礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年5月2日

第1コリント書連講(23)

目に見えない『偶像』

竿代 照夫 牧師

第1コリント書10章14〜33節

中心聖句

14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

(14節)

アウトライン:

偶像礼拝とは神でないものを神と崇めることである。

パウロが伝道していたギリシャのコリントは、この偶像礼拝が盛んに行われていたところであり、その中で信仰を保つためには、注意しながら偶像礼拝を避ける必要があった。

日本においてもコリントと同様な「偶像崇拝」がある。それは「日本教」ともいうべきもので、他者を見ながらそれに合わせていくという特異な崇拝行為である。

我々はこのような中で、実の神にのみ心を向け、私にとって一番大切なのはあなたですと、確認し、主に告白しようではないか。

教訓:偶像崇拝をさける


導入

 前回は、どんなに素晴しい救いの経験をした者でも、イスラエルの民が不信仰の故に滅びたように、滅びる危険があることを警戒として学びました(特に12節)。さらに、神は誘惑の只中にあって私達を助けて下さる約束で励まされた事についても学びました(13節)。今週はそれに続く冒頭の箇所を中心に、お話しいたしたいと思います。

 先週はミャンマー(旧ビルマ)の町々(ヤンゴンマンダレー(曼陀羅が語源)など)を巡って参りましたが、そこでは多くの寺院やお坊さんを見ることができました。このような風土の中、私は冒頭のことばについて何度となく考えさせられました。

 14節では「ですから」ということばで始まっています。この「ですから」とは、前の思想が続いていることを意味しており、「そんな危険があるのですから」という意味と「神の保証があるのですから」の両方の意味が含まれております。

 パウロがここでことさらに偶像を取り上げたのは、コリントのクリスチャンにとって偶像問題が大きな問題であったからですが、今日はこのことについて、1)偶像崇拝とは何か?2)コリントの偶像崇拝の背景3)日本における偶像崇拝の3つの観点からお話ししたいと思います。


1)偶像崇拝とは何か?

 「偶像礼拝」とは、神ならざるものを神として崇めることです。

 「偶像」とは、元々は刻んだものという意味で、そこから刻まれたものとして神々を指すようになりました。つまり、造り主としての神ではなく、造られた神々なのです。

 世の中に数多くの宗教というものが存在し、世界的に見ると「無宗教」と言う人間は極めて少ないのが現実です。これは、人間が元来神を求める存在であることを端的に示しているのではないでしょうか。本来は真の神を礼拝するべきなのですが、創造主のイメージが薄くなってしまっているために、多くの刻んだもの、神でないものを神とする宗教が生まれたのです。

 多くの偶像崇拝の宗教指導者は「我々はこの物体を神としてはいない、ただ神の存在の象徴とするのだ」と語ります。しかし、真の神はいかなる像によっても表わし切れないほど尊く、偉大であり、栄えに満ちて居られるのです。そのようなお方を人間の小さな頭で作り出した像に描くことは、神に対する大きな冒涜になります。

 偶像崇拝の根本原因は、人間の堕落です。そのことについて記している、ローマ書1章はコリントの状況を頭に描いて書かれたと言われています。

19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

 この部分からわかることは、コリント人たちがある程度創造の神を知りながら、それを求めようとはせずに、自分たちで勝手に神をこしらえてそれを拝んだということです。これは端的に言いますと、神のすり替えを行ったということになりましょう。

 これはコリントの人に限らず、人間すべてに言えることであり、元々人間が神を求める存在であるのに、そのイメージが人間の堕落によって薄まってしまい、本物の神の代わりに自分勝手に神をつくって、それを信じるという行為をしてしまうものなのです。

 このようなことを強調いたしますと、とかく他の宗教の信者を何か低くみたりする人が出て参りますが、それは良くないことです。他の宗教の信者さんたちは、単に本物の創造主のイメージが薄れているために、知り得る似たものを信じているに過ぎないと考えるべきでしょう。

 それよりも注意すべき事は、人間がこのように偶像崇拝に傾いてしまう背後に、悪魔(サタン)の存在があるということなのです。

「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(第2コリント4:4)


2)コリント人クリスチャンにとっての偶像問題

 偶像礼拝はコリントの町では市民の心を支配し、クリスチャンにまで大きな影響を与えていました。その中心はアフロデト(ギリシャ神話のヴィーナスと同じで、愛と美の神。アフロデト的とは性の喜びを指す)の神殿であり、彼等の生活のあらゆる節目でその礼拝が行われていました。この神殿の周りには何千人もの神殿娼婦がいて、宗教活動と性的な快楽を追い求めることが強く結びついていたようです。

 また、神殿に行かずとも、家庭の中で、宗教行事が行われていました。また、かつての礼拝でも取り上げましたとおり、その礼拝に捧げられた肉が市場に出回り、どれがそのような礼拝で用いられた肉かを区別する事はできませんでした。特に慶弔行事などで、付きあい上、偶像礼拝ににかかわらねばならないケースが多く、それにどう対処すべきかが問題でした。

 更にローマの国家宗教(皇帝礼拝)の行事もしばしば行われていました。それらは国家の名をもって行われ、市民であるものは参加を強制されていました。第二次世界大戦中の日本にも似た状況がありましたが、じつは現在でも同じようなことは私達の周りに目に見えない形で進行しているのではないでしょうか(後述)。

 14節のパウロの勧告は、このような状況に置いてクリスチャンとして偶像問題についてどのように対処すべきか、つまり(クリスチャンであることを否定して偶像に戻る事をパウロが懸念しているのではなく)そのような偶像崇拝が日常化している状況下で、クリスチャンでありながら偶像礼拝に関わってしまう危険性について述べているのです。

 引き続く16-17節でパウロは、なぜ偶像崇拝がいけないのかと言うことを、聖餐式を用いてコリント教会員たちに説明しております。

 パウロはまず、聖餐式はその儀式を行うことで、信徒が主イエスと一体となるという意義(15、16節)を持っていることをまず強調しています。また、杯とパンを受けることは、キリストの血と体に与ると共に、一つのパンから食べるクリスチャンが互いに一体となるということも意味しています。このことの雛形は旧約聖書に見いだすことができ、祭司が祭壇で生贄を捧げ、その下げ渡しを信徒が食することで、祭壇での礼拝行為と自分との一体化をはかると言うことが行われていました。

 パウロは、その様な神・聖徒と一体感を持った人間が、偶像と一体となるような宗教儀式に加わることはとんでもないことだ、と言おうとしているのです。なぜならば、偶像礼拝に形だけでも荷担するということは、悪霊と交わる結果となるからです。

 パウロは8章では、偶像とは何でもない、虚しいものだと強調し(4-6節)10章でもそれを繰り返しています(19節)。しかしその一方で、偶像礼拝を操作することによって味方を作ろうとしている悪霊(20節)は確かに存在し、偶像礼拝の背後にいるのです。だからこそ、結果として、偶像礼拝はサタンにつながる道となるのです。

 21節では、宗教的な飲み食いを通して、聖餐式ではキリストに繋がり、偶像礼拝ではサタンに繋がると、パウロは言っています。

 神の私たちへの愛は大変強いので、私たちを独占しようとするほどであります。したがって、このようなふたまた行為は、神の妬みを引き起こすことになります(22節)。主の妬みを受けても平気で居られるくらい私達は強いのでしょうか?そうではない、とパウロは警告しているのです。


3) 日本での偶像問題

 21世紀に向かう日本では、この問題は大きなものではないように見えます。しかし、祖先崇拝に現われる「日本教」は、目に見えない形で福音の大きな妨げとなっているのです。この「日本教」の実質は、仏教でもなければ神道でもない、日本を取り巻く雰囲気とも言うべき不思議な存在であります。

 日本教の内容を良くあらわすことばに「お上」とか「上さん」という言い方があります。これは実は「神」と「上」がオーバーラップしていることばとして捉えられるのです。この「」には例えば、政府・先祖・長老・地位の高い人々・偉人・大木・山岳・奥さん・ご主人などが含まれます。日本ではこういうもの凡てがある意味信仰の対象になっているのです。すなわち、自分より上の存在を皆でいっしょになって崇め、その心証を共有して同一の行動パターンをとるのです。

 日本教の問題点は、神ならざるものを神として崇める事に加え、それに異を唱えるものを排除しがちである点です。この特質によって、多くの日本人は周りの目を絶えず気にしており、周囲の雰囲気と同化し、異質の存在にならないように心がけることになるのです。もし、万一その同化状態から逸脱すれば、たちまち有形無形の圧力がその個人に向けられ、それでも同化しない者は爪弾きにされるか、村八分ということになるのです。このような状況はある意味では、コリント教会が置かれていた状況よりも複雑で、困難な状況であるとも考えられます。

 現実にクリスチャンになってみると、結婚や家の葬式をどうすべきか、墓参りや法事の対処、お祭りへ参加するか、会社・学校・スポーツグループによる集団の神社参拝、会社等での地鎮祭など実に多くの実際的課題が出て参ります。

 これらを強いてくる人たちは「これは宗教ではなく、日本の伝統なんだ。形だけ加わっても問題はなかろう。」と言ってきますが、彼らが意識するしないに関わらず、まさに「形式的に参加すること」が「日本教」にとって(特に画一性と統一性を基本理念とする日本教では)意味があるのです。こういう「日本教」の実体を外側から見ることができる本当の信仰を持っている人間には、その押しつけは実にいやな精神的圧力なのですが、残念なことに彼らにはそのような心情を知るすべすらもないのです。

 目に見える形での偶像礼拝からの離別。これは日本人にとっては一番難しいテーマでありましょう。こういう局面で、知恵と忍耐と配慮の必要は認めます。それなしに無思慮に偶像よばわりをしてノンクリスチャンの神経を逆なですることは決して賢いやり方ではありません。時期、方法、態度はやはり考えて選んでいかなければならないのです。

 しかし一番大事なことは、対応が妥協的であってはならない、ということです。クリスチャンとしてこの面で戦うことをしなければ、日本の教会は決して強くならないし、日本が救われる日も来ないでしょう。日本の政治や社会を支配している神ならざる神々に、はっきりノーと言えるクリスチャンとなろうではありませんか。


結論

1.目に見える形での偶像礼拝との決別は困難は伴うが、対応法としてはまだ分かりやすいものになります。

2.しかし、もっと難しいのは、目に見えない形での偶像を捨て去ることです。

 この目に見えない偶像崇拝とは何でしょうか?それは心の中で、神よりも大切に思っているもの、神よりも信頼しているもの、神よりも愛しているものがあるとき、それらが偶像になっているのです。

 この偶像は、ある人には、お金であり、子供であり、名誉であり、地位であり、友達であり、恋人であり、配偶者であり、趣味であり、スポーツであるかもしれません。それら自体が悪いのではないのですが、神よりも大切な座を占めてはいけないということはしっかりと確認しておきましょう。

 今日の礼拝を閉じる前に、私にとって一番大切なのはあなたですと、確認し、主に告白しようではありませんか。お祈りいたしましょう。


Editied and written by K. Ohta on 990504