礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年7月25日

「ナオミではありませんか」

井川 正一郎 牧師

ルツ記1章6〜22節

中心聖句

19それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。

(19節)

アウトライン:

混乱した士師のある時代に、ベツレヘムに飢饉が起こった。ナオミ(ルツの姑)は、避難したモアブの地で夫と愛する2人の息子を失ってしまう。そして、絶望のどん底になって、空っぽになって、ベツレヘムへ戻る。

今日は、このナオミを取り上げ、失っていたと思っていた神の恵み・顧みについて学んでみたい。

教訓:失われていない神の恵み・顧み


導入

 ルツ記をお開きしました。ルツ記は「さばきつかさが治めていたころ」(ルツ記1:1)とありますように、混乱した士師のある時代を背景としたものですが、荒野の中のオアシス、砂漠の中の泉のような安堵感を感じる書です。この書の主要な登場人物は、主人公ルツ、姑ナオミ、ボアズですが、今日は普段、なかなか焦点があわせにくい「ナオミ」を取り上げたいと導かれております。


物語のあらまし

 第1章の6節から読んでいただきました。故郷のユダ・ベツレヘムに飢饉が襲ったといいます。そのためにナオミと主人公のエリメレクは、息子マフロン(その妻がルツ)とキルヨンを連れて、東の異邦の地モアブに難を逃れました。しかし、モアブの地で夫エリメレクは死に、また成人してモアブの女と結婚した息子たちもそこで死んでしまったとあります。

 十年の歳月が流れ、ちょうどその頃、主がユダのベツレヘム一帯に飢饉をとどめ、作物、パンを下さったことがナオミの耳に入ってきました。それを耳にして、ナオミは故郷に帰ろうと決心しました。この決心は、新しい人生が開かれ、前に向かって生きていこうという前向きの決心というより、せめて生涯の最後を故郷で過ごしたい、せめて故郷で葬られたいという気持ちの決心とも言えます。ナオミはそんな我が身のために迷惑をかけてはと、嫁たちには自分の故郷であるモアブの地に残るように勧めます。

 しかし、一人の嫁オルパはナオミの指示に従いますが、ルツはナオミから離れません。最後までナオミの神様に、そしてナオミに従っていくとの固い、しかし麗しい決意が記されています。長い旅路の果てに、やっと故郷ベツレヘムに戻ってきたナオミたち。

 「まあ、ナオミではありませんか。」人々は言いました。驚きの声です。なつかしさや、帰ってきて良かったね、という歓迎の声でしょうか、それともさげすみ混じりの声でしょうか。

 このように迎えてくれた故郷の人たちに対してナオミは言いました。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んで下さい。」ナオミとは快い者、わたしの喜び、楽しさの意味ですが、マラとは、苦しい、悲しいとの意味です。

 ナオミは「主は私を素手で帰された」(21節)と告白しています。すべてのものを失いました。空っぽとなって帰ってきました。絶望のどん底です。


 今日のメッセージは、このように絶望のどん底の心となっているナオミに対して、実は失っていないものがあります、空っぽではありませんという、文字どおり「ナオミ」(快い、喜び、楽しさの意味)に回復してくださるとのメッセージです。

 神は絶望と思われる中にある者に、絶望で終ることをなされません。一筋の希望を与え、そして失っていないものがある、変わらない恵みをもって回復して下さるのです。まさに福音とはそういうものなのです。福音とは、罪の絶望から希望へ、回復へと導きいれるものなのです。

 今日は、この記事から、3つのもの、すなわち、

 1.ナオミが失ったと思ったもの

 2.実は失っていないもの

 3.失っていないものの中から、特に、ナオミに対する神の恵み、顧み

 について学んでみたいと思っております。


1.ナオミが失ったと思ったもの

a)故郷(ふるさと)です。飢饉のために、故郷から離れなければなりませんでした。

b)家族です。主人を失い、愛する息子たちまで死んでしまいました。

c)希望のこころです。神は私に対して、良くないことばかり与えられた。私への恵み、顧みはもはやないのでは・・・。


2.実は失っていないもの(ナオミが気付かされていくもの)

 神はどん底に落ちていく人を皆殺しにはなされません。絶望から希望へと常に導かれる御方です。すべてを失ったと絶望の淵で嘆き悲しむナオミですが、実は、失っていないことに気付かされていくのです。

a)故郷(ふるさと)です。故郷をはなれ10年経ちましたが、帰るべき地は失われていなかったのです。帰ろうと思えば、帰れる故郷はいつもそこにあったのです。

b)愛するルツがそばにいました。家族はみな失われたのではありませんでした。もとより主人や息子たちを失ったことは悲しい、さびしいことです。しかし、ナオミとナオミの信じる神を慕って、ついて来てくれる嫁ルツがいるではありませんか。

 絶望に瀕している人々の陥り易い過ちは、私のことを顧みてくれる人がいない、助けてくれる人がいないとひがんでしまうことです。そばにいるにもかかわらず、その人のことを認めず、こんな人、助けになるかと思ってしまうのです。しかし、素直な心で見ると、そばに必ず助け手はいます。神は人をそのように配置されます。

 第2章以降になりますが、ルツの働きによって、ナオミは支えられ、名前の通りに「快い」「喜び」のナオミに回復されていくのです。

c)神に対する信仰の心は失っていないと言えます。その証拠に嫁となったルツへの宗教的感化があります。

d)神の恵み、顧みです。失われていなかった神の恵み、顧みとは何でしょうか。具体的には、次の3番目で考えます。


3.ナオミに対する神の恵み、顧み

 失ったものと、失っていないものについて思い巡らしましたが、失っていないものの中で、特に神の恵み、顧みがあることに注目したいのです。

a)豊作、生産が与えられた

 「主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さった」(1:6)とあります。豊作かどうかは記されていませんが、神の恵みは常に豊作といってよいのです。しかし、特別な意味を込めて恵みの手段として飢饉を送られます。

 人間は、最初から飢饉にあわせなければよいではないか、モアブの地に行かなければ、夫や息子たちも死なないですんだかも知れないではないか、と思いたくなりますが、神の扱いは違うのです。神の思いは人の思いとは異なるのです。

 神は信仰者を、人間を正しく成長させ、造りあげるために、順調な時も与えつつ、同時に、試練・荒波を送られます。それにどう対処していくか。信仰はそれによってのみ練られていくものなのです。神は、飢饉の時にも、豊作の時にも恵みとあわれみに満ちた御方です。

b)その豊作の知らせがナオミの耳に届いた

 これも恵み・顧みのあらわれです。信仰は聞くことから始まるとのみことばのように、聞くことが出来ることは恵みなのです。

c)故郷ベツレヘムに無事に帰らせて下さった

 モアブからベツレヘムまで、約80キロくらいの道のりです。特に、「大麦の刈り入れ」が始まった時期に帰らせて下さったことは、恵みのあらわれです。そのことが、2章のルツの落ち穂拾いにつながり、思わずもの恵みにつながっていくのです。

 刈り入れに間に合わせて下さった恵み。神のナオミに対する恵み・顧みは失われていませんでした。


しめくくり

 彼女は、その名前の通り、ナオミのままでよいのです。マラと呼んでくれと自分自身のこうべをさげる必要はなかったのです。神は絶望のなかにある者を、引き上げてくださる御方です。「まあ、ナオミ(快い、喜び、楽しさの意味)ではありませんか。」今日、これを私たち一人一人に対する神の恵みのしるしとして理解しようではありませんか。

 さあ、メッセージがはっきりしてまいりました。今日から始まる今週の歩みのため、一日一日の実際生活に、このメッセージをどのように具体化していけばよいでしょうか。

1)私たちは何一つ失っていないのだ、との心を持ちましょう。

 「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは舟だけです。」(使徒27:22)

 いのちは失われていません。否、肉体のいのちは失われても、永遠のいのち、希望は失われてはいません。

2)そのために、帰るべきところに帰りましょう。ナオミは約束の地に戻ろうとしたからこそ、良かったのです。グッド・ニュースを聞いても、帰ろうとの決断・実行が必要だったのです。

 神は常に恵み給う御方です。「まあ、ナオミではありませんか。」

 これが今日の神様のメッセージです。ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 990727