礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年6月6日

召天者記念礼拝に臨んで

天の群集と共に賛美を

竿代 照夫 牧師

ヨハネの黙示録7章9〜17節

中心聖句

9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊の前に立っていた。

(9節)

アウトライン:

今日は我々の教会で信仰を持って天に召された人々をしのぶ「召天者記念礼拝」に臨んで、天国とはどのようなところなのか、またそこに召されたのはどのような人達なのかについて、ヨハネの黙示録にそって学ぼう。

 天国では、かつては患難の中にあったけれども、主イエス・キリストの十字架の救いによって聖められ、そこから抜け出ることのできた人々、あらゆる民族を代表する数えきれないほど多くの人々が、主なる神様がま近にいて下さる喜びに満たされて、一日中神を讃美し、礼拝をしている。

 しかし、天国に入って神様にお会いするためには、それにふさわしい、罪やけがれの無い心が必要である。それは、人間の努力によって得られるものでは無く、イエス・キリストの十字架の救いによってのみ得られるものである。

 我々のこの世における礼拝は、天国における礼拝の予行演習である。さあ心から神を讃美しよう。

教訓:天国に入るのにふさわしい心の備えをしよう


導入

 1971年に当教団の創設者であられる初代総理 蔦田二雄先生が天に召され、その次の1972年から毎年、初代総理と、この教会で信仰を持たれて召天された人々をしのぶ「召天者記念礼拝」が持たれております。

 クリスチャンとして、亡くなられ方を記念することの根拠は、聖書の中にある

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(へブル13:7)

というみことばであろうと思います。世の中で言われているいわゆる「供養」であるとか、「冥福を祈る」ために私達はここに来たのではありません。なぜなら、クリスチャンとして信仰を持って亡くなられた方々は、我々の祈りを待つまでも無く、既に永遠の安らぎと祝福の中に憩うておられることは明らかであるからです。既に主にあって永遠の喜びに満たされておられる亡くなられた方々にならって、私たちも同じように天の御国に向かって進み、そのための心の備えをしたいものです。

 ところで、この世の終わり、終末とはどのようなものかについては、今様々な予言的なものが本になって人々の興味をそそっておりますが、聖書ははっきりとした「終末感」というもの、この世がどのような形で終わりに導かれるかということを私達に啓示として示しております。その終末におけるキリストがもう一度いらっしゃって、そのことによって世界の歴史がしめくくられる大きなできごと、いわゆる大団円の礼拝の模様について書かれているのが、冒頭の聖書の箇所です。

 聖書学者の中にはここに書かれているのがどういう人々であるか、また終末のどのへんのできごとであるかについての細かい議論がありますが、本日はこれらのことにはあえて触れません。ひとことだけ申し上げますと、私がこれから述べるのは「インマヌエル聖書ハンドブック」の解釈にならってお話いたします。

 それによると、全部の審判が終了した後の新しい天、新しい地、それが新しいエルサレムという形で表現されているとのことです。さきほど「エルサレムへエルサレムへ〜」、という歌を歌いましたが、今日はじめて来られた方の中には、何で日本なのに「東京へ東京へ〜」と歌わないのか、外人ぼけしているのではないか、と感じられた方もおられるかもしれませんので、説明させていただきますと、聖書の中には、新しいエルサレムというものが全ての審判が終わった後に回復される新しい世界の象徴として述べられているのです。

 そこにおける礼拝の模様が21章にありますが、この7章は21章と平行し、予見していると考えることができます。

 実はこの7章に描かれている礼拝の様子を絵に描いてOHPでお見せしようと昨日の夕方まで考えていたのですが、私の下手な絵でこれを再現しますと、ここで語られている素晴らしい絵がぶちこわしになってしまいますのでやめにしました。そのかわり、それぞれの頭の中でこの章に描かれている光景を思い描いていただきたいと思います。

 それは次のような光景です。

・中央の大きなみくらには父なる神
・その横に小羊として代表されるキリスト
(キリストは世の罪をになう小羊として十字架にかかったのです)
・そのまわりに多くの天使達
・24人の長老達
(新旧約聖書を代表するそれぞれ12人の教会指導者を示す)
・4つの生き物
神によって造られた全被造者を代表する)
・そして、あらゆる国民を代表する多くの群集がしゅろの葉を持って神を讃美している。

 本日はここに群れをなしている人々がどういう人達なのか、彼らは何をしているのか、そして彼らはどういう状態であったかという3つの点についてお話しして、今日私たちの人生の終末、あるいは世界の終末の輝かしい希望を新たにしたいと願うのであります。


1. どういう人達か

A. 大きな患難から抜け出てきた人達

 14節に「彼らは、大きな患難から抜け出てきた人達で」とあります。この部分の解釈について、ある学者は聖書に記されているいわゆる「患難時代」を通過してきた人達のことをさしているといい、また別の学者はもっと一般的に人生の苦しみを経験してきた人達をさしているといっていますが、私はその両方であると思います。

 どんなに順風満帆に見える人生を送ってきた人でも、その実大なり小なり苦しみや悲しみを経験しています。徳川家康は「人生といは重き荷を負いて長い旅路を行くようなものだ。」と述べていますが、私達の中で人に語ることができないような苦しみ、悲しみ、嘆き、もだえを経験しないで生きている人はいないと思います。

 そうした悩みを経験しながら、それを「抜け出た」とは何とすばらしい言葉でしょうか。この人達は勝利と希望をもって苦しみの中を通過した人達なのです。

B. その衣を小羊の血で洗って白くした人達

 14節では続いて、「その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」とあります。この箇所は、真っ赤なはずの血で洗ったのに白くなったとなっていて、化学の不思議のように一見して矛盾しているように思えますね。しかしその意味するところは、イエス・キリストの十字架の血しおで、まっ白に聖くしていただいたということを、象徴的な言い方で語っているのです。

 天国とは聖いところです。悪しき者、うそを言うもの、よこしまな者、姦淫を行う者が入るのにふさわしくないところです。残念なことですが、誰でも彼でもが行けるところではないのです。神は聖いお方ですが、その神と顔と顔を合わせて相見えるところが天国です。

 皆さんは例えば天皇陛下や総理大臣のような、この世の「偉い人」と食事をする機会があったら、どのような身なりで行かれるでしょうか? 私がケニヤに宣教師として赴任していたときに、ケニヤのモイ大統領の私邸にお招きにあずかりました。さあ、皆さんだったらどんな格好で行かれるでしょうか? ジーンズにTシャツ姿で、野球帽をかぶって、「やあ」といって気軽な格好で行くでしょうか? おそらくそうはされないでしょう。

 彼はスワヒリ語で「ムトクフ・アラプ・モイ」と呼ばれています。「ムトクフ」とは「いと聖き人」という意味ですが、実際の大統領がそうであったかどうかについてはかなり疑わしい点もありますが、それでも、そのような偉い人と食事をする際には、やはり私もシャワーを浴びて、上等の服をきて、とかすほどの分量の無い髪の毛を一生懸命とかして、最高の備えをしてまいりました。ましてや、この世の大統領などとは比べ物にならない権威を持った神様の御前に出るときに、私達は心の中に罪やけがれを持ったままで出ることができるでしょうか? それは少しずうずうしすぎないでしょうか? しかしその罪は、イエス・キリストが十字架にかかられて全部終わりにして下さったのです。
 
 もとに戻りますと、14節に描かれている大群衆は、大きな患難から抜け出てきた者達で、その衣を小羊の血で洗って白くしていただいたのです。

C.あらゆる民族、部族、国語を代表する大ぜいの数えきれない人々

 さらにもう一つ付け加えますと、9節に「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほど大ぜいの群集が」とあります。

 今私達が見ることができる中でこの終末の礼拝に一番近い、多くの国の人々が一同に介する場所はオリンピックの開会式ではないでしょうか。私もオリンピックの開会式は大好きです。感動します。世界中の、あらゆる国々の人達がそれぞれの国旗をもって堂々と行進してまいります。何とも感動的なシーンです。しかし、ここに描かれている礼拝はそれよりも数倍感動的なシーンです。それはオリンピックのようにごく少数の選ばれた人々だけではない、数かぎりない人達が全世界からやってくるのです。

 キリストの素晴らしい救いは今や全世界に伝えられ、聖書は現在2,000カ国語以上に翻訳されて世界中で読まれ、福音が及んでいます。ここでは、世界中の、それも何世代にも何世代にも渡る人達が一同に介している素晴らしい光景が描かれています。私達は、その一員となることを誇りに思って地上生涯を送りたいものです


2.彼らは何をしているのか

A.賛美している

 9節に[しゅろの枝を手に持って]と書いてあります。しゅろはイスラエルの人達がお祭りのときに使った喜びと讃美を象徴するものであります。彼らがそのしゅろの枝を持って行っていた讃美の内容については、10節に「彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」と書いてあります。

 人間はどんなにがんばっても自分達の力で、そのけがれきった心の罪から抜け出すことはできません。ですから、救いは神にある、私達の身代わりとして十字架にかかって神の小羊となったキリストにあると叫んでいるのです。

B.礼拝している

 10節に「彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』」とあります。

 これを意訳すると、「ほめ称えられるべきお方は神様あなただけです。どんな偉大な人間であっても自分で栄光をとるべきでは無く神様あなただけが栄光を受けるにふさわしいのです。」ということです。歴史上には多くの偉人がおり、その業績を学んで参考にすることは意味の無いことではありませんが、次の世界では、彼らの業績は全てご破算になって、その人達を偉大ならしめた神のみがほめ称えられるのです。これは素晴らしいことだと思います。

 15節に「昼も夜も神に仕えている。」とあります。私が今年の5月にミャンマーを訪れたときに、国民の20〜30%を占める山岳民族の人達の聖日礼拝に参加する機会を得ました。彼らは、朝の4時から始まって夜の9時に至るまで、仮小屋の中に並べた角材の上に、若い人から年寄りまで皆が座って、聖書の学びとお祈りを交えて、一日中ずっと飽きることなく讃美歌を歌い続けておりました。私は天の御国における礼拝とはこのようなものでは無いかと感じました。


3.彼らはどういう状態であるか

 一言で言えば「満ち足りた状態」であるということです。

 多くの患難を経てきた彼らですが、今や、16節から17節に

彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水に導いて下さるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さるのです。

と記されています。神様が近くにいて下さることは、このように全ての患難を帳消しにするほどの至福の経験であります。

 そして、それは単なる慰めではなくて、私達はその永遠の命を今から経験して生きていくことができるのです。


 先月亡くなられた飯島姉妹は、2年前に膵臓ガンを宣告されて、大変な痛み中を通られましたが、天国への臨みに輝いて、まわりの人たちに「私がどこに行くか知っていますか。天国に行くんですよ。」と笑顔で天国への希望をお分かちしておられたそうです。

 飯島さんだけではなく、お配りしたリストにある全ての召天者の方々が天国にあって昼も夜も絶えることなく神を讃美しておられることでしょう。

 また、今我々がここで礼拝しているのは、天国における讃美の予行演習をしているのです。希望に満ちたことではないでしょうか。どうぞ心から神の御業を讃美致しましょう。また、神の救いの力を自分のものとさせていただいて、天国にふさわしい心の備えをひとりひとりがさせていただきましょう。

 お祈り致します。


Editied and written by T. Maeda on 990606