礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年7月4日

第1コリント書連講(26)

「自己吟味の必要」

竿代 照夫 牧師

第1コリント書11章17〜34節

中心聖句

28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

(28節)

アウトライン:

 コリント教会では、多くの問題を抱えていた。その中で、今日の聖書の箇所では、無秩序な聖餐式の問題が取り上げられている。

 コリント教会では聖餐式の日に早めに教会にやってきたお金持ちの人達が、備えられた食べ物や飲み物を全て食べてしまって、後から労働者階級の人達が仕事を終えてやっと教会に来たときには食べ物は全て無くなっていたというようなことが行われており、パウロはこれを厳しく戒めている。

 そして、パウロは聖餐式の本当の意味について、「ルカの福音書」の言葉を引用しながら説いている。このような聖餐式の意義深さを考えたならば、普段それにふさわしくない生活を送り、またふさわしくない心を持っていながら、なんの吟味もしないでそれに加わることは神様に対する冒涜であり、なんと罪深いことであろうか。

 従って、パウロは聖餐式に加わる前に、ひとりひとりが自分を吟味しなさいと教えている。

 しかし自分で自分を吟味するのた易いことでは無い。そのためには、御ことばの鏡によって自分の心を探っていただき、また、自分をまっすぐに批判してくれる良き友を持ち、その批判を柔らかな心で受け止めることが必要であろう。

 そうして、全てを神の御前に行うという、聖餐式に臨むときと同じ心のあり方を持って日々の仕事にあたろう。

教訓:自分の中にクリスチャンとして聖餐式に加わるのに
ふさわしくない心や行いが無いか、今一度吟味しよう。


導入

 先週ナザレ会の会合に顔を出しましたところ、メッセージにOHPを使って下さいとの注文をいただきまして、それに対して私はそうすることをお約束しましたので、今日は手書きのOHPを準備してまいりました。下手な絵が入っておりますが、今日はこれを用いながらお話したいと思います。(OHPの絵が映し出されると、笑いが起こる)えー、まあ、下手な絵でも皆さんの目を覚ます効果はあるのかなと考えております。

 さて、コリント教会では沢山の具体的な問題を抱えておりました。その問題は私達の時代とは具体的には少しずつ違うわけですが、その問題をどのように考え、どのように処理していくかについてのパウロの薦めが私達に非常に大切にあてはまるわけです。

 前回は女性のかぶりものに関連して、「ふさわしさ」の問題についてお話致しました。

 今日の問題は、17節以降に述べられておりますが、簡単に申しますとコリントの教会の中での公の集会、例えば礼拝やその他の集会の中にいろいろな無秩序なことが発生していたということです。


A)コリント教会の問題

1. 分裂・分派の問題

 第一の問題は教会の中に分裂・分派があったということです。教会の中にいつの間にかパウロ派、アポロ派、ペテロ派、無派閥派などのいろいろな派閥ができてしまったのです。この問題につきましては、第1章や第3章でも述べられており、既にとりあげましたので、本日は詳しく述べることはいたしません。

本日の聖書の箇所を順に見ていきましょう。

17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。

18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。

19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

ここでパウロが言っているのは、本当の意味での教会が起こされていく過程においては、やむを得ない意見の相違による分派というのはある程度避けられないものだ、と容認しています。しかし、それは感情的な意味での対立であってはなりません


2. 無秩序な聖餐式の問題

 問題は、その分裂が聖餐式にも悪影響を及ぼしていたということです。その様子が20節から22節に述べられています。

20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。

21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。

22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

 コリント教会の聖餐式では、あるグループの人達が早めにやって来て、備えられたものを全て食べてしまいました。どんな人達だったでしょうか?それはお金持ちの人達です。彼らはそんなに仕事をしなくてもよかったので、早めに教会に来ることができたのです。一方、労働者階級の人達が汗水たらして働いて、やっと仕事を終えて教会にやって来たら、テーブルの上は空だったといわけです。その時、先に来た人達は満腹で、酒に酔っている者さえいたというのです。

 その様子は、このOHPに見事に(?!)描かれております。(笑)

そして、パウロはこのようなことがあってはならない、と叱っております。


B)聖餐式の6つの目的

 次に、23節から26節でパウロは聖餐式の本当の目的について語っております。

23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。

26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

この箇所から聖餐式の6つの目的を知ることができます。

1. 記念
 第一に主の十字架の死を、感謝をもって思い出すことです。

2. 新しい契約の再確認
 二番目に、新しい契約を再確認するという意味があります。
 旧い契約はモーセに与えられたものでしたが、それは「行い」による救いであり、救われるためには「努力」して与えられた戒めを守ることが必要でした。
 しかし新しい契約は、イエス・キリストが十字架にかかって救いの道を開いてくださった、そのことを受け入れることによって、私達の心が造り変えられ、聖められ、そして神を喜ぶ生活に入ることができるとうものです。
 旧い契約は「努力」と「行い」によって救われること、しかし新しい契約は「信仰」によって救われること、そのことをもう一度確認をすることが聖餐式に臨む第二の意味合いであります。

3. 再臨の待望
 三番目には、「主(イエス・キリスト)が来られるまで」と書かれています。「来られるまで」ということは、私達はこの儀式をずーっと、永遠に行うわけではなくて、主イエス様がもう一度来られる時には終わるのです。ですから、この儀式をしながらも、「主よ、もう一度来て、世界を全部新しくして、最終的な栄光ある秩序を戻してください。」との祈りを込め、またその希望を新たにしつつ私達クリスチャンは聖餐式に臨むのであります。

4. キリストとの合一
 四番めにはキリストと一緒になるということです。飲むという行為、また食べるという行為は、そのものが私達の体の一部分になるということですね。つまり、これは象徴的な意味なので、誤解しないでいただきたいのですが、キリストの血を飲むということです。
初代教会の人達はこのことをあまり言いすぎたために、ローマの皇帝に誤解をされて、クリスチャン達は人の生き血を飲む非常に不潔なやからであるということで迫害をされましたので、表現のし方は注意しなければなりませんが、象徴的な意味で、イエス・キリストの血を飲み、イエス・キリストの体を表すパンを食べることによって、私はイエス様と一つになりますという信仰を表しているのです。

5. 兄弟姉妹達との合一

 第5番目には、そのことは兄弟姉妹達との一体性をも表しております。

 私達の教会では、先週行いましたように、食べやすいように小さく切ったパンをお配りしておりますが、私は、理想的には誰かに大きなパンを焼いていただいて、それを少しづつちぎって食べる方が、聖餐式の意味を表すにはふさわしいと思っております。いつかはそのようにしたいと思っていますが、その場合には少し注意が必要でありまして、最初の人がガバッと取ってしまうと最後の人の分が無くなってしまうことがあります。(笑)

 杯にしても同様です。私が過去に出席したいくつかの教会では、皆が一つの杯から飲んでおりました。そういう集会に出るときには、なるべく私は最初の方に出ていって、最後の方にならないように努力をしました。(笑)あまり衛生的なことを考えてはいけないのですが。

 しかし、一つの杯から飲み、一つのパンからいただく、そのことは、私達はキリストにあって皆が兄弟姉妹であるということを象徴的に言い表しているのであります。

6. 主の死の宣証

 6番目、それは主の死を宣証する、述べ伝える、告げ知らせるということです。英語ではProclaimという言葉が使われております。

 もし、この聖餐式に未信者の方がおられたならば、イエス様の十字架とはこんなにすばらしいものですよ、ということを象徴を通して多くの方に教えることができます。

 こうした沢山の意味を持ったものが聖餐式なのだということを、ここで覚えていただきたいと思います。パウロはここで「ルカの福音書」の言葉をほとんどそのまま引用してそれを語っています。


C)最後の勧告

 「ですから」と、27節以降は以上のことにもとづいて、具体的な勧告になってまいります。

28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

 もし私達が、こんなに意義深い聖餐式に、普段ふさわしくない生活をしながらそれに対する反省も吟味も何もしないでやって来て、しかもふさわしくないいい加減で不敬虔な態度でそれに臨んだとしたら、どんなに大きな裁きを神様から受けなければならないだろうか、とここでパウロは語っております。

 つまりあなたがたはその裁きを既に受けているでしょうと語っているのです。あなた方の中には体の弱い人もいるし、死んだ人もいるし、と書いてあるのですが、この部分はどのように説明したら良いのか、私にはよくわかりませんが、ある人はこれを、彼らがこうしたでたらめな生活をし、暴飲暴食をしたために命を縮めてしまったのだと解釈しております。それが正しいかどうかわかりませんが、神がそのことを喜ばないで、なんらかの警告を、目に見える形で行ったということはうかがうことができます。

 私達は神に対する不敬虔が大きな罪であることを、真剣に覚えなければなりません。私は小さいころ、お祈りの最中にふざけたりして、神様に対していい加減な態度をとると、ひどく怒られた経験がありますが、不敬虔=神様をおそれないということがどんなに大きな罪であるかということを、私達は自ら認識し、またこれからの世代にも伝えていかねばならないと思います。

 パウロはそのことを聖餐ということを通して語っているわけです。


本論

1. 自己吟味

 まずパウロは28節で、よく自己を吟味しなさいと語っています。

28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

 先週の聖餐式で私達はパンをいただいたときに、すぐに食べることをせずに、しばし時間を置きました。それは、私達の心をイエス様の救いにふさわしいものとして整えて下さい、と吟味をする時間が必要だからです。

 今日はこの「吟味」という言葉に焦点をあてたいと思います。

 「吟味」は、ギリシャのもともとの言葉では「ドキマゾー」という言葉です。この言葉はもともとの意味は「火によって確かめられる、火によって試される」ということだそうです。ある金属が本物の鉱石を含んでいるかどうかを調べるために、熱い火を通して純粋な金や銀を溶かし出すように、熱い火を通して本物であるか偽者であるかを試し、偽者を全て焼き尽くしてしまうという意味がもともとの言葉にあるそうです。

 聖書の中にいくつかこの言葉が出てまいります。

 第气Rリント3:13には、「この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」と火を通して真価を試すという意味で同じ言葉が使われております。

 第コリント13:5には、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」と使われております。あたりまえではないか、私は信仰に立っていますとおっしゃられるかもしれませんが、ここでは、大きな問題や予想もしていなかったようなできごとにぶつかったときに自分がどのような反応をするか、本当に信仰に立っているか吟味をしなさいと言っています。

 エペソ5:10には、「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」と神に喜ばれることが何であるかをよくわきまえなさいという意味でこの言葉が使われております。

 ガラテヤ6:4には、「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。」とあります。これは人に忠告をしたときには、その後に自分も同じようなことをしていないか、よく調べなさいという意味で使われています。

 第气eサロニケ2:4には、「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」と、今度は神様が心を調べなさるという意味で同じ動詞が使われております。

 まとめて言いますと、何が正しくて何が正しくないかを見極める、弁別・吟味・審査を注意深くすること、それは自分の力ではなくて、神の恵みによってなされるのだということを教えられます。

 自分自身を吟味しなさいと語られているときに、私達はこの吟味をする時をしっかりと持たせていただきたいと思います。


2. 告白と信仰

 それでは吟味するのは、どういうことにおいてなのかについて具体例を挙げたいと思います。

 私達の心の中に、未だ言い表していない罪を持ちながら、まあいいだろう、忘却の彼方に置いてしまえばかまわないだろう、というようなものがあるとするならば、それは吟味の対象となります。神様は全ての罪を言い表して赦しをいただくことを望んでおられます。

 いい加減にしてしまった罪は無いか、動機は正しかったかもしれないが自分の言葉が人を傷つけてしまったことは無いであろうか、あるいは自分は正しいと信じているけれどもある人との間に和解が無くて、道で会っても挨拶もできないような関係を持っていないでしょうか。イエス様はあなた方が悪いときだけでなく、あなた方が正しいにもかかわらず、その相手があたなに対して何か心の中に抱いているときには、その人のところに行って和解をしなさいとおっしゃいました。

 このように広げていくと自己吟味の対象は際限無く広がっていき、大変かもしれませんが、私達はそうしたひとつひとつの日常生活における行い、言葉、心の思いにおいて、私達がふさわしくないものを持っていたときに、それを言い表す柔らかい心を持ちたいと思います。

 詩篇19:12には「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」と詩篇19章を締めくくっております。その前の部分には「どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。」とあります。

 ある方は「私は聖めの信仰に立っている。」とおっしゃるでしょう。聖めの信仰とは全きことなので悔い改める必要が無いと言えるでしょうか?私はそうは思いません。聖めの信仰に立っている人はともっと柔らかい心をもって悔い改めることができる人だと思います。より良心が鋭敏になり、私達が持って生まれた性格の中でクリスチャンとしてふさわしくないところにまで光をあてていただいて、変えていただくことのできる柔らかさが、本当の聖めの信仰であると信じます。

 この絵はレントゲン写真で私達の心を映しているところを描いたつもりであります。本来は説明をしなくてもわかるのが絵なのですが。(笑)

 自己吟味をしてもなかなか自分だけでは本当のことはわからないものです。例は悪いですが、口臭というのは自分にはわからないですね。それは鼻がいやな匂いに慣れてしまっているからです。

 ですから私達が自己を吟味するときに外側の助けが必要となります。


 第一に「御ことばのかがみ」というものが必要です。御ことばをとおして、私達は自分達の心を吟味していただくことができます。どうぞ聖書を読む時間をもう少し長くして、もう少しじっと若い女性が鏡を見るようにしっかりと鏡を見てください。聖書を読むときに、励まさ、元気の出るような御ことばばかりを捜すのも悪くは無いのですが、第テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と書かれていますように、聖書は私達の心を正していただくために益があるのです。どうか今週は聖書を読むとき少し時間をかけて、そのみことばに留まって、心を照らしていただき、試していただきたいのです。

 また、お祈りにおいても、「あれを下さい、これを祝してください…」という乞食のような祈りに終始することなく、祈りによって神様に自分の心を探っていただき、正していただきたいと思います。


 もう一つ申し上げたいのは信仰の友を持つということです。それもなるべく辛口で批評してくれる友を持つということです。私達は普通はほめてくれる人の方がうれしですよね。しかし、ときどき間違いを辛口にズバッと批評してくれる人が宝物のようにいらっしゃいます。それが一番大切な友なのです。

 人に悪いところを見つけたならば、その人に面と向かっていいなさいというのが聖書が語っているところです。それは日本の文化でないという言い訳はしないで下さい。アメリカの人達でもまっすぐにものを言うように思われていますが、私の経験では案外間接的に言うものです。つまりこれは人間の文化なのです。

 自分の悪いところ足りないところを遠慮無く教えてくれるような友達を積極的に作っていただきたいと思います。きれいごとばかり言っているなら、こうして教会に集まってくる意味は無いのです。

 自分で自分を吟味するのは大変に難しく、どうしても点数が甘くなります。そこでそのような外側の助けを得て、自分を吟味したいものです。


 それでは、残りの部分を見ていきましょう。31節と32節は少し解釈が難しいので説明が必要でしょう。

31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

 はっきり言いますと神様から裁きをいただく前に自分で自分を裁いてしまいなさい罪を認めてごめんなさいをしてしまいなさいということです。そうすれは神様が罰を与えようにも与えようが無いということです。

32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 これは、もし私達が今裁かれているとしても、それは最終的に世の罪に裁かれないための神の恵みなのだと受けとめなさいということです。


3. 正しい態度で聖餐式を守ろう

 最後にパウロは具体的な提案をしております。

1) 家々で待ち合わせなさい。(33節)
2) 夕食はその家々で済ませてしまいなさい。(34節)

 つまり、空腹を満たすための食事と聖餐式とを一緒にしないようにということです。


結論

 今日は28節の御ことばを私達にあてはめて終わりたいと思います。

28 ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

 今日は聖餐式ではないのに、何故聖餐式なのでしょうか。ブラザー・ローレンスという人はこう言いました。「私はどんな仕事のときもその仕事を聖餐式と思ってその仕事にあたっています。」と。彼は台所で皿洗いをしていた人ですが、「一時に沢山の仕事を申し付けられて心が乱されそうになったときにも、私は聖餐式の座に跪いたときと同様に、大いなる平安の中、私は神に所有されている。」という経験を語っています。

 つまり私達が会社で仕事をするときも、台所でお皿を洗うときも、全てのことを神の御前に行うという心の姿を持って行うときに、それは聖餐式なのです。そのような心を持って今週も歩ませていただきましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。


Editied and written by T. Maeda on 990704