礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
99年10月24日
コリント書連講(38)「復活の体とは」
竿代 照夫 牧師
第1コリント15章34-49節
15:38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。 (15章38節) |
アウトライン 復活の体とはどのようなものか、それが今回の主題である。 地上の体は、やがて朽ち、卑しく弱いもので、本能や自然の法則に縛られる罪を孕んだ存在である。 これに対し、復活体は永続する強い存在であり、御霊に満ちキリストに似た栄光にみちた存在である。 我々の生涯の最終ゴールは、この復活体を得るということであろう。これを目指して日々主に祈りつつ歩みたい。 |
導入
前回は、復活を待ち望む生活態度について学びました。復活体は今持っている体の延長線上にあり、その意味でその体を汚すことのないように、目を覚まして正しく清い生活を送るべきことを学びました。33-34「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。」
今回は、この「復活の体」がどのようなものかについてみて参りたいと思います。
A. 復活の体についての質問(35節)
35節では、「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』」
と書かれております。
この質問は12節で示されている復活自体への疑問と根を同じくするものであります。彼らの質問は、「死者がどのように(how)またどういうからだ(what ) になるのか」というものでしたが、詰まるところその背景には「復活など有りえない」という不信仰があるのです。
B. 三つの例えによる説明(36-49節)
質問の背景にある不信仰を「愚かな人だ。」と叱りながらも、パウロは丁寧に復活の体について、三つの例えをもって説明いたします。
1.植物の例え(36aー38):
植物には種を着けた後枯れ、そしてまた種から生えるという生と死のサイクルが存在します。
「37あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」
種はある意味一度死んで、解体し、新しい命を生みます。この様な内容はヨハネ12:24でも平行して記述されています。これらのたとえでは、一次的な「死」が新しい「命」の誕生の前提であるという点が強調されております。
種と植物との関係と同様に今の体と復活体には、質的な相違はあっても連続性が存在するものです。今の体は一度解体して、新しい命に生まれ変わりますが、それらの間にあくまでも連続性が存在するのです。
2.動物の例え(39):「肉(ギリシャ語のサルクス)」には多様性が認められます。
「39すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。」
人間、獣、鳥、魚などの動物の肉(このサルクスは、有機物の実質的な組成を示す)には、相違点と類似点があるものです。
「40また、天井の体もあり、地上の体もあり、」
この様に「肉」には類似性と多様性の両面が存在し、その多様性の中に天上の生活にふさわしい肉と言うのが加えられるのです。
3.天体の例え(40-41):
「体」には各々の美しさと魅力があります。これは、太陽、月、星などの自然物に認められる各々の特徴、魅力、栄光に喩えられるものです。
「40-41また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」
ちょうどこの天体の違いと同じように、天上の体は地上の体と異なる特徴、魅力、栄光を持っているとパウロは説明しているのです。
C. 二種類の体の比較(42-49)
次にパウロは、地上の体と復活体の違いを示しながら説明しております。
「42死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
45聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
46最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地からでて、土で造られた者ですが、第二の人は天からでた者です。
47土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天からでた者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」
これを対象の表にして見ましょう。
地上の体 復活体持続性 朽ちる(分解する) 朽ちない(永続する) 価値 卑しい(弱点、醜さを持つ) 栄光 強さ 弱い(死や病には打ち勝てない) 強い(病気等からの自由) 所属 血肉に属する(自然的) 御霊に属する(霊的)
(聖霊によるフル支配:夫も妻もなくみ使いの 様になる=欲からの解放)由来 地からでた 天からでた 類似性 アダムに似ている(罪を齎した点で) キリストに似ている(罪を克服した点で) この表にあるように、地上の体はやがては朽ちていく卑しく弱いものであり、欲望の支配を避けることの出来ないものです。これは自己中心に陥って神に反抗したアダムに似たものであり、地から出たものです。
これに対し、復活体とは朽ちることのない強く栄光に満ちた存在であり、御霊に属し、本能や自然法則に支配されないもの、すなわち物質的な実体とは異なる存在です。
これに関して、何らかの理由で再婚した人が復活した場合、天国では奥さんがふたりになって問題ではないか、と質問する人がいます。しかし、甦りの後にはもはや自然法則によって子孫を残す必要がありませんので、夫婦の関係というのも地上のものとは異なって参ります。したがって、天国で奥さんに会って「ちょっとお茶入れくれないか」とか言うわけにはいかないと思います(笑)。こういう事を考えるから牧師は世離れしているとは言わないで下さい(笑)。こういう事を考えることはすばらしいことなんです。
D. 復活体=私たちのゴール:
これまでの箇所をまとめますと、「内も外もキリストに似る事」が私達の最終ゴールである、と言うことになります。そしてそのプロセスは復活の体を得る前に既にもう始まっているのです。
土から生まれた私たちですが救いの後は、キリストに似せられていくのであり、現在進行形で復活対日か付いているのです。49節の復活はこれの将来的完成と見ることができましょう。
私達の肉体には日々衰えという過程が進んでいるものです。これはクリスチャンといえども例外ではありません。皆さんの中にも肉体の衰えを感じて、寂しく思っておられる方がいらっしゃるかも知れません。しかしそれは事実として受け止めるしかありません。
しかしその反面、クリスチャン生涯を通じて、栄光ある体へ変えられていくという過程は何と挑戦に満ちた、素晴しいものでありましょう。是非このことに対する希望を持っていただきたいと思います。
第二コリント4:16、5:1、2、4ではこう語られております。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。...確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
パウロは復活に与ることこそが彼の最大の人生目標であるとまでいっております。
たとえばピリピ3:10、11、13、14、20、21では彼はこう語っています。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。...兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。...けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
第一ヨハネ3:2にも、
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストににた者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
と書かれております。
このゴールに向かってどのように進めばよいのか?第二コリント3:18にはその道筋が示されております。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら(私は、別訳の「鏡に映るように主の栄光を見つめながら」がより文脈に近い訳であると思う)、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ここで示された「キリストを見つめつつ歩む歩み」とは、彼を模範として、助け主として、導き手として、また服従すべき主人として、見続けるということなのです。これを行うとき、私たちの心の中に主の御姿が造られていくのです。
最後にこのことに関したお話をして終わりにしたいと思います。
ナサニエル・ホーソンの「大きな石の顔」という小説があります。岩に刻まれた大きな石の顔があり、その村には、そのような顔をした英雄が現れるという伝説が生まれました。村出身の将軍、政治家、事業家が帰ってきた時、村人はこの人こそと思ったが、やがて人々その顔が似ても似つかないことに気がつきます。
村には一人の名もない老人がいました。彼は少年時代から、その石の顔の前でディボーションを持つことを日課にしておりました。ある日村人は、その老人こそが「大きな石の顔」を持った本当の英雄と悟るのです。それは彼がその石の顔のような人になりたいと毎日願い続け、祈り続けたからだったのです。
私達も、このように主キリストを見続けると主キリストに似てくるのです。主を見つめつつ歩む人生を始めましょう。
Editied and written by K. Ohta on 991025