礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年5月23日

『ペンテコステ経験の核心』

竿代 照夫 牧師

使徒の働き15章6〜11節

中心聖句

8そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、

9私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

(8-9節)

アウトライン:

ペンテコステとは、イエス様の復活から50日目に、弟子たちに聖霊が降った出来事です。このことを通して、教会が誕生しました。

その後、パウロの伝道により、多くの非ユダヤ人(異邦人)がイエス様を信じ、クリスチャンとなりましたが、彼らが割礼を受けていないため、ユダヤ人クリスチャンの保守派との間で大論争となり、エルサレム会議が開かれました。

このエルサレム会議で、弁明に立ったペテロは、20年前のペンテコステの経験をふり返り、その核心(最も大切なもの)を解き明かしてくれました。その核心とは「心の潔め」でした(「行い・形の潔め」でなく)。

教訓:ペンテコステの最も大切なものとは何か


導入

 今日はペンテコステ聖日です。今日は、ペンテコステで起きた出来事そのものというより、それから20年経った後でペンテコステを回顧したペテロの言葉から「ペンテコステ経験の核心」について、学びたいと願っております。聖書の箇所は、使徒の働き15章、格別に今日は、8節と9節に焦点を合わせたいと思います。もう1度、お読み致します。

 「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(8-9節)

 この言葉は、エルサレム会議でのペテロの言葉でありますが、この文脈だけでは、「私たち」「彼ら」とはいったい誰なのかわかりませんので、はじめに、この箇所の背景となる出来事を学んでみたいと思います。


1.ペンテコステの出来事

 ペンテコステというのは、「第50番目」という意味です。時代は、紀元30年、イエス様の復活から50日目に、弟子たちに聖霊が降りました。場所は、エルサレムの二階座敷、おそらく「最後の晩餐」と同じ場所と考えられます。祈っていた弟子たちに、風のような音があり、火が吹いてきて、彼らが聖霊に満たされ、外国の言葉で説教を始めたという奇跡が起きたのです。そのことを通して、約3千人の人々がイエス様を信じ、そして教会が誕生したのです。


2.コルネリオの回心

 ペンテコステから5、6年後の紀元35年頃の出来事のことです。ローマの軍人に、コルネリオという人がおりました。この人は、異邦人でしたが、真実に神を畏れ、祈っていた人でした。また、ペテロには、たとえユダヤ人でなくても(異邦人であっても)、躊躇を覚えずに訪問する促し(幻)が与えられました。そして、ペテロがコルネリオを訪問し、聖言を語っていた時に、聖霊が降ったのです。これは第二のペンテコステとも呼ばれています。

 第一のペンテコステは、主にユダヤ人に起きたものですが、第二のペンテコステは、ユダヤ人でない異邦人に起きたという点で、非常に重要な出来事であります。


3.エルサレム会議

 パウロの第一次伝道旅行(紀元46〜48年)を通して多くの非ユダヤ人が洗礼を受け、クリスチャンとなりました。しかし、ユダヤ人クリスチャンの中の保守派が、非ユダヤ人クリスチャンも先ず割礼を受けて、宗教的にはユダヤ人の仲間入りをし、それから洗礼を受け、クリスチャンとなるべきだと主張したのです。パウロは割礼という「行い」・「形式」で人が救われるのではなく、「信仰」によって救われると考えていました。パウロとその仲間は、この問題で妥協することは、実際的にも、信仰的にも決して出来ないと考え、大論争となりました。

 この問題について話し合うため、紀元48年に、エルサレム会議が開かれました。この会議での議論の一節が、今日の箇所のペテロの言葉(使徒の働き15章8、9節)なのです。


4.ペテロの弁明

 エルサレム会議において、ペテロが立ち上がり、異邦人への救いは信仰によって直接なされることを、コルネリオの例を引いて弁明しました。保守派も一目置いていたペテロの弁明は、保守派にとって大きなパンチでした。

 9節の「私たち」とは、今から20年前のペンテコステにおいて、聖霊を受けた私たち(ユダヤ人)ということです。また、「彼ら」とは、コルネリオとその家族(異邦人)のことを指しています。すなわち、9節を言い換えますならば、「(神様は)ユダヤ人と異邦人とに何ら差別をつけず、異邦人の心を信仰によってきよめてくださったのです。」となります。


本論:ペンテコステ経験の核心

 今日、是非申し上げたたいことは、「ペンテコステ経験の核心」ということなのです。ペンテコステで起きた出来事の中で最も大切な要素は何なのか、ということです。

 このエルサレム会議においてペテロは、20年前のペンテコステを振り返り、ユダヤ人と異邦人を同列におき、「ペンテコステ経験の核心」を語ったのです。彼にとっては、ペンテコステのあの大きな音、舌のように分かれた火、外国の言葉での説教、それによるリバイバル、これらの現象的な、または感情的な興奮に勝って、聖霊経験の最も大切な核心は「心の潔め」だったのです。これはとても重要なことです。20年たった今でも、ペンテコステ経験の中で1番核心として残っていることは、「心の潔め」であったというのです。

 このあと、このことについて2、3コメントして、今日のメッセージとしたいと思います。


1.心を知り給う神

 まず第一は、神様は私たちの心を知っておられる、ということです。

 私たちの心とは何でしょう。コルネリオにとっては、心のなかにあった真実な求めや叫びでした。ペテロにとっては、いざという時の自分の弱さ・臆病さ(イエスを知らないと言った)、野心や嫉妬(弟子の中で誰が偉いか)、宣教への力の欠乏(このような人間的な弱さを持ったままでは宣教出来ない)などです。


2.潔める神

 第二は、神様は私たちの心を知っておられるだけでなく、潔めて下さるお方である、ということです。

 ここでの「きよめる」という言葉(カサリゾー)は、道徳的なきよめ、との意味です。道徳的なきよめとは、「心の潔め」です。ユダヤ主義者達の主張するところの割礼に代表される「形の潔め」とは異なります。私達の中にある、神様の愛と潔きにふさわしくない性質、思い、癖、習慣、それらは焼き尽くされなければなりません。心が潔められることにより、行いも潔くなります。

 このことは、ルカ3章16節に、聖霊と火によるバプテスマとして表現されています。火は全ての不純物を焼き尽くします。聖霊は潔いお方であるだけではなく、潔めなさるお方であります。

 さらに、この潔めは瞬時的経験として与えられます。ギリシア語の潔めるという動詞がアオリスト(徐々にではなく、1回で完成するの意)という時制が使用されているのです。

 また、この潔めは、ある条件が果たされるとき、御業が行われるのです。その条件とは、何でしょうか。4つ述べます。

 1)真実な渇き(このままでは神様の御旨にかなう人生を送れません)

 2)切なる求め(神様、何とかして下さい)

 3)明け渡し(献身)

 4)信仰(為して下さったと信じます)


3.信仰によって

 第三は、この経験が与えられるのは、人間的努力によるのではなく、信仰によってだけ与えられる、ということです。

 それ以外の手段は不必要、無効です。割礼に象徴される律法の遵守によって人間は潔めらません。信仰のみが有効です。何故なら、キリストが贖いを成し遂げ、聖霊がそれを執行しておられるからです。


まとめ

 今日、この時代にあって、ペンテコステの最も大切なものとして、私たちが受け継がなければならないものは、この「心の潔め」ではないでしょうか。もしかしたら、大きな風や火はないかも知れません。そういう現象によってもたらされる大きな興奮はないかも知れません。なくてもいいのです。しかし、なくてはならないものは、私たちが神様の前に出て、「神様は私の心の状態を知っておられます。このままでは、神様の証しを立てることが出来ません。」ということがあったのなら、そのことを申し出て、心の潔めをいただくことです。

 私たちは、今日「心の潔め」を求めようではありませんか。また既に「心の潔め」を経験して、その中を歩んでいる人は、なお、その恵みを深くされようではありませんか。

 ご一緒にお祈りを致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 990524