礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年8月22日

コリント書連講(32)

「徳を高めるために」

竿代 照夫 牧師

第1コリント14章1〜19節

中心聖句

12あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

(12節)

アウトライン:

コリントではギリシャ神殿の影響もあって、異言を語る人が多く、またそれが大変重く見られていた。

異言自身は大変すばらしい恵みであるが、解きあかしのない異言はややもすれば、霊的な高ぶりが先行した、表面的な形だけのものになりがちである。

本来の異言は必ず意味を伴うものであり、必ずその解釈を伴う。解釈を伴わない見せかけだけの「異言」は、むなしいものであろう。

また、異言はどちらかというと個人の徳を高めるのに役立つが、他者に対して徳を高める働きが少ない。

これに対し預言は、第三者に対して明確な意味と方向性を示し、励ましやさとしを与えると言う点で、信徒の誰にとっても有益なものであり、教会の徳を高めるすばらしい働きがある。知性と霊のバランスが取れた預言は、他の人々の徳を高めることができるのである。

私たちの教会では、この預言の恵みを神さまから頂けるよう、祈り求めようではないか。

教訓:教会を建てあげる預言の恵みを求めよう


導入

先週は13章から、愛は永遠であり、また完全であり、そして最高であるということ、そしてクリスチャンとして継続的かつ最大限に追い求めるべきものである、と言うことを学びました。

今回は、この手紙をパウロが書いた本来の目的である異言について学びたいと思います。

コリント教会では、多くの人が他人には判らない言葉で祈り、歌い、一種の陶酔状態を得つつ、熱心に異言に励んでいました。そして、そのように異言を話すことがが、クリスチャンの間で「霊的であることの印」と考えられ、互いの競争の道具となっていたほどで、教会にとってある種の問題を生じつつありました。

異言についてのパウロの見解を整理する前に、聖書の中で異言がどのように扱われてきたのかをまず見て参りましょう。


聖書の中の異言

もともと、異言は使徒2章に記されているように(2:4、11)、
習った事のない外国の言葉で神の恵みの福音を語ることを意味しておりました。

それに次ぐ記述としては、使徒10:46のカイザリヤに於けるコルネリオの経験があります。ここでは、コルネリオとその家族が聖霊を受けた時に、「異言を話し、神を賛美した。」と書かれております。ある種の保守的な注釈者達は、これは外国語による福音伝達であったとみなしています。しかし、聖書に書かれている状況から考えますと、神を賛美する時の恍惚的な叫びであったという可能性も否定はできません。

第三の記述は、パウロの第三次伝道旅行の時の記事に書かれております。パウロはエペソで、既にクリスチャンではありますが聖霊についての教えを受けていなかった人々に手を置いて祈りました。その時パウロの手がおかれた人々が、「彼等は異言を語ったり、預言をしたりした。」(使徒19:6)と記されています。

以上の使徒の働き以外で、異言について言及されている箇所は、現在取り上げているコリント人への手紙だけです。つまり、聖霊に満たされたという記事すべてが、異言に結びついているのではありません。これは、「異言」問題が福音の中核的な問題ではなかったことを暗示しております。聖霊と異言が結びついていることは確実なことではありますが、かといって異言イコール聖霊に満たされると言うことではないのです。

これらの「使徒の働き」の記事から判ることは、

1)異言は聖霊の付与と結び付けられてはおりますが、聖霊に満たされた人々が必ず異言で語った訳ではないということです。昨今、非常に勢いを増しているペンテコステ派やカリスマ運動がの考えでは、「異言は聖霊に満たされた事を示す不可欠な証拠である。」と論じ、異言を話さないクリスチャンは二級であると考える傾向がありますが、聖書にはそこまで書かれておりません。

2)異言の形態は、「習った事のない外国語による説教」が基本ではありますが、それに限らず、習った事のない言語による賛美、祈りも含まれていた可能性があります。


コリントで異言が重んじられた独特な背景・理由

次ぎに、コリントで異言が重んじられた独特な背景・理由についてみてみましょう。

コリントにおける「異言熱」の説明として、その異教的な背景が考えられます。コリントのギリシャ神殿(アフロディーテ)では恍惚状態で将来のことを予言したり、祈ったりという事が一般的に行われておりました。コリント教会内でも、純粋に聖霊に導かれて異言を語る人がいる一方で、こういう背景のもとで、アフロディーテ神殿流に単にその風潮に乗って訳の分からぬ言葉でしゃべたりする人がいたりして、大変混乱して状態になっておりました。

神の知恵に導かれたパウロは、異言が混乱をもたらすからといって異言の全面禁止をするようなことはせず、また一方で「ご自由に」と言って放置することもしませんでした。そして、異言の位置付けを行い、正しい異言とそうでないものとを見分ける基準を示すことによって、この異言熱を鎮静化しようとしたのです。

これは私達が似たような問題を扱うときにも、大変役に立つ方法であります。

特に20世紀後半から今日迄、ペンテコステ派またはカリスマ派と言われる運動が世界中(特にアフリカや中南米、また日本でも)で大きな広がりを見せ、その影響は無視し難いものがあります。私もこれらの教派に属する何人もの友人を持っておりますが、彼等は疑いもなく主を愛し、純粋に主に仕えている人々で、尊敬もしております。実際これらの人々は、伝道・宣教という点でとても大きな働きをしております。しかし、話しが異言のことになりますと、聖書的に一部行き過ぎていると感じざるをえないところがあります。

そこで私たちは、どの点については彼等から学び、どの点について同意出来ないか、パウロにならってしっかりと見極めなければなりません。聖書の言葉を基準に、評価すべきところは評価し、見極めるべきところは見極めることが大切になります。


では次に1-19節位までの部分から、異言と預言の違い(1-5節)、異言の限界(6-12節)、異言使用の条件(13-19節)について学んで見ましょう。

異言と預言の違い(1-5節)

まず異言と預言の違いについて表にまとめてみました。

預言

異言

意味

ギリシャ語

神の言葉を神に代わって語る
プロフェーテウオー
(・・・に代わって語る )
理解し難い言葉で語るラロー グローサイス(多くの舌で語る)

対象

人々(説教の形で) 神(賛美の形で)

内容

(品性の)建て上げ、勧め(教えや励まし)、慰め 奥義(自分も他人も解釈しなければ分からぬ真理)

効果

教会の徳を高める 自分の徳を高める

優劣

勝る 劣る(もし解釈がなされないならば)

預言は今日で言うところの説教をする賜物と捉えられますが、それだけでなくクリスチャンが聖霊によって他の人を慰めたり、戒めたり、方向性を示したりすることも含んでいます。預言の重要性は、それによって他の人も多くの恵みを得ると言う点です。

これに対し、異言は解きあかしをされなければ、自己の霊的な恵みは受けられますが、他者に対しては効力が少ないか、ほとんど認められないものです。

パウロのコリント書での論旨は、異言も良いが、教会や他者の建てあげにつながる預言をみなが求めるべきである、というものです。事実彼は、皆が預言することを望んでいて、それを神に求めるように勧めています。これと同様なことは、ちょうど半年ほど前のメッセージでお話ししたモーセの訓話「万人が預言者に」にも出て参ります。



異言の限界と危険性(6-12節)

次ぎに、パウロは異言の限界と危険性についてまとめています。
それは大体次のようなものです。

異言は、人に理解されなければ、聞く人の益にはなりません(6節)。このことに関してパウロは、楽器を例としてあげ(7,8節)、笛、ハープ、トランペット等は、その音色の明瞭さで役に立っており、もし不明瞭な音色でなったとしたら、何の役にも立たないものだと語っております。そして、意味のを与えられない異言は、不明瞭な音しか出さない楽器のだす騒音にたとえられると語ったのです(9節)。

パウロはまた、言葉は意味があってこそ存在価値がある、と語っております(10,11節)。言葉は意味を伝達する手段であり、意味が分からないもの同士がしゃべったら、混乱を生む以外に何ももたらしません。ここでパウロが使っている「異国人」(11節)と言う言葉は、「バルバロス」という言葉ですが、これはバルバルバルバルと訳の分からぬ言葉をしゃべる人々(ギリシャ語の分からぬ人々)を指して、半ば馬鹿にしてギリシャ人が使っていた言葉です。つまり、パウロは意味の解釈をされない異言は、他人にとってみればギリシャ人が常日頃馬鹿にしている外国人が訳の分からないことばで話すのを聞くようなものだ、と痛烈に皮肉っているのです。

そして最後に、意味を伝達する目的は教会の建て上げであり、その目的から言っても、意味の分かる言葉をしゃべらなければならないと力説しております。(12節)。


異言使用の条件(13-19節)

パウロは次に
異言使用時の条件について語っております。これは現在の我々の判断基準にもなるものです。

まず第一に、異言を使用するときはその解釈が必要である、と述べられております(13節)。ギリシャ神殿の巫女のまねのようにして行った見かけだけの異言では、解釈はできませんが、真の異言は解釈をすることが出来るものです。

ついで、異言を話すときでも、霊性と知性は並行的でなければならない、とも書かれております(14-16節)。聖書的には、霊性(神に結び付く魂の営み)と知性(理解する営み)は賛美においても、祈りにおいても並行しなければならないものだというのです。すなわち、情熱と感情・熱心さのほとばしりだけで異言を語れるものではありません。

コリント教会では異言で感謝する(祈る)ことがよく行われていたらしいのですが、それは解放感を伴うもので、心理的な満足感を与えるものであったようです。しかしそれはあくまでも自己満足であって、他の人々は建て上げにはほとんど役に立っていませんでした(17-19節)。

故にパウロは、知性の伴った短い言葉の方が、情熱を伴った百万言に勝る、と説いたのです。礼拝というのは、知と霊の両方が調和してなされるとき、他者に影響を及ぼすほどの力を発揮します

ここでやや脱線いたしますが、今日多くの教会でいわゆる「ワーシップソング」というものが用いられております。これは賛美歌よりも直線的に主を賛美する歌で、何度も繰り返しつつ霊的雰囲気を盛り上げていく歌です。この歌は、感情的な意味での「霊的な」満足感を与えるため、好んで礼拝に用いられているのが現状ですが、恍惚感に浸る事で満足感を味わう、という目的だけでこれが用いられたら、「知性を置き去りにした」礼拝になってしまいます。私はワーシップソングの位置は確かにあると思っておりますが、真理あるいは教理をじっくり歌い込んだ賛美歌にも、大切な役割があると思っております。


結論(12節)

最後に今日は、「
徳を高める」という言葉に注目して、話をまとめたいと思います。

「徳を高める」と言う言葉は、この章では7回繰り返されています(3、4a、4b、5、12、17、26 節)。ただし、正確に言いますと原文には「徳」という言葉は出て参りません。単に「オイコドメオー(家を建てる)」という動詞が使われているだけです。

パウロは私達の活動の目的として、この「建て上げる」という事に力点を置きました。「建て上げる(建設的)」と言うことは「こわす(破壊的)」ことの反対のことです。こわすことは簡単だが、建てることは難しいものです。こわすことは不注意や小さな悪意で充分ですが、建てるのは時間がかかり、注意深さを必要とする難しい作業です。私たちは何をし、何をしゃべるときにおいても、この建て上げと言うこと(建徳的であると言うこと)を大切にしなければならない、とパウロは言っているのです。

では一体何を建てるのでしょうか。それは、教会と(4、5、12節)他人(17節)です。

パウロによれば、自分の徳を建てることはやや否定的に(4節)言及されているほどです。

じつは、教会の建て上げることと他人を建てることは同じ事を意味しています。それは、教会はクリスチャン個人の集まりで、その個人個人を建て上げることは全体として教会の建て上げに繋がるからでです。

では自分の建て上げはどうでもよいのかといいますと、もちろんそうではありません。自分自身の信仰の在り方は大切です。しかしそれでおもなお、自分の満足の為の教会生活ということは、少なくともこの章では否定的に言われているのです。

ここで、26節を見て頂きたいとおもいます。「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」とパウロは言っています。

ここでパウロは「自分が恵まれるように」とは決して言っておりません。極端な言い方をすれば、自分の信仰は自分の為というよりも、他の兄弟姉妹の為にあるというのです。言い換えると、私の存在は他の人の励ましのためにあるというのです。そして、そのスピリットに皆が徹底したとき、回り回って私自身も恵まれるということが理想的な信仰者のあり方なのです。霊的利己主義に陥ってはなりません

その為にこそ賜物を熱心に求めなければならない、と最後にパウロは語っています。賜物を求めるのは、決して自分の満足のためではないのです。また、自分が如何に恵まれているかを皆に誇示するためでもありません。他の人々に、教会に仕えるためなのです。この祈りを熱心に捧げる(ディオーコー=熱心に求める)時、主は豊かにその恵みを注いで下さります。


最後にそのための具体的な方法についてまとめてみましょう。

預言の恵みを頂くためには、
主のみことばに日常的に接することが欠かせません。イザヤ50:4-5に書かれておりますように、朝ごとに主に聞くことが大切です。どうぞ、皆さんも主に対して開かれた耳を持つようにしていただきたいと思います。これが預言の賜物を頂く一番の方法です。日常生活の中で、このことにもっと時間を割き、「彼はみことばをもって疲れた者を励ます」と言う言葉のように、自分が主になぐさめられたら、その恵みを他の方にも分け与えていただきたいと思います。それが教会員一人一人に行き届くとき、教会は成長し、建てあげられるのです。このことを求め、祈りましょう。


Editied and written by K. Ohta on 990824