礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年10月3日

コリント書連講(35)

「恵みによって今の私に...」

竿代 照夫 牧師

第1コリント15章1〜11節

中心聖句

15:11 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

(15章11節)

アウトライン

 前回はキリスト教の福音の本質は、イエス・キリストの十字架の死と復活であることを学んだ。

 今回は、そのキリストの復活を体験することによって、人生が大きく転換したパウロの個人的な経験から、神の恵みについて学ぼう。

 パウロは、自分は使徒の中では最も遅れてやってきたもので、一番小さいものであると述べている。その上、かつて敬虔なユダヤ教徒であったパウロは、無知の故とはいえキリスト教徒を迫害した経験をもち、その罪の深さから本来なら到底神の恵みを受けるに値しない者だと述べている。

 しかしそのような自分でさえも赦されて、使徒として他の誰よりも大いなる伝道の働きを成しとげる事ができたのは、ひとえに神の恵みに感じて一生懸命に働いた結果であって、自分自身の偉さによるものではないとへりくだっている。

 私達も、イエス・キリストを知る前の自分と対比して今の自分に与えられた恵みを感謝し、これに恩返しするべく会社や家庭における自分の務めに一生懸命に打ち込もう。

教訓:今の私をもたらした神の恵みに感謝しよう。


導入

 前回は、「復活の章」として知られている15章から、「福音」の本質について学びました。

 最初にその15章の1節をお読みしましょう。

15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」

 ここで3回出てくる「福音」は英語ではゴスペルといいます。今世の中でゴスペルが流行っておりますが、その意味を知らないで使っている方もたくさんいるかもしれません。これは良い訪れという意味ですが、その要点が3〜4節に記されております。

「15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

 つまり、「福音」が示す「良い訪れ」の内容は私達人間が本来持っている「罪」に関わっています。それはイエス・キリストが我々の罪のために身代わりとなって十字架で死なれたことによって、私達人間の「罪」の問題を解決して下さったということです。

 それもただ死んだのではなくて、葬られた後に復活して死と罪を打ち破られた証拠を示して下さったことが福音の本質であると述べられています。

 パウロはキリストが復活されたのは単なる神話や伝説、幻ではなく、本当に起こったできごとであると大まじめで語っています。

 今日は、その復活を体験したパウロ個人に対して福音がどんな影響をもたらしたについて学びましょう。


A. 恵みに値しないパウロ

 パウロは以下の4つの点から自分が神の恵みを受けるに値しないものであると語っています。


1. 復活したキリストご自身にお会いした最後の人物

15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

 ここでは復活が事実であることを示すために、パウロはいろいろな人の前にキリストが現れた例を示しています。

1) ケパ=ペテロ
2) 12弟子:復活の夜、正確には10弟子
3) 500人以上の兄弟達:ほとんどの人がそれから25年後のこの手紙が書かれた時代に生きていた。
4) ヤコブ:イエスの弟
5) 使徒達全員に:オリーブ山での昇天前の現れ。
6) パウロ


 1)〜5)までは皆、イースターの日から40日以内、つまり昇天までの出来事でした。

 それに比べて、パウロの前へキリストが現れたのは、それから約4年後の出来事でした。その意味でここで「そして最後に」とパウロが言っているのは、自分は後発で、小さな、恵みに値しない者であることを意味しております。


2. 月足らずで生まれた人間

 「月足らずで生まれた」というのは、文字通り未熟児として生まれたという意味であるという説もあります。パウロというと堂々とした偉大な伝道者というイメージがありますが、実際には小がらで、病気がちで、どちらかというと風采の上がらない人物であったようです。また、ギリシャ語で「パウロス」とは小さいという意味ですので、あるいは生まれたときに未熟児で小さかったので、「パウロス」という名前をつけたのかもしれません。

 しかしここでは「同様な」とありますので、比喩的な意味で、キリストの在世時代に入信したペテロら使徒達からみれば全く後発の信者であるという意味で「月足らずの」末っ子という意味であると考えられます。

 もっと言えば、未熟な状態で突然生まれたクリスチャン、即ち、他の使徒達の様な自然な形での入信、訓練、派遣という形ではなく、十分な準備期間なしにその全てがいっぺんに来てしまったという意味で突然回心したクリスチャンでした。

 いずれにせよ、キリストに良く扱われるにはふさわしくない人物であることを良く自覚しておりました。


3. 使徒の中では一番小さいもの

15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

 「使徒」の定義はイエス・キリストと共に生活し、イエスご自身に世界中に福音を伝えるように任命されたものであるとするならば、パウロは自分は必ずしもその定義にはあてはまらず、他の使徒達とは比べものにならない小さなものであると心から思っていたようです。


4. 使徒と呼ばれる価値のないもの

 さらにパウロは、かつてはキリストの教会を迫害したことを大きな心の傷として持っておりました。

 パウロはユダヤ教の聖書を熱心に勉強していた敬虔なユダヤ教徒でしたので、その一番大切な「神は唯一である。」という教えから考えて、「イエスが神だなんて、そんなバカなことがあるものか。あんな十字架で野垂れ死にしてしまった人間が神だなんて、真の神に対する冒涜だ。」という憤りを持っており、正義感からキリスト教徒を迫害したのです。

 無知でやったこととはいえ、やはりそれはイエスの教えを十分に学ぼうとしないで、多くの人々を次々と捕らえて拷問にかけて殺してしまうという暴力的な行為に走ってしまったという点で、あまりにも大きな罪でした。

 そのことは第・テモテに記されております。

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」


 ここでいっている見本とは悪い見本のことで、こんなに大きな罪を犯した自分でさえも赦してくださった「この上ない神の寛容」を説いています。



B. 恵みを与えられたパウロ

15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

 本日はこの10節を中心に神の「恵み」について学びたいと思います。


1. 恵みとは何か

 この節には「恵み」が3回出てまいりますが、「恵み」とは何でしょうか?

 「恵み」はギリシャ語の喜ぶという言葉から派生した言葉で、顧みること、親切にすることを意味しています。これが神と結びつけられると、「受けるに値しない者に対する神の特別な憐れみ」を表します。

 これは、例えばアルバイトや会社の仕事をしてもらう「報酬」(受けるに値するもの)とは異なるものです。

 普通の場合私達は、もらういわれのないものをただであげるといわれたら、何か裏があるのではないかと疑り深くなりますね。でも、神様の恵みは本来なら受ける資格のない私たちに一方的にそそいでくださるものです。

 親が子供の世話をするとき、「これだけ面倒を見たのだから、年老いてから介護してくれるだろう。」などと見返りを計算する親は普通はいないと思います。神の恵みは親の子供に対する愛情に似ていますが、それより数倍勝るものです。

 そしてそれはイエス・キリストをこの地上に遣わして、私達人間の根本的な問題である「罪」の身代わりとなって十字架にかけることによって、「罪」を帳消しにされるという具体的な行動になってあらわれたのです。


2. 「今の私」にした恵み

 このように全ての人に与えられる恵みですが、パウロ自身に対しても「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」とありますように、その恵みのおかげで今の私になったと感謝しております。

 「今のパウロ」とは、キリスト教徒を迫害して殺した赦されざる罪に悩んでいた自分から解放された私、罪を赦された私、罪に打ち勝つことができるように性格を変えられた私のことです。

 皆さんは「今の私」にどのような形容詞をつけられるでしょうか。一度ノートに書いてみてください。後で私がこっそり見るような事は致しませんから(笑)。その際、昔の私=イエス・キリストを知る前の私との対比で書いてみてください。

 ある方は、恐れから安心に変えられた私と表現されるかもしれません。あるいは悩みから解き放たれた平安という形で書かれる方もあるかもしれません。また、罪に負けてしまう弱さからそれに打ち勝つことのできる強さという形で表現されるかもしれません。時間が許されるなら、おひとりおひとりにインタビューして聞いてみたい気がします。

 パウロはキリストによって罪を赦され、性格も、人生目的も、何もかも変えられて、使徒・宣教師として現在用いられているのは神の恵みによるものだと述べております。


3. 私の奉仕を可能にした恵み

 次に、パウロは神の恵みは無駄にはならずに、力強く有効に働いたと語っています。

 先程は「一番小さいもの」と表現しておりましたが、ここでは一変して「誰よりも多く働いた」と、一見自慢ともとれるようなことを述べています。

 実際にヨーロッパ中に教会を建てたパウロの働きは使徒の中でも群を抜いておりました。そのことはローマ人への手紙15章にも述べられています。

15:17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。
15:18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。(略)
15:19 (略)。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。
15:20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」


 しかしこれは自慢ではなく、パウロは自分は神の恵みに感じて一生懸命に働いたけれど、その一生懸命さも自分の偉さではなく、神の恵みの現れとして与えられたものなのだとへりくだっているのです。



 私達は地上において、ひとりひとりの職業を通して神の栄光を現すように導かれております。その際、神の恵みに感謝することは毎日の仕事に力を与える大きな動力になるはずです。神の恵みに恩返しするために一生懸命に働く「ハードワーキングクリスチャン」でありたいと思います。
 
 一方で、私達には恵みに慣れて、それに安住してしまう危険性もあります。しかしパウロは神の恵みを無駄にせず、「そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、(むしろ)私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と語っています。パウロは自分の一生懸命ささえも神の恵みによって与えられたものだと、全てを恵みに帰しております。


今日発行された会報「はらから」に、8月に召天された山本陞治(のりはる)兄の告別式説教の要旨を「神に恵みによって」という題で掲載致しました。ここでその一部を抜き読みしたいと思います。

「山本陞治兄の82年に亘る生涯を振り返って、心に浮かぶ一つの思想は、神の恵みということです。山本さんは、心から神の恵みに感じて生きて来られた方だと思います。1980年の「はらから」に「本当に良かった」という題で山本さんの証しが載っていますが、その中で、救いの経験がそれまでの62年の生涯で最高の出来事であったと述べておられます。鈴木嘉和さんとの出会い、教会への導き、初代総理の説教を通しての感動、そして罪の告白によって、大酒のみ、たばこ、道楽から変えられ、友人や家族が驚くほど生活が変わったこと、両親への親不幸を悔い改めて、親を敬うようになったことなど、「本当に良かった」を繰り返して締めくくっておられます。それらを齎したのは、山本さんも引用しておられるように「神の恵みの故」(エペソ2・8)でありました。

 恵みによって変えられた山本さんは、恵みに感じて主に仕え続けました。集会には休まず出席し、その書道の賜物を活かして教会の看板などに聖言を書く奉仕をなさいました。お花の道でも達人で、教会の集会のためにお花を活ける奉仕をずっとなさいました。

 冒頭の句(第・コリント15:10)は、使徒パウロの告白です。彼は、今の彼があるのはただただ神の恵みによるのだということを、本気に、しかもへりくだって認めていました。そしてその恵みに感動して、また恵みに突き動かされて、一生懸命働いた。そしてその一生懸命さは誰にも負けない程であった、と述べています。でもその一生懸命ささえも神の恵みによって齎されたものだ、とへりくだっています。山本さんも、このパウロの言葉に「アーメン」とおっしゃるに違いありません。」


結論

本日は簡潔に次の2つのことを教訓として終わりたいと思います。

1. 今の私をもたらした恵みに感謝しよう。
2. 恵みに動かされて一生懸命働くものとなろう。

お祈り致します。

Editied and written by T. Maeda on 991006