礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年5月16日

わたしの霊をすべての人に

竿代 照夫 牧師

ヨエル書2章12〜32節

中心聖句

28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

(28節)

アウトライン:

ペンテコステは、旧約聖書の時代から約束されていた事柄である。しかし、聖霊がフルに働いていたのではなく、限定的であった。

ヨエルの時代には、大きな飢饉があり、国民の悔い改めが必要であった。環境破壊、民族対立の激化する現代でも、悔い改めが必要である。

聖霊は、性別・人生経験・信仰歴とは関係なく主を呼び求める人すべてに、徹底的に、注がれる。しかし、それまでには、イエス・キリストが十字架にかけられ、復活し、昇天されてるのを待たなければならなかった。

そして、真実な悔い改めが必要である。これなくしては前へ進むことは出来ない。個人だけでなく、教会、そして民族でも同じである。

教訓:聖霊を受ける


導入

次聖日のペンテコステですが、ギリシャ語で「第五旬」という意味です。

過ぎ越しの祭り-イースターから数えて50日目、クリスチャンに聖霊が注がれて教会が誕生した記念するべき日です。

ペンテコステはある日突然起きた出来事ではなく、旧約聖書のはじめから約束され、期待されていた出来事です。

私たちは、「父、御子、御霊」と賛美していますが3つの神様を礼拝しているのではありません。一人のかたですけれども、3つの人格をもちたもうお方

-父なる神、子なる神、聖霊なる神-、

そしてその聖霊なる神が”フル”に働きをはじめなさったのが、ペンテコステであります。

旧約聖書では、創世記1章2節に記されています。ご一緒に読みましょう。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

また、2章7節にも記されています。

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

いのちの息-ヘブル語では、息と霊と言う言葉は一緒です。

以来、聖霊は、一人一人のうちに働いておられますけれども、”フル”な形ではなく、条件が整うまでは限定的であったと伺われます。

それは、選ばれた人-たとえば、サウルが、王様として選ばれたときに主の霊が激しく下り、王様の職務を行うために力が与えられたことや、その後、ダビデに主の霊が下った、それから、ベルツアエルが、幕屋を作るときに主の霊が注がれて大きな働きをされた、というように、特定の人に特別な職務を執行するときにいます。

それから、残念ながら、道徳性にまでには及んでいなかったのであります。サムソンがその例です。神の霊がそそがれ、糸を引き裂くかのように縄をほどいたりしました。あるいは、大きな門を一人で担ぎ上げるような働きをしました。しかし、ふしだらな、女性に弱いというか、今でいいますなら”不適切な”関係をしていました。ですから、旧約聖書で預言されていることは、御霊がすべての人に深くおよんでいくものだ、ということです。エゼキエル、エレミヤが具体的な例です。

霊が注がれ、神の霊はあなた方をきよいものとしてくださる、そして神の掟を自発的に行うように変えて下さるという約束です。ヨエルは、その一環であります。


では、実際に、ヨエルはどのような人物で、28−29世卯がどのような文脈で書かれていたか、をみてみましょう。

ヨエルの人と時代は明らかではありません。僅かに1章1節に「ペトエルの子ヨエルにあった書のことば。」と書いてありますように、お父さんの名前が書かれているだけで、他の預言者には、いつ頃の王様のときとか、どこそこで生まれたとか記されておりますが、彼についてはこのことしか書かれておりません。しかし、内容的に、預言書の配列からみて、BC830年頃のヨアシの時代ではなかっただろうかと考えております。

ヨエルの時代に何が起きたかというと、大きなイナゴの被害が起きました。

日本ではあまり見聞きしませんが、中東・アフリカではしばしばそうした昆虫が大発生し被害を被るということがございます。私も小さな規模ですが、見たことがあります。あるいは至るところで蝶だらけになったことがりあり、「大陸ってすごいなあ」と思ったことがあります。

イナゴが大発生すると、空が暗くなってしまうほど、そして、あらゆる物を食べ尽くします。緑を食べ尽くし、木の皮を食べ尽くし、着物さえも食い尽くされる被害を被るのですが、ヨエルの時代にそれが起きました。そして、ヨエルは、このイナゴの被害は将来に起こるもっと大きな被害-外敵の攻撃の予兆(しるし)である、とみて取ったのです。

そして、その外敵はアッシリアであろうと思いますが、その大敵であろうと見て取りまして、いまならば、悔い改めをし、心からの神への立ち帰りをするならば、民族を回復してくださり、霊的な回復と物質の回復を-つまりイナゴが食べ尽くしてしまったものを補ってあまりある豊かな収穫を与えて下さる、ということを約束しております。そして、物質的なものだけでなく、御霊がすべての人に注がれる時代がやってくると彼は約束しています。

ヨエルの記事を学びつつ、国民として、世界の中にある市民として、イナゴではありませんけれども、大きな被害、大きな危険にまっしぐらに進んでいるのではないだろうか、地球環境が破壊され、待機が汚染され、温暖化がすすみ、子孫が様々な被害をうけていることなど、環境の面で大きな危機に向かって進んでおります。あるいは、冷戦が終わって、民族間の対立がいよいよ激化している現状に直面しております。

コソボの大きな問題が起きておりますけれども、これは一つの小さな事例に過ぎないのではないだろうか、よりいっそう民族的な、部族的な対立が激化しているのではないでしょうか。

この礼拝にケニアから兄弟がいらしています。ケニアでも部族対立が90年代に非常に激化しましたが、どうしたらこの危機を回避するかというだけでなく、新しい神のみわざを期待しなければならないということを、世界の、そして日本の現状-私たちの社会を見ても、小さな家庭ををみても、深く思うのであります。

ですから、ヨエルの預言は、今に必要な預言であります。

この28,29節に焦点を絞りますが、今日は、「聖霊の注ぎ」ということについてポイントを申し上げていきます。


1)対象

第一に、「その対象」です。28節を読みます。

わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。・・・わたしは、しもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。

言うまでもないと思いますが、霊が「すべての人に」注がれる、そこにヨエルの強調する点があります。「すべての人に」と言ってしまえばひとことで終わってしまうのであります。けれどもそれでは強調が足りませんから、息子にも、娘にも、年寄りにも等々と記しております。

私に弟がおりますが、小学校の時に、動物園に連れて行かれて感想文を書くように言われました。「今日は上野動物園に行って、いろいろな動物を見ました。」という文章で終わりであります(笑)。で彼の文章は間違っていませんで、先生が「短すぎる」と言われたのですが、「いろいろな」の中に全部入っていると抗議したというのです(笑)。

これは余談でしたが、ヨエルは強調点をクリアーにするために、息子、娘、年寄り、若者、しもべ、はしため、と例をあげて強調しております。つまり、誰も漏れることはない、社会層にも、男女の性別にも、人生経験にも、信仰の長さにも関係ないのです。しかも、「しもべにも、はしためにも」とありますが、ここに彼のいわんとしているところがあると思うのです。

旧約聖書で聖霊が注がれた記事を見るときに、特別に選ばれた人-王様、祭司、あるいは神の仕事をする人たち-神が聖霊を注いでその仕事をさせようとしました。けれども、ヨエルはなんと言っているでしょうか。「しもべにも、はしためにも」−私は数に入っていない、役に立たない人間である、社会的にも一番低い人間でもある、そういう人でも全部同じように、というのがここのメッセージであります。

新約聖書において、このことは実現いたしました。ペンテコステにおいて、聖霊が下ったときに、すべての人に聖霊が注がれたと記されています。そして、その恵みは、今でも同じであります。

「私はまだ教会に来たばかりの人間であるから」「私はこういう小さい人間であるから」ということはないのであります。

どんなに小さな、どんなに信仰の若い方であったとしても、どんなに自分は取るに足らない者だと思っている人であったとしても、主は、その方に十分な聖霊を満たす用意があり、恵みを用意していて下さり、否、その恵みを持って欲しいのであります。それが、ヨエルの聖霊の約束の預言であります。


2)その内容

第二番目に考えたいことは、その内容であります。

聖霊の注ぎ、それは文字通り「注ぐ」ことであります。僅かの分量が振りかけられるような祝福ではなく、スコールのように全身が浸るほどの徹底的な満たしであります。

イスラエルは大変な乾燥地であります。1年間の雨量が日本の10分の1以下というような乾燥した場所ですので、雨が豊かに注がれるということは、あこがれであり、喜びであります。

人の事をいうと語弊がありますので自分のことを申し上げますが、小さいときはスコールが大好きでした。男の子の兄弟でしたが、雨が大好きでして、大雨が降ってくるとアダムの格好で家の回りをぐるぐる回っていました。雨の中に全身が浸る、これほど嬉しいことはありません。幼い頃は、このような感情を持っていました。注ぎと言うことは、一滴二滴がすこし感化とか影響とか言うのでなく、浸ってしまうのです。

聖霊が注ぐということはどういうことでしょうか。聖霊は,今でも、生ける三位一体の神様のお一人として、信仰者の中にも、はたまた、未信者の中にも働いておられます。

いろいろな語りかけを通し、導きをとおし、良心の働きをとおし働いておられるのです、けれども、浸す、浸れる、注がれるということは、その聖霊のお働きを私たちが全会で受け入れて、そのお方とともに歩んでいくと言うことであります。

つまり、聖霊というお方は神の御心を示しなさるお方ですが、そのお方の私たちの全部の人格を開いて、「主よ、あなたの御心に従っていきます。あなたの御心を行うことは私の喜びです。感謝です。力です」と全身を開いて導きと語りかけと力を受け入れて、それに従って歩んでいくことでございます。

ですから、この現れとしては、彼らは、預言し、夢を見、幻を見るというような言い方がされていますが、これらのことを通して神の御心を知り、人々にそれを述べ宣えるというよな行動を意味しています

預言は、神の言葉を、神の権威を持って伝えることですが、私たちが御霊に満たされるときに神の御心を知ることが出来ます。

そのことを人々に力を持って証をすることができる、これが神が約束されている聖霊の注ぎであります。これをいま、私たちは、個人としても、教会としても、社会全体としても必要としているのであります。


3)いつ注がれるのだろうか

第三番に考えたいことは、「いつ注がれるのだろうか」と言うことであります。

ヨエルは、「その後、私は」とか「その日」と言っています。使徒の働きでは、ペテロは、2章16節のように引用しています。ニュアンスが少し違います。「終わりの日」-元訳では「末の世に至りて」と書いてありますが、テクニカルタームでは、「(ヨエルが預言した)後の日」「その日」は「主の日」「エホバの日」と呼ばれる終末の日(=)の事であります。

これから起きるであろう先の事柄、格別に、主が顕著に働き出なさる日それは預言者には近未来的であり、キリストの誕生と奉仕に関わるものであり、キリストの再それが歴史的にいつの日かについては、預言者の見ている絵は山々が重なっているように2つ3つの山が一緒になって、間の隔たりが何千年もある場合があります

つまり、ヨエルは、悔い改めるならば、祝福を、私の生きている時代に与えなさるという近未来的なことも指しています。しかし、同時に、主イエス・キリストが来たりたもう、先のことも指しています。そして、主イエス・キリストが再び来たりたもう、そして、世を全部治めて、裁きをなさるという最終的なおわりの事をも意味しています。

ですが、ヨエルにとっては、山がいくつにも重なっているように見えるのです。これが預言的な終末に対する見方であります。

いずれにしましても、この「終わりの日」ということは、イエス・キリストが十字架にかけられ、私たちの罪を贖って下さり、解決して下さり、そしてよみがえって天に昇られた、というあの大きな出来事の後、ということによって具体的の成就しております。


ヨハネの福音書7章38・39節を見てみましょう。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

聖霊なる神は、三位一体の神の一つのご人格であって、創造のときからずっと力強く働いておられますが、”フル”に働き始めるには、イエス・キリストの死・十字架・復活・昇天という準備が必要だったのです。

水にたとえますと、大きなダムが出来たとしますと、ダムを一斉に開きますと洪水を起こしてしまいます。ですから、配管工事を行って、ダムの水門を開くと水が入ってきます。配管工事を主イエス様の十字架にたとえますと、罪の身代わりとなって十字架の上で苦しみを受けなさり、それによってことが終わったのです。

イエス様が配管工事をなさったのです。そして、死からよみがえり、生ける方として望んで下さり、

「私は見えなくなるけれども、私の臨在・存在は、これから来る聖霊によっていつでもあなた方とともにいるんですよ。その方をこれからお送りしますよ。だから、約束の御霊を待ち望みなさい」

という約束を残して主は天に帰られた。これが配管工事だったのです。

そして、この配管工事が終了したとき、大きな聖霊の注ぎが与えられました。これなしに注がれたとしても、大きな洪水−混乱を引き起こすだけだったと思います。ですから、「その後、その日」というのは、「”主イエス・キリストの十字架が完成して”その後、その日」ということであります。

それでは、神の側の用意が配管工事の完成であったとするなら、聖霊の注ぎの人間の側の条件は何でありましょうか。彼はなんと言っているでしょうか。「悔い改めなさい。神の側に立ち帰りなさい」と語っています。


ヨエル書2章12節を読みます。

「しかし、今、-主の御告げ。-心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」

立ち返れ」、これが悔い改めと言うことです。方向転換する、心を変えるということです。

神に従わないで、自分勝手な生活をしていたけれども、その人生の方向を180度転換して、神に従って、神を信じて、神をより頼んで、愛して生きるような方向の転換をしなさい、と語っております。

この場所において、私たちは人生の方向の転換を必要とされる方がいらっしゃらないでしょうか。いままでは、自分の考え方、自分の主義主張、自分が正しいと思っていること、自分のやりたいこと、全部自分から始まっていた、けれどもそうではない、私たちを造り、導いて下さる神に従って行くんだ、そういう語りかけをこころのうちに聴いている方がいらっしゃらないでしょうか。

神に立ち返る経験が必要であります。しかもそれは、「断食と涙と嘆きとをもって」とあります。「あ、そうか、悪かったなあ」と頭をこりこりと掻いて、"I'm sorry."というような程度のものではないのです。

しばしば、日本人は「ごめんなさい」という言葉を簡単に言い過ぎると言います。簡単に言い過ぎていろいろと困ることもあるのです。

交通事故を起こして"I'm sorry."なんていうと、「"I'm sorry"と言ったからあなたが責任をとりなさい!」と外国では責任を追及されますので、簡単に言ってはいけない言葉です。

しかし、本当に言うべき時には、"I'm sorry"という言葉を、真実に心を込めて、嘆きをもっていわなければなりません。

放蕩息子が父のもとから離れて、どうにもならない人生の壁にぶつかったときになんと言ったでしょうか。

私は、天に、父に対し申し訳ないことをした。どんなことをしてでももう一度、あなたの息子にしてくださいと言うにはふさわしくない者ではあるけれども、憐れみにすがってもう一度戻ろう」と決心したのであります。

これがほんとうの意味での、嘆き、悔い改めであります。

中には、威張って悔い改めをするひとがいますね。

お茶碗を割ってしまって、「こんな大切なお茶碗をどうして大切に扱わなかったのか!」「だって、もう”ごめんなさい”って言ったでしょ?もうあなたは許すべきです」というようにです。でも、そうではありませんね。

「私は、叩かれても、どんな処罰を受けても、何の申し開きも出来ないほど、本当に私は罪人だし、過去において、申し訳のない失敗をしてしまったものだ、だから、どんな処罰を受けても、その通り喜んで受けます」というのが、本当の悔い改めです。

「断食と、涙と、嘆きとをもって」悔い改めるというのが必要です。

また、それは、個別的であるとともに、集合的なものでなければならないのです。彼は、「老人たちを集め、幼子、乳飲み子も・・・、花婿を・・・・、花嫁を・・・」と言っています。

ヨエル書の1章に戻って8節では「亡き悲しめ」、9節では「祭司たちは喪に服する」11節には「農夫たちよ・・・」とありますが、一人一人が悲しむべき結果にたいして、何で起こってしまったのか深く反省して、個別的に悔い改めをする、それは同時に集合的な悔い改めでもあります。

礼拝の後、ペンテコステ聖会があります。犠牲を払ってともに集うと言うことは大きな意味があります。一人一人で祈るということは意味がありますが、集って御前に出ることにはそれ以上の意味があることです。

「どうぞ、私たちを助けて下さい。一人一人を助けて下さい。民族を助けて下さい」といって集まってくる必要があるのです。

今年は教会としてのの霊修会を計画いたしましたが、いろいろな都合で実現しませんでした。その代わりといっては何ですが、ペンテコステ聖会を期待しています。

2,3人我が名によって集まるところには主がある、そして私たちがともに集まって、罪を言い表し、神の前に憐れみをこうということは、神がそれを聴きたもう条件なのであります。

あなた方のうちに、もし危機と問題があるときに、神の前に集まって断食をして悔い改めなさい、私はあなたの民族の祝福して下さると主は約束しておられます。

もし、何か、祝福をとどめている過去の生き方について、現在のあり方について、心の持ち方について、習慣について、正さなければならない要素がございますならば、その問題について、包み隠さず、主の前に心からの悔い改めをもって立ち返ろうではございませんか。


救いの経験のときに、一番ひっかかっていた友人の関係を正すときに、その友人の前に行って、関係をただしてきました。神様の前で悔い改めることは優しいことです。主は許して下さいます。そのとき、主は「あなたの悔い改めが真実なものであるならば、その友人の前に行ってお詫びしてきなさい」と示されました。させていただきました。そのとき、主は大きな釈放と恵みを与えて下さいました。

もし、私たちの中で、ひっかかったままで先へ進もうとしましたならば、進むことは出来ません。過去の失敗に対して申し訳なかったことに対して、神は豊かな許しをもって臨んで下さる、また、具体的になすべきことについて、修復するべき関係がありましたら、真実な砕かれた心をもって正そうではありませんか。それは、祝福の第一歩です。

これは個人個人に、教会にも、わたしたちの民族にもあてはまりましょう。

或る本の中に記されていましたが、「日本は、第二次大戦のときにアジア諸国に対する様々な罪について、真実に悔い改めと謝罪と償いをしていない。それが日本の祝福をとどめている原因である」と書かれています。深く考えさせられることであります。

個人としても、民族としても、主の前に悔い改めることから、豊かな、力強い聖霊の御働きを期待しようではありませんか。


Editied and written by Kenji. Otsuka on 990522