礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年9月26日

「よける余地のない狭いところに立つ」

井川 正一郎 牧師

民数記22章15〜35節

中心聖句

26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭いところに立った。

(25章26節)

アウトライン

主の使いが、右にも左にもそれる余地のない狭いところに立たれたのは、
(1)バラムの心・動機をみられたから。
(2)なんとかストップさせようという髪の憐れみの現われである。
(3)やるべきこと、進むべき道を教えてくださるためである。

教訓:神の語りかけに心柔らかく聞こう、従おう。


導入

旧約聖書の民数記22章を開きます。預言者バラムの話しのところです。

モアブの王バラクが約束の地に向かって進んでくる、神の奇跡のわざによる勝利を聞いて、真正面から戦うのは不利ということで、預言者・占い師をつかって呪うことを思いつき、その預言者として白羽の矢が立ったのはバラムでした。

バラムは、バラクが提供する提供する金銀に心を奪われ、欲の皮を突っ張らせて出発しますが、その途中、主の使いが現われ、その行く手をふさぎます。右にも左にもよける余地のない狭いところに立たれました。

バラムが載っていたろばが気付き、うずくまりますが、バラムはそれに気付かず、ろばを杖でうつのでした。

そのとき、ろばが口を開いてバラムに必死に話しかけます。主の使いは、バラムに向かって、「バラムよ、もしろばがそれたり、うずくまらなければ、あなたは私に殺されていたであろうに」と話しかけられます。

バラムは、それなりに罪をみとめ、悔い改め、主の御旨だけを語ることを許されて前へ進んでいったのです。


聖餐式を控え、本とに短く、主が語りたく願っておられることをお話したと導かれております。

お話したいことは、主は、常に信仰者の正しい心を持って正しい道に進むべく、心を配っておられ、導いておられることでありますが、とくに、この個所は、バラムの進もうとする道が、欲の皮の突っ張った心、動機にもとづくものであり、金銀のためである事を見抜き、そのために、主はその行くべき道をふさがれたところです。

右にも左にもよける余地のない狭いところ立たれたところ。

主がなぜ、そこに立ち給うたのか、三つの点から学びたいと思います。


まず、1点目は、バラムの心、動機を見られたから、であります。

そもそも、バラムという人は、占い師というか、預言者というか、ある程度の力をもっていた人物として評価されていたようであります。

バラクは、そのようなバラムになんとかイスラエルを呪って依頼します。
一回目の使者が遣わされます。断られます。
二回目の使者が使わされます。また、断られます。

これ、どこの世界でもそうでありますが、三顧の礼というのがありますが、二度目、三度目とお願いにあがるとき、そのお礼、手土産が前より多くなったり、15節にありますように、使者が前より高いくらいの者となったり、何とか説得しようとするものです。

これに対して、バラムは、18節、19節にありますように、主の御旨を知りつつも、はっきりとは断っておりません。使者を即刻帰せばよいものなのに、帰さないでとどめておおきます。

表面だけを見ると、いかにも主の御旨にしたがっているように見えますが、その実、バラクが用意する金銀に目がくらみ、欲の皮が突っ張った心・動機を持っていたのであります。新約聖書・第二ペテロ2章15・16節において、バラムの動機を見抜いているのであります。

なぜ、私たち信仰者の願いがしばしば聞かれないのでありましょうか?

正しい信仰姿勢であっても、時を必要とする場合があり、聴かれていないのではないか、と思うときがありますが、それは厳密には、私たちの信仰の整えの為に待ち望ませているのでありますが、ここでいう聴かれない祈り・願いというのは、よくない動機で願うからであります。

聖書の宗教は、あくまでも心の宗教、心を問題とする宗教であります。

求道者時代に、ミセス久芳に話しをしたのを思い出します。十戒の学びをし、誰も守ることはできないといいますので、「それでは、私が守ってやろう」と、半年間やってみました。ミセス久芳にそのことを話しますと、あの優しい、愛に満ちたまなざしを持って、「井川さん、キリスト教は、心の問題です…」と答えてくださいました。


バラムは前へ進んで行きます。

ユダ書では、「利益のためにバラムの迷うに陥り」とありますが、バラムはこれから得る金銀、莫大な富と栄誉に心を奪われ、ろばに乗って進んで行きます。

主は怒りを発して、その前に立ちはだかるのであります。

主は、心を、動機を見ておられます。まさに、人はうわべを見るのですが、主は心を見られるのです(サムエル記第一 16章9節)。良くない心を持って行動しているバラム、見るべきものが見えていません。ろばには見えるんですが、バラムには心が罪でいっぱいの為に見てきません。このバラムのような人間の始末の悪いのは、口で、表面では主のため、栄光のためと行動して行くところにあります。

なぜ主の使いが道をふさがれたか、第二には、それをなんとかストップさせよう、とどめようとの神のあわれみのあらわれであるのであります。この、狭いところ、というのは、24節にありますように、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道における出来事であります。

ろばはそれに気付きます。一回目は、みちからそれて畑の中。二回目、石垣の見を押し付けてそれます。そして、三回目、ついにろばはうずくまります。そして、その都度、バラムはろばを杖で打ち据えるのであります。

主は、幾度もバラムに、この道はよくないと憐れみを持って教えられます。

で、よく考えると、主はこの狭いところではじめてバラムにおしえようとされたのでなく、12節にありますように、出発前にチェックを与えておられます。

でも、彼が其れなりにというか、神のみこころをおこないますというので、その自由意思に任されて出発を許可されます。しかし、やはり金銀の目がくらみ、心が変わり、奪われてしまいます。

そして、道の途中で、ついに抜き見の剣をさげてストップさせようとなされました。これは、脅しであると共に、よく考えると神の憐れみといってよろしいかと思います。

一回だけではなく、折々にと言いますか、しばしば信仰者に、神は、「これは正しい道」「これは間違っている」と教えてくださるお方です。

我らはしばしば、自分がおもっていること、やっていることが御心に相応しいものかどうか、迷い、不安を持ちますが、神はそれを、優しく丁寧に教えて下さいます。正しい信仰姿勢をもちながら、そして良心の咎めがないときは進んでもよろしいのですが、間違っているときは、必ず、「よくないよ、間違っているよ」と、聖言から、あるいは人の口などを通して教えてくださるのが、私たちの神、主であります。

そして、このバラムの場合、もっとそれをはっきりと示そうとされました。それは、ろばの口を開かせることによってであります。これは、特別中の特別、神の特別の憐れみの現われといえます。

本当にストップしてもらいたい。正しくあってほしい。その進むべき方向、道を直してもらいたい。

神の愛の現われ、憐れみの現われ。バラムを心から愛するがゆえに、ストップをかけようとされます。
ひとりの魂の滅ぶのを望み給わないお方の愛のほとばしりを感じます。

32節の意味は、「私の見るところでは、あなたの歩んでいる道が滅びにに向かってまっさかさまになっていっている。あなたを落して行くものだから」というものであります。

滅びの坂を転げ落ちて行くところをストップさせてくださる主。憐れみの主。忍耐の主。

それに、人は気付くか気付かないか、悔い改めるか改めないか、目が開かれるか開かれないか、であります。

幸いに、バラムは、このとき目が開かれ、悔い改めに導かれました。

神がとどめておられる道を強引に進もうとしたこと、ろばを打ってまでも進もうとしたことを認め、わびております。そして、もし御心出なければ、引返そうとも答えられました。まさに、このとき、バラムは欲に心を奪われた状態から、主の御心をもう一度落ち着いて考える状態に回復されたのであります。

そして、主は、「私の示すとおりのことだけせよ、そうすれば前を進んで良い」と命じられました。
バラムのその後は、それなりの奉仕をしますが、25章にあるように、大きな罪を犯しているので、本当に信仰者の姿かといえば疑わしいところですが、それはともかく、神は憐れみをもってストップさせてくださるお方です。

もしゴーであれば、行きなさいとその都度教えてくださるお方です。それに心から従うことができるかどうかが問われているのが、信仰者の姿であります。


そして第三に、なぜ立って道をふさがれるのか、それは、やるべきこと、進むべき道を教えてくださるためであります。

狭いところに立つとは、これは駄目と言うと同時に、正しい心をもって正しいことをすべきことを教えてくださるためにも立っておられることを理解したと思います。

だめだ、だめだ、ストップと警戒するだけでなく、主は、「これが道なり、これに歩むべし」と教えてくださいます。そのような激励を与えるためにも立っておられることを理解したいものです。

20節、あるいは、35節に、「…だけ告げよ。…だけ告げよ」とあります。これは、難しいことです。余計なことを付け加えてもいけない。また、足りなくとともいけないです。自分なりに解釈を加えすぎても行けないのです。

御言葉のとおりに、主のことばの光のうち、"trust and obey(信頼して従う)"との讃美歌の折り返しのところの歌詞の原詞は、「主に従うことが唯一の祝福の道、これ例外にはない」との歌詞だそうですが、主の御言葉のとおりに従い者であります。


さあ、メッセージがはっきりしてまいりました。実生活にどう適用していくかを、一つだけにしたいと思います。

それは、神の語りかけに心やわらかく聞こう、従おうということです。耳を傾けよう、否、心を傾けよう、ということでもあります。そして、この語りかけは、聖書を通してである場合と、人の口を通じて、人の助言という場合蛾多くのであります。

心を頑なにしないようにしたいものです。神は折々に正しい心で歩んでいるか、正しい方向に向かっているかとチェックを与えられます。聖言から、あるいは、人の助言等など通して、と思います。

聖餐式は、このチェックのときであります。目に見える形での我らの吟味として提供されています。

「よける余地のない狭いところに立つ」、ご一緒にお祈りいたしましょう。


Editied and written by K. Ootsuka on 991005