礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年6月13日

「『利他主義』の模範」

竿代 照夫 牧師

コリント人への手紙第1 10章23〜11章1節

中心聖句

23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とは限りません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。

24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

(23〜24節)

アウトライン:

クリスチャンは自由を持っている。

しかし、そのことを求めることで他者がつまづくことがあってはならない。他者の配慮を持った上で、自由を求めることができるのだ。

人間は元来利己的であり、このような他者への愛(利他主義とも言える)を自分の努力で勝ち得ることはできない。利他主義の見本とも言える主イエスの十字架のみが、このことを可能にする。

物事をするかしないかについては、主イエスの十字架に照らしたとき、その内容が神の栄光を賛美するものであるかどうかで判断することができる。

他者への配慮をしながら、自立的に行動を選び取ることのできるクリスチャンとさせていただこう。

教訓:他者への愛をふまえたキリスト者の自由


導入

 聖書は神のことばであり、また私たちクリスチャンにとっての教科書でもあります。そこには2千年以前の中東の出来事が書かれており、現代 においてそのままその内容を当てはめることはできません。

 しかし聖書の内容はむしろ、2千年を経過した今でも通用する普遍的な「物の見方」を扱っていると言って良いものです。この見方を知ることにより、私たちは聖霊の働きによって自ら神の御旨を知り、とるべき行動を選び取っていくことができるのです。

 今日取り上げます箇所でもパウロは、コリント教会のクリスチャンが直面していた実際的な課題をどう扱うかという指導を与えつつ、その課題自体というよりも、もっと深い霊的な法則、つまり実際的な課題をどう扱うかという視点を教えようとしております。

 第8章と10章では、偶像に生贄として捧げられた動物の肉の残りの部分を食べることは、クリスチャンとして良いことか、悪いことかという、当時としては大きなテーマについて取り上げられております。肉を食べることによって、偶像礼拝に間接的にであれ、参与してしまうことになるのか。あるいは、偶像とは実体のないものだから、心が汚れてしまうことはない、と言えるのか。結論から言えば、パウロは偶像礼拝への参加はノー、肉食については原則イエス、但し例外は有りうるという見解を示しました。

 ここでの一つのポイントは、何がイエスか何がノーかの規則を一つ一つ覚えて実行することが大切なのではなく、それを判断する「物の見方」を養えば良い、と言うことです。それさえ出来れば、「これは良いことでしょうか、どうでしょうか」と一々牧師や先輩に指導を受けながら生活する依存的なクリスチャンではなく、自立的なクリスチャンとなることができます。

 次に、この箇所からクリスチャンの行動原則がどのようなものかについて見て参りましょう。


1. 行動の原則

A. クリスチャンは自由を持っている

 23節は、クリスチャンにとって非常に大切な原則を掲げています。

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とは限りません。すべてのことは、してもよいのです。

 この「しても良い」ということばは原語では”exestin”=possible, lawful, permittedとなっています。これはすべてのことが可能であり、許されていると言うことを意味しています。それはすなわち、「クリスチャンは自由だ」ということです。

 クリスチャンの多くは、信仰生活とは、「べき(do)、べからず(don't)」の集まりと思って いますが、これは大きな間違いです。「良い行い」などの人間的努力によって救いを得るのでもなく、また「頑張リズム」とでも言うような行動によって救いが完成されるのではないのです。

 救いは信仰のみによるものであり、その完成も信仰のみによるのです。「べき、べからず」を意識してそれを守ろうと努力することは、肉によって救いを完成することで、福音の本質から私達を外らせてしまいます。

 原則として第一に覚えていただきたいことは、「信仰によって生きる限り、自然のうちに律法は成就されていく」というものです。パウロはガラテヤ書の中で特にこのクリスチャンの自由を強調しています(2:4、3:3、5:1、5:13)。

B. 自由を他者の建徳のために時に自制する

 クリスチャンはこのような自由を持っておりますが、以前お話しいたしましたとおり、その
自由をより高い目的の為に自主規制することはあり得ます。

 その目的とは建徳的な配慮(気配りとも言える)ものです。クリスチャンにはどんなことでも許されてはいますが、全てのものが他の人の役に立つとは限りませんし、他の人の建て上げに繋がるとも限りません。逆に言えば、ある行動をすることで他の人をつまづかせ、破壊してしまうことがあるのです。他の人の利益を考えるという角度から、(愛の故に)自由を制限することはふさわしいことなのです。これは一言で言いますと「他人の利益を求めよ(利他主義)」とでも言うようなことです。

次にこの「利他主義」の行動の実際についてみて参りましょう。


2. 行動の実際

A. 自由の原則の適用

 25〜26節でパウロは、

25 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
26
 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
27
 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

といって、偶像に捧げた肉であろうとも、それとして意識されていない状態であるならば食べても差し支えないという立場を主張しています。

 具体的ケースは二つあります。ケース1は、市場で売られている肉を自分で買ってきて食べる場合。ケース2は、ノンクリスチャンの家に招かれてご馳走を頂く場合。そのどちらにも自由の原則があてはまります。

 そしてこの時にこの時にやらない方がいいとされているのが、「調べ上げる」ということです。

 ここでいわれている「調べ上げる」とは、どのようなものでしょうか?私は宣教師の頃、さまざまな宗教的バックグラウンドを持った方を招く機会がありました。これらの方の中には、それぞれの宗教の戒律を守るために「この肉は何処で手に入れたのか?」とか、「この料理に使ったフライパンはちゃんと肉料理の物と分けていたか?」など詳しく質問してくる人がいます。こういう事を「調べ上げる」とパウロは言っていて、そういうことをクリスチャンはするな、と主張したわけです。

 もっと積極的には、「地とそれに満ちているものは、主のもの」という神の創造と支配への信仰に立てば、何でも恐れることなく食する事が出来るのです。神は人間が自然をエンジョイするように造られたのですから、人生をエンジョイすることを罪である、と言ったビクビクした根暗な禁欲的なクリスチャンである必要はないのです。

 さて、それでは、20、21節で述べている「その肉を食べることが齎す悪の霊への礼拝への参加」という恐れは払拭されないのでしょうか?その答えに関しては、25節で想定しているケースと、20、21節で想定しているケースとの違いを心に留める必要があります。

 21節でパウロが禁止していることは、偶像礼拝への積極的参加ということであり、払い下げの肉から知らず知らずのうちに魔術的な汚れがもたらされる訳ではないのです。

B. 配慮の原則の適用

このように、クリスチャンにとって何事もして良いという自由があることは、おわかりになったと思いますが、ある場合はそのことが人につまづきを与えることがあります。そのようなときは、他者への配慮を優先させる必要があるのです。

28 しかし、もしだれかが、『これは偶像にささげた肉です。』とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。29私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。
30
 もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。


パウロが語るこの28節の「誰か」とは、弱い(つまずきやすい)クリスチャンのことで、小さなことでびくびくしている人のことです。

 例えば、ある家に招かれて食事をしようとしたら、共に招かれたクリスチャンの友達が、「あれ、この肉には、偶像に捧げたという印がついている。」と叫んだとしましょう。これは、すっかり興ざめなことです。その時には、「肉なんて単なる物質なのだから、煩わされることはありませんよ。神様の造られたものはみんな潔いんです。」といってムシャムシャ食べるのが賢いかどうかと言いますと、これはノーです。

 そのクリスチャンの弱い良心をそれ以上妨げない為にも、「そうですか。それでは私も遠慮しておきましょう。」と潔く食べるのを中止しましょう、とパウロは勧めているのです。つまり、自分と違った行動基準を持っている人の良心を慮って、それに合わせよう、というのがパウロのここでの主張になっています。

 なぜならば、その自由な行動を見るにつけ、その弱いクリスチャンは再び偶像の影響を受け、偶像礼拝に戻ってしまうかもしれないからなのです。

 ですから、自主規制という行為は自分の良心の為に行うことではありません。私の良心が汚れるとか汚れないとかを問題にしてはいないのです。

 クリスチャンの自由という原則はしっかり持ちながらも、弱い人への気配りも忘れるな、とパウロは言っているわけです。

 これは非常にシンプルなことなのですが、クリスチャンに必要な気配りに関した多くのことを語っています。このケースと同じことは現代では起こりにくいかも知れませんが、これに類似した内容については、今でも実に多くのことが現実的問題として挙げられるでしょう。

 そのような現在の具体的課題においても、「自由と配慮」の二つの原則を神さまの語りかけに従って選び取っていくことにより、本当のあかしがこの世に対してできるようになるのです。


3.行動の動機

 クリスチャンの行動原則は、積極的には「すべてのことにおいて神の栄光を現わす」というものです。飲む、食べるといった言わばプライヴェートな領域でも何事においても、神の栄光を現わすように務めよう、というものなのです。

 その事を消極的に表現すれば、誰にもつまずきを与えないように配慮しよう、というのが第二の原則となります。32節ではユダヤ人(律法主義者)、ギリシャ人(異教信者)、クリスチャンのだれにもつまずきを与えてはならないことが書かれています。また、

この小さい者をつまずかせることは天の父の御心ではない

とマタイ18:14にも記されています。飲食に関わる小さな事でも、それが他人をつまずかせ、永遠の滅びに追いやるとすれば、その責任は重大であるといえましょう。ある場合それは、宗教的熱心さによってもたらされることもあるのです。

この二つをまとめていえば、

22 だれでも自分の利益を求めないで、他人の利益を心掛けなさい。

そして

33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

となります。つまり、利己主義ではなく、利他主義、自分の喜びの追求ではなく、他人の喜びの追求を目指そうと勧めているのです。

 「利他主義」とはあまり聞いたことのない言葉と思いますが、利己主義の反対語として敢えて使うことにいたします。それについて幾つかのコメントを述べて終りたいと思います。



人間の本来の性質は利己的であって、他の人に仕える事は実に難しいものです。

 ピリピ2:21には

だれも聖名自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

とクリスチャンも含めた人間の本来の生活原則が利己主義であることをパウロは悲しい現実として認めています。特にこの利己主義の塊のような現代にあって、「利他主義」なんて非現実的だと笑われてしまいそうな話です。悲しいかなそれが人間の性なのです。

 それだけ、人間自身の努力では何にもならないのがこの利己主義であり、これを克服するために特別な外的働きかけがなければならないのです。

・実にこのために、
主イエス

私達のためにご自分の命をお捨てになりました。それによって私達に愛が分かったのです。(第一ヨハネ3:16)

という形で、十字架の御業を実践されたのです。

 彼を十字架に付けた者達が

彼は他人を救ったが自分を救うことができない。何たる情けない救い主か。

とあざ笑いましたが、この皮肉こそ、実はイエスの生き様をまさに言い当てたことばであり、最大級の褒め言葉であったのです。自分を救おうとする救い主は救い主ではありません。正に主イエスはご自分を完全に捧げ切って、多くの人の救いを成し遂げなさったのです。

パウロもこのキリストの利他主義を実践したひとりです。まさに席の暖まる暇もなく、心血を注いで伝道と牧会に当ったのです(ピリピ2:16、17)。かれは

私は自分を捨ててまで、私を愛して下さったイエス様の模範に倣って、自分を捨てて人々の益の為に人生を使っている。あなたがたも、その面で、私に倣って欲しい。

と言っています。これは、

人は他人の利益を実現するために存在しており、その生き方を主イエスが率先してしてくださった。私はそれにならっている。皆も私をならって欲しい。

と言うパウロの訴えなのです。

・しかしここで注意すべきことは、
他人を益するとか人を喜ばせるということが、他人のわがままや他人の良心に自分をあわせる(妥協する)ことでは(必ずしも)ない、ということです。また、他人の間違った欲求を満たすために奉仕することでもありません。他人の利益を求めるとは、真の意味で他の人の役を立つこと目指すのです。

 さらには、他人のために働くと言うことを極端に行いすぎて、自らの生活がおろそかになったり、自分の家庭生活をないがしろにしたりすることがないようにしてください。これは別の意味で他人をつまづかせることにもなるのです。

 また、自分を喜ばせないとは、禁欲的行動の勧めではありません。さらに、自分を痛めることでもありません。欲望を我慢することでもないのです。自分の利益を全く放棄することでも(特別な場合を除いては)なく、他の人の喜びが私の喜びとなるような心に作り替えて頂くことなのです。

主の助けを期待しましょう。


物事の善悪を判断するときに、「それは究極的には神の栄光を現わす道となるかどうか」を先ず考えましょう。そして得た結論を大胆に実行しましょう。それは、電話一つかも知れませんし、手紙一通かも知れません。主はその時答えを出して下さるでしょう。その声に従って参りましょう。

 お祈り致します。


Editied and written by K. Ohta on 990613