロはここで5つの理由を述べております。

 1)まず、貪りです(6節)。5節、6節を読みます。

にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 彼等は、いろんなことを思い出して、エジプト時代の食物を貪りました。エジプト時
代の苦しかったことは全部忘れ、良かったことだけ思い出しました。神がどんなに悲しんだことでしょう。(民数記11:34)。

 2)つぎに偶像崇拝です。

あなたがたは、彼らに中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には。「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。

 これは、モーセが十戒を頂いているときに、イスラエル人は金の子牛を作ってそれを「主と」見立てて拝んだのです。多分このとき、強いアルコールをのんだり、ふしだらな遊戯をしたのでしょう。つまり、偶像崇拝と姦淫がつながっております。

 3)つぎに、姦淫です。

また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。」(8節)

 これはカナンに近づいたとき、バラムが画策をしてモアブの娘達を送り込み、イスラエルの人たちと姦淫がなされた結果、2万4千人が死んだ事を言った記事です(民数記25:1ー9)。

 4)4番目は主に対する試みです。

 「私たちは、さらに、彼らの中にある人たちが主を試みたのにならって主を試みることのないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。」(10節)

 イスラエル人が朝から晩までマナばかりであると、つぶやき、主を試みたのです。これは13節の「試み」と同じ意味で、神がそれだけ私たちを忍耐をもって私たちを扱われるか、という限度を試みるとの意味でここでは使われています。神がどの程度まで許すかを試すとは何と大胆な、傲慢不敵な態度でありましょうか。

 5)つぶやき(10節)。

 この場合には、モーセに逆らって地中に飲み込まれたコラの子についてつぶやいたイスラエル人が1万5千人も滅ぼされました。この40年の荒野の生活をひとことでいえば、「つぶやきの連続」でありました。どんなにを与えられても、その中に”あら”を探して、めぐみを感謝しないで「つぶやく」、これは、人間の性格を本当に如実に表している言葉ではないかと思います。


 総じてパウロは、これらの物語は昔話ではなく、私達への教訓のために記されている、と主張しております(11節)。

 特に上の5つが選ばれたのは、コリント教会で似たような問題が起きていたからです。彼等は道徳的には多くの問題を持ちながら、「信仰の故に」という口実で大丈夫を装っていました。

 従って、過去どんなに恵を経験を得手、救いのめぐみに預かり、きよめのめぐみに預かっていたとしても、それはこれからも私達を絶対に天国に導く保証とはなりません。

 世にある限りは、罪に対する誘惑に陥る可能性はなくならないですから、パウロはここで、「立っていると思っている人々は、倒れないように気を付けなさい」とコリントの教会の人たちに警戒するように行っています。

 自分は預言をしている、いろいろな奉仕をしている、大丈夫という人が一番危ない、とくに、道徳的な罪を意識しながら、姦淫や互いの争いや競争心などがあり、誘惑の中にさらされながら生活をしています。

 それらにたいして、パウロは警戒するように書いています。ですから、13節にある「試練」という言葉の本当の意味がおわかりになっていただけると思います。

 13節は、多くのクリスチャンに愛唱句として親しまれています。ただ、前後関係と切り離して、「どんな逆境の中でも主は助けて下さる。」という自分への励ましとしてだけ捉えている人が多いのです。こういう取り方は悪いことではありませんが、文脈からですと、ここでの「試練」とは道徳的な試みであることがおわかり頂けると思います。

 ここで使われている言葉は「試す」という意味のギリシャ語「ペイラゾー」から来た言葉であり、私たちのの実質を試す、という意味で、私達の言葉では、「テスト」が一番近いニュアンスの言葉であります。(英語の翻訳ではここを”TRIAL”でなく、”temptation"と訳しております)

 また、この試練という思想は、9節の神を試みてはならない、という思想を継いでいます。私達が神を試みてはならないが、神は私達を試みなさることがあります。それには意味があり、目的があり、終りがあります。


C.神の励ましを頂こう

テストの出所と目的

テストの出所と目的はどこにあるのでしょうか?それは主のみ許しから来ます。

神は私達をテストに合わせる」という表現が、テストにおける神の主体性を物語っています。

 主は積極的にアブラハムを「試して」、主ご自身を本当に愛しているなら、そして、イサクをとおして子孫が繁栄することを本当に信じているなら、その愛するイサクを捧げなさいと命じられ、アブラハムはそのとおりにしようとしたとき、神ご自身が「待った」をかけられて、テストに合格したのであります。

 また、もうひとつは、積極的ではないですが、神のみ許しのもとにテストされた場合です。

 ヨブの場合がそうです。神がサタンに、「何をしてもいいが、限度がある。彼の命に手をつけてはいけない」と命じました。その結果、ヨブの財産は全部失われました。そして、体も徹底的に打たれました。

 しかし、ヨブは「主与え、主とりたもう。主の名前はほむべきかな」と主をほめたたえ、テストに合格しました。いきなり100点を取ったわけではありませんが、その過程は、ヨブ記42章に書かれていますが、神の摂理に従うことは譲らなかったのです。

 神ご自身は、環境的に私たちの信仰をためすことはあり得ます。

 勿論神は直接に人を罪へ誘惑はいたしません(ヤコブ1:13)。その目的は、「私達の益のため、私達をご自分の清さにあずからせようとして」(ヘ ブル人への手紙12章10節)与えられるのです。

 さらにヤコブ人への手紙1:2ー3を読んで見ますと、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」と書かれております。

 神のご性質に与るもの試練を通してでなければ作られない私たちの品性というものがあります。これは、品性であり、忍耐であり、清さであります。このような結果が、テストを経た者には約束されているのです。

テストの限界

 ヨブの場合のように 神は我々をテストされますが、そこには限界があることをこの13節は示しています。

 1)内容における限界

 たとえて言えば、数学のテストで英語の問題が出ることはないようなものです。パウロは、私達が受けるテストは、人間として当り前の内容のテストであると書いています。

 1-12節までで、テストに失 敗した人の例が記されていますが、みながそれは問題が難しかったからではなく、彼等が不信仰だったからであります。信仰を貫いたヨシュアもカレブも、アブラハムもヨブも合格しました。

 2)程度における限界

 主は私達の力を知っていて、その限度を計って、テストを与えあるいはお許しなさいます。小学校の算数のテストで、もし代数や幾何の問題は出てきたなら、それはおかしいことであります。

 主は(恵によって)私たちたちの力量をご存知で、その力量に応じたテストを与えて下さいます

 ある方は、あまりにも厳しいと、戦いと悲しみと苦しみの中において「これはもうだめだ、これ以上は耐えられない」という気持ちになっている方がいらっしゃらないでしょうか。私たちは、しばしば、人生の中でこういった経験をするものです。宣教師の生活でも、このような経験を何度も致しました。

 しかし、そういったときでも、わたしたちは摂理と、神が私たち一人一人を慮って下さる善意とを信じ続けるというのは、どんなにすばらしいことでしょうか。

 神は、私たちが耐えられないような問題、課題を与えなさらないお方だということです。逆にいいますと、戦いの中を通ってらっしゃる方にはそのまま受け取れない答えであるかもしれませんが、私たちがどうしてこんなに大きな戦いと試練をどうして通るんだろうかと質問をするまえに「あなたは私をご存知です。私を信頼して下さって感謝します。私の力をこんなに大きなものとあなたは認めていて下さって感謝します」ということができないでしょうか。

 これは、挑戦です。簡単にいえることではありませんけれども、このように、物の見方を変えるときに、主に対する愛と信頼を新しくすることであります。

3)長さにおける限界

 テストはいつまでも続くものではありません。入学試験や卒業試験は長く続いても1時間でしょう。

 私の場合は、神学校で3時間の試験を受けたことがあります。そのときは、簡にして要を得る答えを書いたのですが、そのとき教授が私の所に来まして、”Write!Much!”と励ましました。確かに周りでは一生懸命に答案を書き上げる様子が感じ取れました。私もそこから頑張っていっぱい書き直したものでした。

 試練とは神がある目的を果たしなさったなら、それで終わりであり、それが最後の所になるのです。

試練とともに脱出の道も備えていて下さいます」とありますが、出口をちゃんと備えていて下さるのです。それは、試練の中にあって、「あ、そうだ」と思いついて設けなさるのではなく、「試練とともに」と書いてあるように、試練を与えなさるはじめの時から、このテスト(試練)の終わりを計画して試練を与えて下さるお方であります。


まとめ

 現在、出口のない試練を経験されている方がいらっしゃらないでしょうか。

 主は「試練とともに」もう脱出の道を備えていて下さる方です。

 脱出の道は私たちが、神の全能と愛と善意と私たち一人一人に対する摂理を信じ切るときに、見えてくる物であります。

 私たちは、このテストに合格する者となりたいものであります。それは、罪に導こうとする誘惑であるかもしれません。不信仰に導こうとするさまざまな人生の出来事であるかもしれません。そのまっただ中にあって、アブラハムのように、ヨブのように、通過させていただきたいと思います。

 ヨブの終わりには、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人 、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と、ヤコブ1:12に記されています。

 このような命の冠を受ける者とさせていただきましょう。


Editied and written by Kenji Ohtsuka on 990422