礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年10月31日

「あなたに恵みを施したい」

井川 正一郎 牧師

第2サムエル記9章1-13節

中心聖句

9:7ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をして良い。」

(9章7節)

アウトライン

 ダビデはヨナタンとの契約を果たすために、残されたサウル一族の足萎えたメフィボシェテを探し出し、彼にサウルの地所と王家の食卓に着く特権を与えた。

 神もこのように弱き我々を捜し出して、救われ、そして恵みをお与えになる方である。

 この恵みを、高慢になることなく、謙虚な姿勢で謙って神の御前に出て頂こうではないか。

 

教訓:謙って神のお与えになる恵みを得る


導入

今日取り上げます第2サムエル記の箇所では、繰り返し
「あなたに恵みを施したい」と言うダビデの言葉が書かれております。(1,3,7節)

この章では、自らが滅亡に導いたサウル王家の生存者メフィボシェテに、ダビデが施しをしたことが書かれております。この話は表面的に見て取れるような美談ではなく、サウル王家を滅ぼして権勢を確立したダビデが、その威信を世に示すために施しを行ったのだと解釈する人々も一部にはおりますが、今日はそれよりもみことばが示すとおり、ダビデが憐れんでこの施しを行ったという立場でお話をしたいと思います。


まず、「恵み」とはどんなものでしょうか?恵みとは一言で言いますと、受けるに値しないものへの神様から与えられる顧みであり、憐れみの行為であります。よく似た言葉に「憐れみ」と言うものがありますが、、この「恵み」と若干ニュアンスが異なっております。それは「憐れみ」が、神様が我々に同情して「憐れんだ」と言う心の動き・リアクションを示すのに対し、「恵み」がその気持ちに基づいて神様が実際に行動に出られるアクションのことを指すと言う点です。後者の「恵み」の代表例が「十字架」であると言えば判りやすいかも知れません。

私は羊羹が好きで、羊羹があると教会で随分長くお客さんと話したりしてしまいます。羊羹の良いところは、どこで切っても羊羹と言う点です。この点饅頭は、切ってみますと場所によってはあんこだったり、皮だったりするのです。

聖書のこの箇所もまるで羊羹のように、どこで切っても「イエス様」が現れ出ております。それほどこの場面で書かれている恵みが、神様の恵みに似たものであるのです。そこで今日はこの箇所から神様の与えられる恵みがどのようなものであるかについて、3つの側面から学んでみたいと導かれております。


A. 約束に対して誠実を尽くすことにあらわされた恵み

1節では、

「ヨナタンのために、そのものに恵みが施したい。」

と書かれております。

これは第1サムエル18:1-4、20:8-17で書かれております、ダビデとサウルの子どもヨナタンとの契約に基づいているものです。ヨナタンは父サウル王に追われたダビデを逃がそうとし、その時に神の前でふたりが誓いをいたします。この時ダビデとヨナタンの間には、友情以上の強い関係が発生しました。

なぜなら神様の前での契約は、変更を許されない、厳しいものだったからです。もし、神様の前での契約を破ることがあれば、それは相手に対してだけではなく、神様に対しても不誠実を働くことに他ならないからです。故にダビデはその約束を果たさなければなりませんでした。その約束とは

「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないで下さい。主がダビデの敵を地の表から一人残らず断ち滅ぼすときも。」(第1サムエル20:15)

と言う内容のものです。

しかし、ダビデはこの主の前の誓いがあったから義務感を感じて、施ししたかっただけなのではありません。むしろ、ヨナタンやひいては神様に対して誠実・真実を尽くしたいという気持ちで、施しをしようとしたのです。

聖書で言うところの「誠実」とは、「約束を最後まで守り抜くこと」を意味します。この意味で、主人に対する僕の「忠実」と言うイメージが近いかも知れません。このような主人と僕の間には、確固たる信頼関係が築かれているものです。

ダビデにとっての施しとは、神様との約束に対して誠実を尽くすことに他ならなかったのでした。


B. 捜し求めることにあらわされた恵み

先ほど「恵み」とは憐れみから生まれる具体的な神様からのアクションであるといいました。ここでの恵みは、「捜し求める」ことに具体的に現れております。ダビデはメフィボシェテを探し、彼がロ・デバルのマキルの家にいると言うことを突き止めました。

このように簡単に書いてありますが、ロ・デバルとはどんな所なんでしょうか?私はこう言うところにいつも気がとまります。調べてみますと、約束の地であるヨルダン川の西岸の反対側、すなわちヨルダン川東岸(マナセ族の住むところ) だそうです。ここには家畜の放牧に適した草原が広がり、比較的裕福な人がたくさん住んでいたそうです。ダビデが逃亡する際にも、このマキルの家の者が食物を持って助けに来たと書いてあります。

ここにイシュボシェテと言うサウルの4男が住んでおり、ヨナタンの子(甥に当たる)メフィボシェテをかくまっていたのです。メフィボシェテはサウル王とヨナタンがペリシテ人に打たれたとき5才であり、乳母がその知らせにあわてて逃げたため地面にその子を落としてから、足が萎えてしまったようです(第2サムエル4:4)。

ちなみにメフィボシェテがダビデにあったのは彼が25才の時、その時ダビデは50歳前後だったようです。

この時のメフィボシェテの心境はどんなであったでしょう。足も萎えてしまい、親類にかくまわれて望みもなく、大変惨めな気分であったと思われます。そのことは彼がダビデにあったときのことば、「この死んだ犬のような私」と言うところからも見て取れるでしょう。

思えば私たちも、救われる前はメフィボシェテのような惨めな状態でした。このような私たちにも、神様は捜し求めて恵みを下さろうとしておられたのです。ここに神様の御愛がどのようなものかが見て取れましょう。


C. 回復することに現わされた恵み

7節に入りますと、ダビデはメフィボシェテに具体的にその恵みの内容を語ります。それは、本来彼が受けるべきであったサウル王の地所(ベニヤミンのギブヤの地所)と、王家の一員としての権利(王家の食卓に着くこと)の回復でした。

地所の回復には、彼の衣食住すべての実体的回復が含まれておりました。(実際サウル家の僕ツィバとの家族も彼の家来となりました。)また王家の食卓とは、豊かさ、喜び、交わり、目の前に臨在する事などの内面的内容が象徴されております。神様の私たちへの恵みもこのようなすばらしい回復なのであります。

そしてこの「回復する」と言うことに、これ以前に触れました二つの恵みの内容すべてが集約されるのです。ここに神様の熱き想いを見て取ることが出来ます。


実生活への適用

ここまで、ダビデの恵みの施しから、神様が私たちにお与えになろうとしている恵みについてみて参りました。最後にこの恵みを受けるために私たちが日常生活の中で何をすべきか、一つのことを示して終わりにしたいと思います。

それは何はともあれまず「主の前に出ること」です。しかも、メフィボシェテのようにへりくだって出ることが大切です。これは、自らの弱点を受け入れ、それを扱って頂くつもりで神様の前に出ると言うことに他なりません。

人間弱点や欠点は誰でも持っているものです。しかし、問題なのは往々にしてその弱点そのものではなく、それを気にして自己卑下する自分自身の心にあるのです。そして、しばしばこの劣等感というものは、裏返って優越感や傲慢に結びつくものです。自信過剰にも思える人が、実は人には言えないコンプレックスを持っていたと言うようなことを聞きます。劣等感と優越感は表裏一体でり、人間自身ではそのようにしか解決できないものなのです。ですからその弱点をひれ伏して神様に扱ってもらう必要があります。

メフィボシェテは自分のことを「死んだ犬のよう」とまで言っております。これは実にへりくだってダビデの前に出たことを意味しています。私の今年のメッセージはこの「へりくだって恵みを受ける」と言う一つのテーマを持っております。

いま神様は私たちに恵みを施したいとおっしゃられております。ですから皆さん、今へりくだって神様の前に出て、その恵みを受け取らせていただこうではありませんか。


Editied and written by K. Ohta on 991101