礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年6月27日

「隠しておくべきだろうか」

井川 正一郎 牧師

創世記18章16-22節

中心聖句

17主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

(17節)

アウトライン:

 神が行おうとしていることをアブラハムに知らせたのは、神のアブラハムへの特別扱いである。

すなわち、(1) 神が個人的にアブラハムに御自身を現して下さったこと(2) 神がこれからを行なうことを前もって知らせてくださったこと(3) 神が個人的に立ち止まって下さったことである。

 アブラハムが特別扱いを受けたのは、
(1) 神を信じ、拠り頼む者であったから(2) 魂の救いを大切なものとしているから(3) 神との交わりを大切なものとしているから(4) 知らせていただいたことに責任を持つ人間だからである。

これらは、私たちが神様から特別扱いを受けるために心にとめるべきことでもある。

教訓:神さまからの特別扱い


導入

 創世記18章17節をお開きいただきました。

アブラハムの子供が与えられるとの大切な約束が記されている個所であるとともに、ソドムとゴモラのあまりにも汚れた罪のゆえに、神がわざわざ地上に降りて、その現状を見にこられたことが、この個所の中心的流れであります。

 アブラハムのところへ寄られた神は、18章2節に「三人の人」とありますが、ある人は、これは受肉前のイエスが形をとってあらわれなさったひとつの記事であるといっています。あとの二人は御使いでありましょう。

 それはともかく、神様がアブラハムのところへ現れました。アブラハムのすばやい奉仕の姿が描かれ、そこでイサクが与えられるとの約束がしめされたこと、サラが信じられなかったことが記されています。

 そして、16節以降に、子孫への祝福の約束、ソドムとゴモラのさばきに行かれる神がそのことをアブラハムに隠しておくべきだろうか、否、それをアブラハムに教えられる神、それに対して、甥のロトのことを考えながら、懸命にとりなすアブラハムのことが記されています。

 その甲斐あってか、次の19章で、ソドムとゴモラの町は滅ぼされますが、ロトはやっとのことで救い出されました。後ろを振り返ったロトの妻は塩の柱となったのであります。

 今日は特に、この文脈のなかで中心的な記事の一つである、神がこれから行おうとしておられること、アブラハムに隠さないで、知らせよう、教えようとされた、その記事に焦点をあわせるべく、導かれております。

 「私がこれからしようとしていることを、アブラハムに、前もって隠さないで、知らせた」こと、これは、いってみれば、「
神のアブラハムに対する特別扱い」といってよろしいでしょう。きょうの短いひととき、改めて、この「神のアブラハムに対する特別扱い」について、3つのことを思い巡らせたいと思います。


(1)神のご顕示

まず、神が個人的にアブラハムに御自身を現して下さったという点で、特別扱いといってよいと思います。2節に、肉体の姿を持って神は現れたことが記されております。アブラハムのもてなしを快く受けられた神、そして、罪の重たいソドムとゴモラのさばきについて、アブラハムに教えようとなさる神。

 まず何よりも、アブラハムの取っての特権、特別扱いは、神がご自分の前に現れてくださったということであります。アブラハムにだけ現れてくださった、いや、アブラハムだからこそ、個人的に現れて下さったといえるのであります。これほどの特別扱いがどこにあることであろうかと思います。


(2)神のご啓示

第二に、この特別扱いは、神がこれから行なうことを前もって知らせてくださったこと、教えてくださったことであります。

 言葉を変えて申しますなら、
神ご自身の御旨・ご計画を知らせ下さる、教えてくださるという点で、それは特別扱いということなのであります。18章17説に、アブラハム個人に対する新任、特別な関心、特別な扱いがここにあらわされております。

 で、この17節、「アブラハムに隠しておくべきだろうか」は、興味深いのであります。聖書の中に、神はいかなるお方かがいろいろな角度から記されていますが、「隠される神」という角度から述べられているところがいくつかあります。

 イザヤ書45章15節には、「
まことに、あなたは御自身を隠す神」とあります。この文脈は、ひとことで「慰めよ、慰めよ」より始まる40章以降の、イスラエルの回復の約束について、40-48章までは、いわばその回復のご計画をなされるのは神であるとの宣言が繰りかえされているところといってよろしいでしょう。14節にあるような「神はほかにはいなく、いない」といったことばが、実は、くりかえし、くりかえし、出てまいります。いわば、キー・ワードといってよろしいでしょう。

 おなじイザヤ書の40章18、25、28節、41章4節、43章10-12節、44章8節、45章5、14、18、21、22節、46章9節にマークをつけるとよろしいでしょう。「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」という讃美歌、いや、流行歌がありましたが(笑)、私が神、わたしのほかは神はいない、この私が回復のみわざを計画し、実行しようとしております。これほど何遍でも繰り返しつつ宣言しているにもかかわらず、御自身は隠す神、隠される神といわれていることは、面白いことであります。

  少し脱線するようですが、隠す神と言われる意味は、少なくとも3つあります。
1) まず、「
神は真理そのものであられる」ということです。すべての出所(でどころ)、源であるゆえに、人にはまだその真理を悟り得ないのであります。神御自身のほうから知らせない限り、人は知ることができない、という意味での「隠される神」であります。

2) 第二に、「
神は人に知らせてくださるお方」という意味であります。人に知らせよう、教えようとしておられる方で、隠したままでは折られないお方ゆえに、知らせてあげよう、教えてあげよう、見せてあげよう、とされます。

 神が隠されたものを知らせることを、「
啓示」といいます。隠すとは、決して見せない、知らせないという意味ではなく、これからそれを知らせてあげようとの面が強く意識されている言葉でもあります。

 人の思い・考えを遥かに越えた神様の不思議な贖いのご計画を知らせよう、そして、人の理解の度合いに応じて、今は隠していることも、だんだんに知らせてあげよう、見せてあげようとされる、という意味であります。

(3) 第三に、少なくとも
救いのご計画=人が救われるために必要な事柄・救いの全体は人に表されているが、神を信じない・不信仰なものにとっては、その真理が見えないという意味での隠される神であります。

 神は御自身を隠され、不信仰な者の心、その人の勝手に任されます。
啓示される真理は、聖霊の働きなくしては人間の目で見えない、悟り得ないものであります。パウロが、エペソの長老たちに向かって別れの説教をミレトでしましたが、その中で彼は、「神のご計画の全体をあますところなく知らせた」といったことは、示唆に富んでおります。

難しいことはともかく、神の特別扱いとは、
(1) 第一に、
そのような隠す神がアブラハムの前に個人的に現れてくださったこと
(2) 第二に、
御自身の御旨(みむね)・ご計画を知らせてくださったこと、そして教えてくださったことであります。

 もう一つ開きたいおことば――申命記29章29節――知らせてくださったものは、もう私のものとなっているとの幸いなお言葉であります。ひとに知らせてくださるということを、もう少し分析しますと、既に知らされたこと、そして、これから知らされること、であります


(3)個人を思いやって立ち止まる神

 その特別扱いは、神ご自身が、個人的に「
立ち止まってくださった」という点に示されています。

 22節には、「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。これは、結局は「神がアブラハムのために」個人的に立ち止まってくださったことが意味されています。立ち止まり、アブラハムの願いを聞こうとされる神、願いを聞き届けてくださる神。これは、神の特別扱いの現れであります。

 23節以降、有名なとりなしの祈り、せっついた願いがしるされています。

 新約聖書のなかに、目の見えないバルテマイの話がありますが、通り過ぎようとされるイエス様に大声で「ダビデの子、イエス様、私を哀れんでください」と叫んだ記事があります。弟子たちはそれを妨げますが、バルテマイはいよいよ叫び、そのとき、イエス様は彼のために立ち止まってくださったのであります。バルテマイに対する特別扱いであります。「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」それは、すなわち、神がアブラハムのために立ち止まってくださった、いわば特別扱いなのであります。

 そもそも、特別扱いとは、まさに特別な個人にされるもの、「この私だけ」「あなただけ」というのが本来の意味であります。しかし、神の特別扱いは、すこしニュアンスが違い、私に対する特別扱いであることは言うまでもなく、同じように、ほかの人に対しても、神は特別扱いをされるということであります。

 
神の扱いは、いってみれば、私に対しても、あの人にも、このひとにとっても、「ああ、これは私の特別扱いだ」と感じることのできるものなのであります。一人一人が、これは特別扱い、慮りという以外ない、感じざるを得ない、思わざるを得ないほどの特別扱いがなされているのであります。

 私たち夫婦は久芳先生たちに導かれ、私たちが最も愛され、扱われたと今でも思っております。実は、ほかにも先生方に触れた人々も「私が最も愛された、厄介をかけた、扱っていただいた」と思っているのです。

 戦後まもなく来日された宣教師の先生の働きはすばらしく、羽鳥明先生を導かれた宣教師の話を本で読んだことがありますが、「私こそ、その宣教師に最も愛された弟子であると自負していたが、数十年後の記念の証詞会に出席した人全員が、その宣教師に一番愛された、と告白していた」と書いていました。

 申し上げたかったのは、
私たちは、神に特別扱いを例外なく受けている人間であり、漏れている人など、一人もいないのであります。まさに、「その扱いを受けていない」とか「わたしなんて」と言う思いを持つ必要がないということであります。

 詩篇4編3節に「特別に扱われ」、出エジプト記8章22節に、「特別に扱い」とある事でとおわかりになると思います。

 ヤコブ書にありますように、「神の友」と呼ばれた人物。特別扱いを受けた人物です。神は御自身をあらわされた、御自身の御旨・ご計画を知らせてくださり、立ち止まってくださったのであります。私たちに対しても、変わらない、愛の姿勢をもって臨んでくださるのであります。


 では、なぜ、アブラハムは神からの特別扱いをうけたのか、をまとめとして考えたいのでありますが、実は、この理由を考えることが、言いかえると、今の私たちが特別扱いを受けるために心にとめることはなにか、そう、今日のメッセージを私たちの生活にどのように具体的に当てはめていけばよいかの適用につながってまいります。

 さあ、メッセージがはっきりして参りました、と私がいいますと、そろそろ終わりだということでOHPのスイッチがつきますが(笑)、これからつきます(笑)。

 アブラハムが、神から特別扱いを受けた理由はなにか、すなわち、私たちが心にとめる事柄がなにか、ということでありますが、箇条書き的に4つ学びたいと思います。それが、「こういうことに心がけたほうがいいな」ということにつながります。アブラハムが神から特別扱いを受けたのは、

(1) まず、
神を信じ、神が拠り頼む者だから、であります。
(2) 第二に、
魂の救いをのために心を使う者であるからであります。アブラハムがロトのために心を使ったように、私たちも心を使うものとなりたいものであります。
(3) 第3に、
神との交わりを大切にしている者であるからであります。普段の営みの中で、お祈りを通しての交わりを大切にしているからこそ、緊急なロトの救いのお願いも真実な心から出てくきます。神との交わりを大切にしたいものです。
(4)そして、第4に、
アブラハム自身が、知らせていただいたことをに責任を持つ人間だから、であります。ここだけの話だけど、というのがあります。「あなただけに話しておく」「誰にも話さないで」ということでありますが、皆さんがよくご存知のように、99パーセント以上、その話は、なぜか、他に漏れていきます(笑)。

 広がってもよい種類のものであればよいですが、よくないものが回ることは、まさによくない。話し相手をよく考えねばなりません。神は、アブラハムに、隠しておくべきであろうか、いや、知らせようとされました。神のアブラハムに対する信用・信頼。それは、アブラハムが、知らせたことに真剣に取り組み、責任を持って対処する人間であるからといえるのであります。


まとめ

 神は、きょうも、これから、私に、あなたに、知らせたいことがあると親しく近づいてこられます。そして、私たちがなんとかしていただきたいとせっついて祈るときにも、神は特別扱いをもって立ち止まってくださるのであります。聖餐式も、神の私たち一人一人に対する特別扱いの現れと言えましょう。

 感謝と吟味を持って、聖餐にあづかリましょう。「アブラハムに隠しておくべきだろうか、いや、知らせてあげよう」、これがメッセージです。ごいっしょにお祈りいたしましょう。


Editied and written by N. Ootsuka on 990702