礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年4月25日

『食卓の下の小犬でも』

井川 正一郎 牧師

マルコの福音書7章24〜30節

中心聖句

28しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

29そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

(28-29節)

アウトライン:

ツロ地方にて、1人の女の人が、娘の悪霊を追い出してもらうよう、主イエスに願ったが、拒絶された。それでも彼女は「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」とイエスに食い下がった。

するとイエスは「そうまで言うのですか。」と彼女の願いと聞き入れた。

この女の人が何故そうまで言えたのか、その信仰の特徴を学び、私たちもそのような信仰を持つ秘訣を探る。

教訓:「食卓の下の小犬でも」という信仰の姿勢に学ぶ


導入

 今日のメッセージの中心は、28と29節の「食卓の下の小犬でも」と、それに対する「そうまで言うのですか。」であります。併行記事としてマタイの福音書15章28節があります。そこには「小犬でも主人の食卓から」のことばと、それに対する「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いのとおりになるように。」とあります。

 信仰がりっぱと言われると、何か自分の信仰と比較するとあまりにもお粗末で、ただりっぱな信仰があるそうな、という他人事(不可能事)になりそうですが、マルコの福音書のように「そうまで言うのですか。」というおことばに触れると、何か自分にも出来そうな、何とかなりそうな予感、希望の光が少し見えたかな、という印象をあたえられます。

 今日は、このおことばを中心とするメッセージです。物語は読んでお分かりのとおりです。主イエス様がめずらしく突き放しておられます。もちろん意地悪でそうしているのではなく、しばしば、その人の信仰を試すために、また信仰を更に引き上げるためにそうされることがあるのです。

 この女の人は、それにめげずに「食卓の下の小犬でも」と食い下がったのです。そして主は「そうまで言うのですか」と答えられたのです。この主のことばのニュアンスは、普通の人はそこまでは言わないが、よく口にしたという肯定的・積極的ニュアンスです。言い換えれば、よくぞ言った、よくそこまで言ったという肯定的・積極的意味合いのものでした。

 今日の短いひととき、このツロ・フェニキア生まれの女の人が何故「そうまで」言えたのか、そのように言えた彼女の信仰がどのようなものであったか、その信仰の特徴を4つの点から学びたいと願っております。


このツロ・フェニキア生まれの女の人の信仰の特徴(1)

 特徴の第1は、徹底した謙遜な信仰でした。「私は食卓の下の小犬」と言った表現には、徹底した謙遜さが表されています。食卓の下の小犬でさえ、子どもたちのパンくずを食します、私もそのような者にすぎません、でも頂戴出来ますね、イエス様。自分がいかなる者であるかを真にわきまえている女の人です。

 皆さん、キリストの御業は、食卓の下から始まるものなのです。以前、ヨシャパテの記事の中で、水がなくなった時、「この谷には水があふれる」との恵みに満ちた神様の御業は、谷底から始まったことを学びました。今日のメッセージもその路線上にあるのです。徹底した悔改め、徹底した砕けたたましい、徹底した謙遜から、主の御業は始まるのです。ツロ・フェニキアでの主の御業も、そこから始まったのです。


信仰の特徴(2)

 第2の特徴は、解決はイエス様以外にはないとの、主に対する徹底した信頼を持った信仰であったということです。自分が小犬だからこそ、主人に対して依り掛かることが出来るのです。

 この女の人にとっては、イエス様だけが自分の切実な問題を解決して下さる唯一のお方であり、また、このお方ならば、必ず問題を解決して下さるとの絶対的信頼、信仰を持っていたのです。

 一方、主人の方も、小犬が可愛いので、その願いであればかなえてあげようとするのです。必死のお願い、どうしてもかなえて頂きたいとの心を持ったお祈りに対して、主人は、切なる願いを聞かずにはおられなくなるのです。実は、聞き届けられる祈りのカギがここに潜んでいるのです。

 皆さん、基本的なことを確認しますが、そもそも信仰とはイエス・キリストに目をつけることです。ほんとうの信仰とは、一般論として神様の存在を信じることではなくて、イエス様が、私の罪の解決のため、身代わりとして十字架に架って死んで下さったこと、そして復活されたこと、すなわち、私の真の救い主であることを信じることなのです。


信仰の特徴(3)

 第3に、この女の人の特徴は、主の恵みの豊かさに対する信仰を持っていた、ということです。言い換えると、おこぼれでも十分に問題の解決をあたえてくれるとうなずく信仰であったということです。

 イエス様のおこぼれは、単におこぼれではなく、そのおこぼれだけでも十分に自分のかかえている問題に解決を与えてくれると信じていました。確信していました。だから、そうまで言えたのです。

 皆さん、主の供給は無尽蔵で、今も例外なく、私たちに注がれているのです。主の恵みから漏れるものは一人もいないのです。解決されない課題もありません。もちろん、解決されない課題がないとの意味は、全部目の前にある問題課題がすっきりと解決してしまう、との意味ではありません。このことは、あとで述べたいと思いますが、要は、第3の特徴として「食卓の下の小犬でも」と「そうまで言えた」のは、それは実はおこぼれでもなく、一部分でもなく、キリスト全体のものであるからとの、主の恵みの豊かさに対する確信・信仰を持っていたからなのです。


信仰の特徴(4)

 第4の特徴は、この女の人が自分の生命をかけた信仰、生命を投げ出した信仰を持っていた、ということです。

 彼女は娘のために生命を投げ出したといってよいのです。旧約時代においては、出エジプト記33章20節「あなたは、わたしの顔を見ることはできない。人はわたしの顔を見て、なお生きていることはできないからである。」にありますように、神の御前に出るにはそれなりの覚悟が必要であり、神御自身を見てしまうとすれば、死を意味していたのです。

 さきほど3つ目の特徴のところで、主の恵みは、問題を解決するには十分間に合うものであるけれども、ただちに全部目の前にある問題が解決してしまうとの意味ではないと付け加えました。解決に長く時間がかかるかも知れません。また、こちらの願った通りの答えではなく、別の形の答えが来るかも知れません。要は、神様にみな、任せきることが出来るか否か、それが問われているのです。それが出来ないと「思い煩い」になり、それは「罪」につながります。


まとめ(今週の生活への具体的適用)

 今日、私たち1人ひとりに語って下さいます。自分の生命を投げ出す信仰を持つことが可能であると。そして可能となる秘訣があるのです。3つ述べたいと思います。そして、これが、今週1週間の1日1日の生活への具体的適用となるのです。

 1)小犬にすぎないとの心を持つ

 私にはどうしようもない。だからこそ、頼るお方は、神様しかいない。小犬にすぎない私ということです。

 2)小犬でいられるとの心を持つ

 小犬は主人にすべてを任せることが出来ます。任せて大丈夫と確信しています。そのような小犬の幸いを覚えたいということです。

 3)小犬であり続けるとの心を持つ

 皆さん、食卓の下って、暖かいですよね。「小犬」は暖かい家の中に居るのです。「野良犬」のように家の外ではないのです。小犬であり続けることで、おこぼれをずっと頂くことが出来るのです。

 神様の恵みにずっとあずかることが出来るのです。イエス様が守り続けて下さるのです。「食卓の小犬」でさえも。これが今日の神様からのメッセージです。ご一緒に、お祈りしましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 990425