礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年6月20日

「『ふさわしさ』の問題」

竿代 照夫 牧師

コリント人への手紙第1 11章2〜16節

中心聖句

13あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

(13節)

アウトライン:

当時のコリントでは、女性が頭にかぶり物を着けて神に祈るのが社会的習慣であった。

しかし、一部のクリスチャン女性が「男女は神の前に平等である」との思想を極端にとり、何もかぶらないで神に祈るという当時としては常識外の行動をとった。

こういう女性に対し、パウロは「クリスチャンとしてふさわしく、祈るときにはかぶり物を着けなさい」と勧告している。

今日は、クリスチャンとしての「ふさわしさ」という問題を一緒に考えてみたい。

教訓:クリスチャンの「ふさわしさ」とは何か


導入

 昨週は10章24節の「だれでも自分の利益を求めないで、他人の利益を心掛けなさい。」との聖言から、「利他主義」を学びました。人間が本来持っている性質とは全く反する教えですが、パウロはこの生き方こそ主イエス様の生き方であり、彼自身の生き方であり、信仰者全ての生き方であると述べています。それは自己に死ぬことによってのみ可能となるのです。

 今日のテーマはがらりと変わっているように見えますが、連続性はあるのです。女性の「かぶり物」という、あまり本質的でないように見える問題ですが、当時の教会のつまずきとなっていたので、これも避けて通れない問題でした。要は、女性は祈りや預言をするときには、頭にネッカチーフかベールをかぶるべきであるとパウロは言っている訳です。

 私達は、聖書が私達の信仰と行動のテキストブックであると語り、信じ、生活しているつもりです。特に私達の群れは、聖書通りを実行する点においては誰にもひけをとらない、と自称しています。

 ここで、皆さん、まわりを360度、ぐるりを見回していただきたいのです。皆さんのまわりにかぶり物を着けている婦人は何人いますか。私の見た限りAさんお一人しかいらっしゃいません。では、私達は聖書的ではないのでしょうか。アフリカやインドでは、文字通り殆どの女性がベールをかぶって礼拝に来ます。私達はそれに倣うべきなのでしょうか。それを知るためには、私達は聖書の時代の社会・習慣を知らなければなりません。その中でパウロがここに語っている命令の意味を捉えないと、「聖書的」と言いながらも極端に走ってしまうことにもなりかねません。


パウロの勧告の社会的背景・・当時のコリントの女性の着物についての習慣

 ギリシャの女性が単独で外出することは稀でした。特に未婚の女性が外出するときは祭の行列に加わるか、見物するかのどちらかだけだったようです。外出するときはかぶり物を着けていました。それは、ヘアネット、ヘアバッグ、頭巾のようなものであり、多くの場合髪の毛全体を隠すようなものでした。例外は娼婦だけでした。

 さて、コリント教会の女性クリスチャンの中には、男女が神の前では平等であるという実に革命的な思想(ガラテヤ3:28「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」)によって刺激を受け、それが極端に走って男女の社会的な差別を認めない女性が現われたようです。

 その革命的思想の象徴がベールなしでの外出と祈りであったらしいのです。また、教会の集まりで、霊感を受けたと信じて、男性に伍して祈り、説教をするために「慎みと服従」の象徴であるベールを脱ぎ捨てた女性もいたようです。いずれにせよ、熱心の余り、世間の常識を外れた行動をとった女性がいたらしいのです。

 パウロの勧告はそういった過激な女性に向けられている、ということを先ず念頭に入れておいて欲しいのです。


パウロの勧告の内容

1.女性の位置を良く弁えなさい。

1)権威における順序:3節「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」御父ー御子ー男ー女という順序がまず述べられています。これは、秩序を保つための権威における順序であって、その相互の関係は、自発的な服従によって保たれるのです。

2)創造における順序:7ー9節「男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女は男のために造られたのだからです。」男は神に似せて作られました。女は男に似せて、それを土台として造られました。これは、栄光における順序をも表わしています。男は神の栄光を表わし、女は男の栄光を表わすのです。

3)もっとも、こうした順序は家庭や社会秩序の為のものであり、神の前には本質的に双方は平等です(11、12節「とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。」)。男女は相互に依存し合い、またその魂は神の前に同じ尊さを持っています。

2.かぶり物は女性に必要です。その理由は三つあります。

1)女にとってかぶり物をつけないで祈り、預言をすることは、恥ずかしいことです。その恥ずかしさという点で、剃髪と等しいのです。剃髪は姦淫を犯して刑罰を受ける時の女性のスタイルであって、大きな恥の象徴でした。(4ー6節)

2)かぶり物は権威(=夫の権威)に従う印として必要です。(10節)

3)かぶり物をつけることが自然でなのです。13ー16節「あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり(ギリシャでは同性愛者がおり、彼等は長髪であった)、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。」ここで自然とは、もちろんその時の社会風俗を表わしています。クリスチャンは非常識であってはいけません。

 もう一つの表現は「ふさわしい」というものです。今日はこの「ふさわしい」という言葉に焦点を合わせて締めくくりたいと考えております。


「ふさわしさ」の問題

 ふさわしいとは、その立場・状況に似つかわしい、ぴったり当てはまる、といったニュアンスで使われます。

 クリスチャンとして、「ふさわしい」行動とは何でしょう。クリスチャンの「ふさわしさ」を表わす諸聖句を挙げてみましょう。

◇第一テモテ2:10 良い行い

「むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」

◇エペソ4:1 寛容、謙遜、柔和、愛、一致

「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、・・」

◇エペソ5:3 潔い行動=不品行を避けること

「あなた方の間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。」

◇ピリピ1:27 信仰に進歩し、信仰の為に戦うこと

「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。・・心を1つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており・・」

 以上に、共通して言えることは、

・クリスチャンは福音を聞き、受け入れたことによって、罪から救われ、キリストとともに天の所に王子として座っているのです。驚くべき恵みが与えられています。この立場の変化を自覚して、王子らしく振る舞おうではありませんか。

・福音の中には、その立場にふさわしく生きることを可能にする恵みが、既に含まれています。ファーストクラスの飛行機に乗れば、おいしいご馳走がその切符に含まれています。それを知らずにカップラーメンを持ち込んだら滑稽でしょう。イエス様の救いの切符には、私達を清く、また愛に満ちたクリスチャンとして保つ恵みが含まれているのです。それを知らずに自力で頑張ろうとすると無理が生じるのです。

具体的に、どう行動するかは私達自身の判断に委ねられています。福音の恵みを自覚し、その力に頼って、行動するのは自分です。他人を裁く必要はありません。他人に裁かれる必要もありません。他人の目を過度に気にすることもありません。


まとめ

 今日私達が覚えたいことは、神の私達に対する信頼です。自分で判断しなさい、というのは大人扱いです。子供には、あれをしなさい、これをしなさい、と細かく指示を与えます。大人には、"Behave yourself"(自分の立場を弁えてそれにふさわしく行動しなさい)で充分なのです。札幌農学校のクラーク博士は着任後、一切の校則を排して、"Be Gentlemen"の一言に纏めたといいます。生徒はその校長の信頼に答えて、behave したといいます。

 今日、主は私達にふさわしく生活しなさい、と語られます。具体的にどうするのでしょうか?自分で判断しなさい、と私達を信頼しておられます。私自身、手を取り、足を取ってコーチするタイプの牧師ではありません。どうもそれは福音の意味する所と違うと思うからです。それを放牧というならば、私の主義は放牧です。信仰者の実生活をどうするかについて、共に考え、共に悩み、共に語らうことは喜んでしたい。でも本質的に、主とその恵みの言葉に委ねて大人扱いをしたいのです。主もそのように私達を扱いなさるのです。

 私達は神の大人扱いに対して、聖霊に逆らって反逆的な行動にでることもできます。丁度コリント教会のクリスチャン達がそうしたように。しかし、聖霊にしたがって福音にふさわしく生活することもできるのです。あなたはどちらを選びますか?

 お祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 990621