礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年11月7日

「死の勝利は何処に?」

竿代 照夫 牧師

第1コリント15章50-58節

中心聖句

15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

(15章節)

アウトライン

復活の体は、地上の体が死によって解体された後に得られるもので、物質的にまったく同じものではない。

 復活はキリストの再臨のときに起こる。そのときには、生きている人達も、主にあって死んだ人達も皆が栄光の体に変えられる。それは一瞬のうちに、しかし皆にわかるような合図とともに起こる。

 死に対する恐怖心は今も大きな力を持って人類を苦しめている。死がもつ力は、人間の罪から来ている。つまり、死んだあとに地上で犯した罪の裁きを受けなければならないという潜在意識が、死に対する恐怖の理由である。

 死の不安に対する解決は、律法にはなく、キリストの十字架の救いにのみある。全ての罪とそれに対する刑罰はイエス様が十字架の上で徹底的に苦しむことによって終えられたのだ。

 社会や家庭で様々な問題と出会っても、イエス・キリストに目を向けている限り動揺する必要は無い。そして、与えられた立場に応じて仕事や、学業にまい進することにより神の栄光をすとき、今の世と復活の世において、神様が十分な報いを与えてくださるという希望を持って、与えられた人生をめいっぱい進もう。

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり
 

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり


導入

 本日の聖書の箇所は第Tコリント15章の50節〜58節で、第Tコリントの中で一番長く、「復活の章」として有名な15章の最後の部分です。

 前回は、復活の体とはどういうものか、それがどんなに栄光のある体であるかについて学びました。またそれが私達の内面とどう関係するか−それは心が主イエスと似たものになることであり、私達の人生最大の喜ばしい目標であることも学びました。

 本日はいつそれが起こるのか、栄光の体に変えられる時とはどんな時なのかということについて学びたいと思います。


A. 復活の体(50節)

 まず50節をお読み致します。

「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」

 ここでは、現在の体と復活の体の関係について述べられています。つまり、現在の体(=朽ちる体)がそのまま復活の体(=朽ちない体)に継続する訳ではなくて、死とそれに続く解体という過程をとおって「変身」するのです。それが誰のものであるかという認識はできますが、物質的に全く同じものではありません。



B. 復活の時(51-53節)

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 ここでは次の5つのことが書かれております。

1.これは奥義である

 「
奥義」とは、剣道の秘伝の技のようなものに用いられる言葉ですが、人間の普通の理性によっては完全には理解できないもので、神の特別な解き明かしによって明らかにされる真理のことをいいます。

 そしてここではキリスト再臨の時に復活が起きる事が「
奥義」として予言されております。

2.皆が眠るのではない

 これには二つの解釈があります。

 ひとつの解釈は再臨は差し迫っていてパウロの時代の多くのクリスチャンは(眠らずに、つまり死なないで)再臨に間に合うという解釈、もうひとつはこの「私達」はパウロの時代とそれに続く教会時代をさしており、21世紀の私達をも含むものだという解釈です。

 いずれにしましても、
再臨(主イエス・キリストが再び来られること)のときには、生きているクリスチャンも、主にあって死んだ人達も皆が携挙されて(たずさえ上げられて)、栄光の体に変えられるというとです。



 このことは聖書の中の大切な約束で、それがいつであるかはわざとはっきりとは記されておりませんが、その徴ははっきりと与えられており、真剣に、真実に受け止めて準備しなければなりません。

3.一瞬で変えられる

 そしてそれは一瞬のうちに、瞬く間に変えられると書いてあります。

4.終りのラッパを合図にそれがなされる

 このラッパはトランペットでしょうか、コルネットでしょうか、トロンボーンでしょうか、また1本、2本それともたくさんのラッパでしょうか?

 いずれにしましても、これは主イエスが密かに来られるのではなくて、なんらかの神様の方法によって全ての人に分かるような、衆人監視の中で来られることを表わしています。

 主イエスがクリスマスの夜に最初にこの世に来られたときは、それとは対照的にベツレヘムの馬小屋に赤子としてひっそりと来られました。しかし、2番目に来られるときは、王として、審判者として、支配者としてラッパの合図とともに来られるのです。

 以前キリスト教の外枠にいる人達が、キリストは既に来たのだと宣伝した事もありました(今は訂正している)が、主イエス様が既に来られているのに私達がそれに気づかないなどということはありえないのです。

5.朽ちない、不死の体に変えられる

 そしてそのときに、朽ちる肉体が朽ちないものに変えられるのです。ここでは、「地上の着物を脱ぐのではなくその上に着るのだ。」という面白い表現がなされております。

 第2コリントの5章にも同様のことが書かれております。

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。


 私達は自分の肉体の弱さ、痛みや病気、さらには限界や衰えというものを知っています。ここでは、そのような弱い地上における肉体(地上の幕屋)を脱ぎ去るのではなくて、その上に新しく復活の体(栄光の幕屋)を着るのだと述べられております。

 このことを考えるとき私はあるインドの少年の話を思い出します。その少年は貧しくて、起きている時も寝ている時もずっとたった1枚のシャツを着ていたそうです。そして、ついに新しいシャツをもらったときに、体の一部のようになってしまった古いシャツを脱ぐことをせず、その上に新しいシャツを着たそうです。

 我々も復活の時には、今の着物の上に新しい着物を着るのです。何という光栄でありましょうか。


C. 復活の勝利(54-57節)

 続く54-57節では、復活は私達に大きな勝利を与えるということが書かれております。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。


 この部分では次の3つのことが述べられています。

1.イザヤの予言の成就

 イザヤ書25章6〜8節には、次のように記されています。

25:6 万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
25:7 この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。
25:8 神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。


 イザヤはここで、歴史に於ける神の究極的勝利を予言しています。そして、その時神の民は喜び、彼等を覆っている暗い影は取り除かれ、その暗い影の最大の原因である死が永久に滅ぼされると予言しています。

 そしてその予言がキリストによって成就したのです。

2.死の刺と力は確かに大きい

 ここでホセア書13章14節が引用されています。

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。

 これは、死に対する神の勝利の言葉か、イスラエルを死に引き渡すという宣言かで解釈が分かれていますが、ここではあえてそれには踏み込まないことにしましょう。

 いずれにしましても、死が針と刺という痛みを持ち、大きな力を持って人類を苦しめていることは確かです。

死は全ての人に不安と恐怖を与えるものです。

 私も少年時代に死んだらどうなるかと考えたときには、底のない井戸の中に吸い込まれていくような恐怖感を感じたものです。

 次にパウロは、「
死の刺は罪」と言っています。つまり、死のもっている力、刺がどこから来ているかというと、それは人間の罪から来ているのだと述べております。

 これはひとつには、最初の人間であるアダムが犯した罪を通して「死」というものが人間の運命として入ってきたことを示しています。

 もうひとつは、へブル書9章27節には「
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・。」と述べられておりますが、死んだあとに地上で犯した罪の裁きを受けなければならないという潜在意識が、死に対する恐怖の理由であるとことを示しています。

 さらにパウロは「
罪の力は律法」と述べています。つまり、私達に自分が罪人であることをより深く自覚させて、罪の力を増大させるのが律法であって、律法によって死の不安から救われることはなく、そこに罪の解決はないのです。



3.キリストは律法と罪と死に勝たれた

 57節でパウロは死の不安に対する解決は、キリストの十字架による解決であると述べています。

 イエス様が十字架に架けられたときに、"
It is finished."(ことはなされた)と言われたことがヨハネの福音書19章30節に記されています。私達が受けるべきであった全ての苦しみと刑罰はイエス様が十字架の上で徹底的に苦しむことによって終えられたのです。

 私が中学校のときに、ある友人が、「この"
It is finished."という言葉は『もうおしまいだ、万事休す』という意味ですか。」と先生にいじわるな質問をしたところ、先生は(この言葉の本当の意味も私がクリスチャンであることも知っていながらわざととぼけて)「さあ、どうでしょうね。この中にクリスチャンの人はいませんか。」といわれたので、私は仕方なく手をあげて答えようと試みましたが、必ずしも十分な答えはできなくて、そのことがずっと心にひっかかっておりました。後に、私は原語であるギリシャ語を学び、"It is finished."はギリシャ語では「テレレスタイ」という言葉で、それは「万事休す」ではなくて、その反対の「事をやりとげたぞ。」という勝利の宣言であることを知って感動しました。

 克服できない習慣、過去の過ち、前進を妨げている罪の意識、それらは全て終わったのです。

 そして、それが単なる掛け声でないことを示すために、イエス様は3日後に死からよみがえられたのです。

 そして、私達の肉体が朽ち果てたときにも私達がキリストのようによみがえることができるということを保証するための初穂となってくださったのがキリストの復活なのです。「
罪に打ち勝ち、死に打ち勝たれた」救い主が私達の救い主です。本当に感謝すべきことです。

 死に直面したときに、確かに悲しみがないわけではありませんが、それを超えた希望が私達には与えられているのです。


D. 確信故の勤労(58節)

 そのような確信が与えられているとき、毎日の仕事や学業にも本当の意味での励みが出てくるということが書かれているのが次の58節です。

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

1.勝利の確信

 昨日サッカーのオリンピック予選が行われましたが、日本代表チームにはイタリアのセリエAで活躍中のエースの中田選手が加わり、メンバーは「中田がいるから負けるはずが無い。」という気持ちで戦って勝ったということです。

 私達クリスチャンにはもっと頼もしいイエス様がいるのですから、不況やリストラや様々な家庭の問題があっても負けるはずは無いのです。イエス様に目を向けている限り動揺する必要は無いのです。

2. 主の業へのまい進

 主の業にまい進する姿は神の栄光をあらわす姿です。私達はそれぞれの立場に応じて、会社の仕事や、学校の勉強にまい進することを通して、神の栄光を現しているのです。

3. 神の報い

 そのように主の業にまい進するとき、今の世においても、さらには復活の世においても、神様が十分な報いを与えてくださるという希望を持って、与えられた人生をめいっぱい、力強く信仰に満たされて進もうではありませんか。


終りに

 本日は最後に、私が大学時代に共に聖書研究会で交わりを持った同窓生の澤正彦牧師のことをお話して終わりたいと思います。韓国への宣教師となった彼は、政治的発言をしたことにより追放されて日本に戻り、今から10年前のイースターの翌日に癌で亡くなられました。その前日に奥さんである金ヨン姉、もう一人の牧師と共に最後に祈った言葉が次のように記されております。

「あなたの愛を、人に悟らせて、また、それを悔い改めをもって受け入れることができるようにしてください。多くの罪を赦し、これまで赦された生涯をどうぞ、悔い改めと同時に、赦された生涯を感謝します。神様あなたは、キリスト万歳、イエス様万歳、キリスト万歳、神様万歳!この生涯が嬉しかった。皆ありがとう、このことをまた叫ばせて下さい。今眠っていても起きていても、どうぞ眠りの中においても叫ばせて下さい。」

お祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 991110