礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年7月18日

第1コリント書連講(28)

「『体の肢』としてのつとめ」

竿代 照夫 牧師

第1コリント書12章12〜31節

中心聖句

26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

(26節)

アウトライン:

1. 教会は人間の体にたとえることができる。賜物、出身、身分などの違いをこえて、一つである。
そして、その一体性を保証するのは聖霊である。

2. 肢同士が互いに尽くさなければならないのは、
(1) 互いに僻まず、自分の価値を認めること
(2) 互いに尊敬し、傲慢にならないこと。
(3) 互いに助け合うこと。

3. しかし、.現実には共に苦しむことより、共に喜ぶことが難しい。もし、喜ぶことを妨げるものがあるなら、それは自己中心であり、傲慢である。それを砕いていただくとするなら、イエス・キリストがつかれた十字架を仰ぐことだけである。

教訓:教会の器官としての信徒の一致


導入

コリントの第12章をお開きいたします。

今、私たちは、このコリントから ,第1章から学んでいることですが、格別にこの数週間は、コリントの教会におけるさまざまな問題、あってはならないような問題、しかしその問題をどのように解決するかという指針を通して、私たちに大切な、生きていくための糧、あるいは、教会におけるところの方針、そうしたものがその中ににしっかりと記されておりますのでここで学びたいと思うわけでございます。

先週は、私たちは、「聖霊の賜物」というものが一人一人に違った形で与えられている、そして、結論的に私が申し上げたことは、おのおのの違いを感謝しようということでございました。

ともすると、ある賜物を持った人が脚光を浴びて、自慢をしてしまったり、あるいは、大きな賜物を持たないためにひがんで知ったりというようなことがコリントの教会の中に実際に起きていたわけであります。

パウロはそれに対する警告を与えて、「おのおのが違う賜物を与えられたんだから、その違いのゆえに感謝をして、一つ心を持って進もうではないか」と、ここですすめているわけでございます。

きょうは、第12節以降にもうすこし進みまして、一つの体の「肢(えだ)」として私たちがしなければならないこと、心がけなければならないこと、それに焦点を合わせたいと思います。


1.教会は一つの体である

前回はOHPをずっと続けていましたので、目が痛くなった方があるようですので、フラッシュのようにちょっとだけお見せします。別にけちでやるわけじゃありませんけども、よく見ていただいて、また止めてお話をいたしますから、どうぞ、下手な絵ですけども、我慢してお付合いいただきたいと思います。

それでは第1の絵ですが、教会は一つの体であるということです。言うまでもない体です(OHP1参照)。そして、その体には多くの肢(えだ)があって、たくさんの人々から成り立っている、そして、その一体性を保証するものが聖霊であるということについて、12節と13節に記されております。

つまり、教会は、人体のようにたとえられ、一体、有機体である、私たちには、賜物の違い、あるいは出身の違い、社会における身分の違い、それは存在する、けれども、それを乗り越えて、私たちは、一つとなっているものである、ボンドで一つとぎゅっとくっつけられているように、私たちはみんな一つなんだ、ということを一つ覚えたいと思います。

何のボンドでいっしょなんだろうか、そこで、文房具やさんで売っているような即席ボンドでもありませんで、あるいは糊(のり)のようなものでもなくて、私たちをひとつに結びつけるものは、聖霊御自身の臨在が一人一人の魂の中にあるという事実でございます。

で、しばらく前に、教会成長運動というものが提唱されました。「教会はもっと成長しなければいらない」、それは確かです。「神は教会が成長することを望んでおられる」、それも確かです。けれども、その中で、ひとつだけ賛成することのできない理論がございました。

それは、英語ではhomogeneous unit principle(ホモジェネラス・ユニット・プリンシプル)というものでございまして、教会の同質性というものです。

この理論に従いますと、教会というものは、その中に入ると、同じようなタイプの人々、同じような社会層の人々、同じ人種の人々が集まると、その中で安心することができる、そして、そのなかで本当の交わりができる、で、そういうタイプの人々がどんどんそれに加わって教会が成長して行くんだ、というのが、いま申し上げました、homogeneous unit principle(ホモジェネラス・ユニット・プリンシプル)と呼ばれるものです。

かなりの教会成長論者がそれを信じて、そういうふうにいたしました。確かに、効率という面から言いますならば、そのプリンシプルはある意味であたっております。けれども、聖書の、私たちに語っているメッセージとは、私は、離れていると思って、それには、100パーセント賛成することができませんでした。いま、そのプリンシプルが誤りであるということが、多くの人々によって認められつつある事は感謝です。

教会の本当のよさは何にあるかといいますならば、いろいろな種類の人々、いろいろな人種の人々、社会層の人々、つまり、もうすこし詳しく言いますならば、お金持ちもいるかもしれない、その日その日やっと食べていけるような人がいるかもしれない。あるいは、私のような大和民族がいるかもしれません。あるいはそうではない民族があるかもしれません。色が茶色であったり、白かったり、赤かったり、緑はないかもしれませんけれども、いろいろな人たち。それが、なんの隔たりも感じないで、ちょうど、何と言ったらいいでしょうか、戦争中にありました、あの雑炊のようであります。

男性もあるかもしれません、女性もあるかもしれません、若い人がいるでしょう、あるいはお年を召した方もあるでしょう、子供がいることでしょう。それから、こういう趣味を持った人がいるかもしれません、別な趣味を持った人がいるかも知れません、巨人ファンがいるかもしれない、中日ファンがいるかもしれない、そう言うことをもし論じたならば、喧嘩になってしまうかもしれません。あるいは、趣味としてゴルフが好きな人があるかもしれませんし、サッカーの好きな人があるかもしれません、いろいろな違った人たちがみんな一箇所に集まって、しかも違和感を感じないで、兄弟姉妹でいられる場所、それが教会なのです。

私は、この、絶対に大切なプリンシプルというもの、原則というものを譲ってはならない、効率という名前ににおいて譲ってはならないと思います。それが非効率に見えても、私たちは、全部違ったタイプの人たちが集まって、その中で一つとなることができる、そこに神の御業(みわざ)があると思います。


で、先ほど申し上げましたように、その一体性というものを保証するものは何であるかと申しますならば、それは、一人一人に与えられた御霊であると、聖書は語っています。

第13節をお読みします。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も」

−ここでユダヤ人もギリシヤ人と言っておりますが、つまり、人種にかかわりなく−、「奴隷も自由人も」、私たちは、この言葉を簡単に見過ごしてしまうとおもいますけれども、当時の人にとって、奴隷と自由人が一緒になるということは大変なことだったのです。

いまでも、一番、社会制度の厳しい差別が行なわれている社会は、私はインドであると思います。彼らの中にあるカースト制度というものによって、一つだけでも社会階層が違うと口もきけないし、あるいは、触ることもできないし、あるいは物を共有することもできないし、同じ場所にくることもできない。伺った話ですけれども、お医者さんも触ることはできませんから、かわりの人に触診してもらったり、距離をおいて触る。

しかし、教会というところは、奴隷も自由人もない。ですから、当時の人たちにとっては、革命的な思想であったのです。みんながいっしょになって、社長さんがいるかも知れない、従業員の一番ひらの人たちがいるかもしれない、全部が一つになって、兄弟姉妹として、何の分け隔てもなく集まることができる教会、そして、その「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者」となった、私たちは御霊をこの口からがぶっと飲んだわけではございませんけれども、私たちが、御霊によって生まれ変わるときに聖霊が私たちの心に宿り、そして私たちを導き支配してくださるところの生きた神の臨在がここに現れるのです。

まだ、イエス・キリストの救いに預かっていらっしゃらない方もこの中にはあられるかもしれません。その方に向かって、イエス様はなんとおっしゃったでしょうか。 ニコデモに対して、「あなたは、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできませんよ」と語られたんです。

ニコデモという人は非常に宗教的な人でした。そして、まじめな人でもありました。聖書をよく勉強している人でもありました。お金持ちでもありました。人々に、すばらしい人生の真理を教える教師でもありました。けれども、主イエスは、このニコデモに対して「あなたはそのままでは神の国に入ることはできない。によって生まれ変わらなければならない」と語ったのです。

「えーっ」と彼はびっくりしまして、「そんな、生まれ変わるなんてどう言うことですか?お母さんのおなかにもう一度入って、おぎゃーと入ることですか?」と馬鹿な質問をしてしまいました。

彼自身が相当な年であったんですから、お母さんがいたら、もう相当腰が曲がっていたと思うんですけれども、そのときに、「そう言うことを私は言っているのではない、水と霊」―水ということは、バプテスマの象徴ですが、過去の罪がまったく赦されるということです。霊ということは、聖霊が彼の心に宿るということです。このことは、イエス・キリストを救い主として信じ、罪を悔い改めるという、たったこの2つのステップによって始まるのです。

そして、そのことを真実になしたときに、すべてのクリスチャンは、心の中に聖霊様を宿すものとなることができる、その聖霊によって私たちは神を賛美し、神を愛し、神に従い、人々を愛することができる、聖霊によって神の愛があなた方のうちにそそがれているのですと、パウロはローマ書で語っています。

どうぞ、そのステップをしっかりと踏んでいただきたいとと思います。そして、それをもう踏んだ方々は、私たちが、一人一人が共通項というものを持っているんだということお互いに認め合いたいと思います。どんなにクリスチャン同士で「この人は"うま"が合わないな」と思うような人があったとしましても、しかし、共通のものがある、それは、彼のうちに、私のうちに宿っている御霊だ、彼のうちに宿っている御霊と、私のうちに宿っている御霊は違うんだというようなことは絶対にありません。同じ御霊が宿っているんです。

もっとたとえて言いますならば、自動車のスタイルは違っていても、ある会社から作られた自動車は同じエンジンを持っていますね。私たちはみな同じエンジンを持っているんです。スタイルは違うかもしれない、そのすばらしいエンジンをお互いに認め合うこと、それが教会の一致の大切な原則でございます。


2.肢(えだ)としての関係

その原則を認めた上で、私たちは、お互いに、違いを認め合い、尊敬しあう務めが体の「肢(えだ)」としてあたえられているということでございます。最初に、14節から20節までを少し飛び読みいたしまして、それから絵をちょっと紹介いたします。

14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官からなっています。
15 たとい、足が、「私は手でないから、からだに属さない。」といったところで、そんなことで体に属くさなくなるわけではありません。
16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」といったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、体の中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20 しかしこういうわけで、器官は多くありませんが、からだは一つなのです。

19と20は全部の器官が一つの体ではないということをあらわしております。

ちょっと、2番目の絵を見せてください((OHP2)。ここで、こにお読みました長い節をぎゅっと一つにまとめてみますならば、そこに、お互いに僻(ひが)まないこと、あるいは、自分の価値もしっかりと認めるということであります。

足が、「私はいつもすりこぎのように使われている。50kg、60kgの体重を支えて毎日毎日あるいていると、もうくたびれた。手を見てご覧。華やかでいいじゃありませんか。いろんな仕事をして、みんなから脚光を浴びている。私はもうとてもうだめだ、くたびれた。もうすれきれてしまった。もう、私は手ではないからグッドバイ」といって体から離れてしまうことがあるだろうか。そんなことはないだろう。

逆に、もっと突き詰めていって、体じゅうが−これ(OHP2の絵)はのつもりなんですけれども(笑)−目ばっかりの体があったとするならば、それはお化けのような存在ではないだろうか、これを聞いたコリントの人たちは吹き出してしまったと思いますけれども、みなさんは吹き出さないで大変静かにしてらしゃるわけですけれども、皆さんの体が頭からつま先までみんな目であったならば気持ち悪いですね。

ここでパウロが何を言おうとしているかといいますならば、優れた賜物を持っている人を見て、「ああ、あの人は羨ましいなあ」あるいは、「あの人のようになりたいなあ」そして、それがだめなら「自分は教会ではいらない存在だなあ」と自己卑下してしまったり、羨んだり、そういうことを考えてはいけない、それぞれ、神は違った役割、賜物、部署ということを備えておられるのだ、違っていてよいのだ−これは先週のメッセージでもございましたけれども−、違いをみて僻んだり、落ち込んだりしないで、違いを感謝しよう、18節をもう一度読みますと、「このとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださった」、これは神のみこころにしたがっているんだ、私がいま私であるのは、神のみ心のゆえなんだということです。

先ほど歌を歌いました、「ばら(薔薇)はばらのように」、とても私大好きなんです。とくに、「わしはわしのように」、この「わし」って、2つの意味があるのかななんて思いながら(笑)、飛んでいる鷲とこのわし(と牧者自身を指差す)と一緒に。私は私でいいんだ、というこれは大切な真理です。

ある意味では、自分がこうであってはいけないという面もあります。私たちが、神様の光に従って、「それがいけないんだ」と示されたときには、「それでいいんだ」と開き直ってはいけないんですけれども。

顔の作りとか、背丈とか、どうにもなりませんですね。がんばってもそんなに伸びるものではありません。私たちのIQであるとか、性格であるとか、これは私なんです。誰も変わることができない私であります。

その私であるということは、神のみこころに従ってそうなっています。「お母さんが悪い」、「遺伝子の組み合わせがちょっとまずかったから、こうなってしまったんだ」とかではなく、神様がみこころに従って、備えて下さった。これは、適当な場所にはめてくださったという意味なのです。

つまり、「適材適所」としてはめていてくださる、神様は、この社会にあって、あなたを、「この場所に最もふさわしい存在ですよ」といってはめてくださっている。教会の中でもそうです。「あなたは、教会の中で、こんな存在ですよ」といってはめていてくださる。家庭の中でも、はめていてくださる。

たとえて言いますならば、神様は、ちょうど、サッカーの監督のようなものです。サッカーの監督は、一人一人の適性をちゃんと見ぬいて、そして、「ああ、この人は足が速いから、そして、人々の間をすり抜けるのが上手だからフォワードにしよう」「この人は判断が上手でボールをうまくまわすのが上手だからミッドフィールダーにしよう」「この人は壁のように頑丈だからバックスにしよう」というふうにしたり、「このひとは機敏でどんな玉を受けても打たれ強い人だからゴールキーパーにしよう」とか、ちゃんと適材適所で場所を決めなさり、私たちをこの世に造り、場所にはめてくださったのは神御自身なのだということを、私たちは自分自身に対比て誇りをもたせていただきたい。

絶対に「私はあの人のようでない」と僻んではいけないのです。これが、第一にパウロが「"私は手ではないから体ではない。さよならしたい""もうこの教会にいる場所がないからさよならします"、といってはいけないところですよ」とパウロが語っているところであります。


次の文節は、もう少し違った文節を語っています。21節から24節まで読みます。

21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」ということはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23 また、私たちは、体の中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、わたしたちの見栄えのしない器官は、ことさらによい格好になりますが、
24 格好のよい器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさら仁尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

こんどは、自分をどうみるかもう一歩進んで、人をどう見るかそのときに他の人を尊ぶように、尊敬するように、ちょうど神様は自分に尊い価値を与えられた、だから僻んだり、威張ったりする必要がないように、他の人を見る目も、他の人を蔑んだりする必要はない、してはならない、「尊びなさい」とあります。

ここで3つのことが書かれています。「比較的に弱い」「尊くない」「見栄えのしない」と3つありますが、パウロは少しづつニュアンスを変えて別々なことを語っているようであります。

比較的に弱い」は、ある注釈者は、これは内臓のことを言っているんではないだろうか、そして、「その中でも、格別に不要器官というのを習ったことがあります。中学生の理化の時間に、「人間の中には、ずっと進化が進んでいるんだけれども、その進化しきれない部分というのがあるんだ」と理科の先生がもっともらしく教えてくれました。そして、「その痕跡器官などというのが盲腸で、典型的なものだ、あれは人間が進化していけば消えていく」そして、私たちの目には、瞬膜というものがあるそうですが、動物が水の中に住んでいたときに必要だったが、今は目の端っこのほうにある」とか教えてくれました。

教えてくれるだけなら良いのですが、意地悪い先生で、「みなの中にクリスチャンはいるか?」と聞くんですね(笑)。「はい」と手を上げましたら「おまえ、神が人間を作ったなんて馬鹿なことを信じているのか」とみんなの中で馬鹿にしましたね(笑}。うらんでいませんけども、親切にしてくれたとは思っていません。

しかし、痕跡器官だと不要器官と思われるようなものでも、医学が進んできますと、やはり盲腸は必要なんだと、私が聞いた話では、パイロット試験を受けるときに盲腸がないと採用されないのだと聞きました。体の平衡を保つために必要なのだそうであります。

私たちが、「あんなものはいらない」と思うような器官であってもよく調べてみると必要なんですね。ですから、「あの人は必要ない」、とか、「あんな人は邪魔だからいなくなってしまえばいい」とかそういうようなことを私たちは兄弟姉妹同士でかりそめにも考えてはいけません


第3番目の絵をちょっと見せていただきたいと思いますけれども(OHP3)、それが弱いと見られる器官です。比較的「尊ばれない」「尊くない」というのは、ある注釈者はそのまま言いますと、それは、講壇であまり言ってははいけないようなものが出てくるような器官、そこには、むしろ、洋服をまとって、きれいに保つ、目立たないところには目立たないようにする、つまり、そこで洋服という思想ができたのです。そひて、目立つような手とかはそのまま剥き出しでもかまわない、これども、あまり尊くないところ・弱いところ、目立たないところは目立つようにして洋服をわたしたちは着ている。

このようにして、体全体がバランスよく見られるようになり、さらに「ウエスレアン注解」はもうひとつ進んで、私たちがこういう思想をよく知っていたならば、最近はやっているような、夏になると女性の方々が、だんだんと着物を着ける、布の面積を狭くするような着物を着るのはおかしいとちゃんと書いてありました(笑)。御免ください、それは「ウエスレアン注解」に書いてありました(笑)。

つまり、私たちはバランスをよく見て、そしてお互いを尊敬しあうようなものだ、わたしたちは、お互いに「この人は邪魔だ」とか「このひとはいらない」とか、という思想はキリストの思想ではない、さらに「自分がこれだけ優れている。見なさい」という思想もキリストの思想ではないということもしっかり覚えさせていただきたいと思います。


最後の部分、25・26節です。


25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いに労り合うためです。

いたわりあう」というのは「かわいそう」といって労り合う感じですが、もうすこし広い意味で、英語の聖書では、care−ケアー-といっています。つまり、「省みる(かえりみる)」」とか、「面倒を見る」ということです。ですから、お互いがお互いをCARE−ケアー−する、しかも、英語の聖書見ていて面白いと思ったのは、"equally−イクオリー−"(等しく)という単語があり、この言葉は日本語の聖書にはないなあ、各部分が"equally−イクオリー−にcare−ケアー−するためであるといくことです。つまり、「私はあの人が好きだからcare−ケアー−する」「あの人が気に入ったからからcare−ケアー−する」「私にお礼を言ってくれるから何かよい事をする」大体人間のケアーは人情によるものです。「こんにちは」といっても「ふん」といってほおって置くような傾向がございます。

それから、「なんとなくあの顔つきが気に食わない」とか「態度が気に食わない、ほっとけ」という傾向がございますが、あれ、おもしろいなあ、英語の聖書では、"equally−イクオリー−にcare−ケアー−しなさいとあります。

「あのひとはよく知らない」「あの人はあまり気にいったタイプではない」「あのほとは挨拶しても返事しそうもない」、けれども、"equally−イクオリー−にcare−ケアー−しなさいと書いてあるんです。

牧師が一生懸命になってケアーしなさい、信者はケアーされなさい、とは書いてないんです。「互いにケアーし合いなさい、しかもイクオリーに」、いいメッセージだと思いませんか。教会とはそういうところです。そして、教会の中ではたらく原則は、社会でも働かなければならないし、家庭のなかででもノンクリスチャンがいたとしても働かなければならない原則だと思います。


今日は、格別に26節のお言葉に目を向けて、記憶をして終わりたいと思います。
26節をご一緒に読んでいただきたい思います。(OHP4)

26 「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、 もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」

これは、ずっと読んできた長い文節の最期のの集約部分だと思います。ですから、できればこの言葉を暗記して帰っていただきたいのです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、 もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」もし一つの部分が、仮に指さきが怪我をしたとするならば、「痛いのはおまえだけだろう、我慢せい」と言わないわけですね。

私たちは、指先に大きな怪我を負ったならば 体全体がうずきます。それから、もし私たちの指先がこれは指輪のつもりで書いたんですが(OHP4)、絵を説明しなければいけないのは少しは図解しいのですが(笑)、指輪です。もし指輪が栄光に輝いたとするならば、いかがでしょうか、その指輪だけが、あるいはその指輪をさしている指だけが嬉しいのでしょうか。栄誉を受けるのでしょうか。

そうではないです。指輪をさしていただいているということで、もし傷ついているならば、体全体が、メンバーの一人が全体がともに傷つき、メンバーの一人がもし誉れを受けるならば、みんなが心から喜ぶこれが本当の教会の一体性で、私はここに今日は焦点を絞りたい。それが本当の兄弟姉妹のあり方です。

これは麗しいことです。私たちもが、教会が教会として集まってくる意味なんです。もしそうでなければ、こうした近代文明の進んでいる時代ですから、わざわざ電車に乗って、あるいは、自動車に乗って、遠い距離いらっしゃらなくてもかまわないんです。家々で礼拝すればいいい、そこに神様がいらっしゃるのですから。メッセージが聞きたければ、ラジオがあります。テレビがあります。今は、インタ−ネットで私たちのメッセージもさせていただいております。そのうちに、インターネットでわたしの声もOHPも全部移る時代が来るでしょう。ですから、正装してくる必要もないから、寝巻きのままでもいい、インターネットに接続して、そして「ご起立ください」といえば、その場で起立して歌って、加わればいいわけでしょう?{笑}何で、私たちは、この一箇所に集まってくるのでしょうか?それは、兄弟姉妹として、互いに労り、互いに省み、 互いに喜び、共に苦しむためなんです。


私たちはその事をするために、大切なことと、そのことを妨げている要素と、2つに焦点を絞って終わりたいと思います。積極的に進めるためには、私たちはもっと心をオープンにしなければならない、ということです。よろいとかぶとと裃を着て、教会にいらっしゃって裃を着たまま集会に出て、裃を脱がないで教会に出て、家に帰って「やれやれ」と裃を脱ぐようでは、本当の教会ではないんですね。

教会は裃を脱ぐ場所です。そして、私たちが一週間経験した喜び、悲しみ、苦しみ、戦い、それらを包み隠さず、兄弟姉妹にお話をして、「私はこういう戦いをしているんだけれども本当に苦しいんだ。祈ってくれないか?」といって、そして、祈る友を見つけて、一緒に祈ること。共に喜ぶこと。「こんなことをいったら自慢していると思われるんじゃないか」と変な遠慮をしないで、「私はうれしくてたまりません。感謝です」といってもみんなと一緒に感謝する場所、それが教会なのです。どうぞ、いろんな思惑を捨てて「私はこういう課題を出したならば、こういうふうに思われはしないだろうか噂をされないだろうか」というのを思惑を全部捨てて、ありのままの姿で兄弟姉妹と接する場所、それが教会なのです。

どうぞ、集会と集会の合間、残念ながら少し忙しいんですが、きょうは少し説教を早く終わりますから{笑}、その合間をできるだけ作りたいと思いますから、どうぞ、共に祈る友をみつけて、「共に祈ろう」という祈りあいというのがもっともっと生まれてきてほしいのです。

それから、各組会で証をすることでしょう。そのときにも、飾らないで、証をすることが大切ではないでしょうか。祈祷会とはそう言う場所です。ありのままの姿が打ち明けられ、それが人々の噂になったり、あるいは何かになるということではなく、真実な意味において重荷となり、喜びとなり、祈りとなるような風いきの教会を、私たちは一人一人努力して積極的に作らなければならないと思います。

もう一つ、今度は反対の側で申し上げたい。それをさまたげる要素があるとするならば、私は一言でもうしあげるとするならば、「自己中心」ということです。もし、「自己中心」という大きな塊(かたまり)が私たちの心の中にありますと、人とともに悲しみ、人ともに喜ぶことを妨げてしまいます。

自分さえよければ、という考えにたちますならば、お互いに無関心であります。「あることができます.あ、あれはあの人の問題」さらにもっといいますならば「あの人はああ言う種をまいていたから当然苦しんで…」なんてついでに裁いてしまったりします。

そうではないはずですね。私たちが、もし、無関心という壁を打ち破って、本当に兄弟姉妹として省み会うためには、神様にその部分を砕いていただいて、本当に兄弟姉妹にために、関心を持って祈ることができるものとさせてください」と祈りたいと思います。

で、兄弟たちと共に苦しむことは喜ぶことに比べると、私の経験からいうと、割合やさしいですね。それは、苦しいときは、「かわいそうだ」と普段鬼みたいな人でも、私たちが怪我したり、入院したり、慰めてきてくれます。

しかし、もうちょっと難しいのは、人々が誉められると共に喜ぶ。こちらのほうが難しいとは思いませんか?人々が病気だとか、苦しんでるときに「かわいそう」と慰める、これはやさしいです。けれども、人々が誉められるときに「なんで自分でないのか?」、「何であの人が?」、そういう気持ちがむくむくと沸いてこないでしょうか。

誰も一般的に向いているわけではありません、皆さんを8の字に目をむけながら(大笑)、お話をしております。私は説教学で、「説教者は一箇所を向いて話をしてはいけない」といわれております(大笑)。いつも目を8の字にしなさい(大笑)、で、8の字にしながら 話をしておりますが、これは、皆さんがご存知のC.S.ルイスという人が語っていることばを引用したいと思います。

彼は、傲慢ということがどんなに人間のなかに深く作っている大きな罪であるかということをこう語っています。

世界中の人間がだれ一人としてまぬがれることのできない一つの悪徳がある。人びとはそれを他者の中に見て嫌悪を感じ得るが、自分もその罪を犯しているとはほとんど夢想だにしない。この悪徳とはなにか。それは傲慢あるいはうぬぼれである。悪魔が悪魔となったのは、高ぶりのゆえであった。高ぶりは、人を他のすべての悪へと導いていく。それは完全に反神的(はんしんてき・神に対する反逆的な)心の状態である。そして、傲慢は本質的に自分が『他と競うとき』に生まれるものである

私たちは,気がつかないまでも、教会のメンバーのなかでそうでしょう、会社の中ではもっとそうでしょう、家の中でもそうでしょう、自分より弟が褒められたり、自分よりおにいさんが褒められたり、誰かが褒められたりすると、「何を」という気持ちになったり、「どうして私のことを認めてくれないの?」という気持ち。これが人間のなかにある一番大きな罪の本質の塊であると、C.S.ルイスは語っているんです。私は本当だと思います。

一つの肢が苦しむときは共に苦しむ。もう一つ難しいのは、一つの肢が尊ばれるときに、みんなが共に喜ぶ。喜「べない」、それは、罪の本質であり、自己中心であると思います。


どうしたら、それを砕いていただくことができるんでしょうか?

道はたったひとつしかない。それは、イエス・キリストが十字架についてくださったあの十字架を仰ぐということだけであります。

イエス様は、その自己のすべてを全部さらけ出して、恥を全部担いで、十字架の上に死んで下さいました。恥といえば、これほどの恥はない、全部をさらしたんです。よく、私たちも見ている聖画で菜にかがついてますけれども、何もないです。ローマ時代はそうです。そして、その最大の痛みを彼と共死ぬべき道を備えてくださった。

ですから、私たちが、キリストと共に十字架につけられるということは、私の自己中心、人の成功を心から喜ぶことのできない、いやな気持ち、そのいやな気持ちにしっかり釘をさしていただいて、「私はキリストと共に十字架についたものです」ということを信仰を持って告白できるものとなることでございますどうぞ、私たちがその恵みをしっかりと一人びとりのものとさせていただき、その信仰の中に生きつづけたいと思います。

お祈りをいたします。


Editied and written by K. Ootsuka on 990720