礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年11月14日

第1コリント書連講(40)

「愛の献げもの」

竿代 照夫 牧師

第1コリント16章1-9節

中心聖句

16:1-2 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

(16章1-2節)

アウトライン

 パウロはコリント人への手紙第1の終わりに実務的な内容を記している。そこでは、苦難にあえぐエルサレム教会を助けるための献金の件について、短くコリント教会への伝言を述べている。

 我々はその中から、パウロが異邦人伝道を通じ、またその異邦人教会からの経済的援助をエルサレムに届けることによって、キリストを拒み続けるユダヤの民への宣教を行いたいと考えていた。

 献金はキリスト教を立ち上げたエルサレム教会への感謝の表れであり、また苦しんで貧しい人を助けるという愛の表れであり、また異邦人伝道の成功を証しするものでもあった。

 また、献金は十分な準備をして、定期的にその人の繁栄に応じて行い、全員が喜んで心から行うものである。さらには、その管理もしっかりとしたものにしなければならないし、霊的なことを優先する必要がある。

 主からの恵みをよく吟味し、神様に用いられるよう献金をさせていただこう。
 

教訓:愛をもって献金する


導入

 現代は健康コンシャスの時代とも言われております。多くの人が健康に大変気をつけておりますが、ある本では一日に30品目以上の食品をとることが健康維持に大切であると書かれておりました。これはこの数が問題なのではなく、健康の維持にはその食品に含まれるだけの栄養のバランスが大切だといっているわけです。

 聖書を毎日読むと言うことは、霊的に考えますとまさにこのようなことです。聖書は非常にバランスのとれた食品のようなものであり、これを書くと私たちの健康的な日々の生活が送ることが出来なくなってしまいます。それは聖書の言葉が食品の栄養素と同じように、私たちの日常生活にとって実際的に役立つことが多く含まれているからであります。

 前回までの箇所では、コリント教会が直面していた数々の問題点や間違いに対して、パウロがそれぞれについての対応策を示しておりました。そして先週は、復活が如何に私達の生きる希望となっているかについてとりあげましたが、それがこの手紙の実質的な部分の終りになっております。

 今回は、第1の手紙の締めくくりの部分で、パウロの宣教旅行に関した実務的な事がらが記されている箇所ですが、ここでも実生活への大きな示唆が示されております。

 まず最初に取り上げられていることは、エルサレム救援の募金・献金のことでした。私は個人的には「武士は食わねど高楊枝」と言うわけではありませんが、余り献金のことをとやかく言いたいとは思いません。教会で献金の話をしますと、たまたまその時に始めて教会に来た人は「何だ教会もお金のことばかり話すのか」と言う印象を持ってしまうかも知れません。しかし、お金の部分は実生活を過ごす上で避けて通れないほど大きなパーセンテージを占めておりますので、このような機会にお話しさせていただきたいと思います。


A.聖徒の為の募金(1-4)

1-4節でパウロはこう語っております。

「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせては遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。」


1.募金の必要:ここで書かれている「聖徒たちのため」の献金というのは、エルサレムの貧しいクリスチャン達を助けるために全世界のクリスチャンが募金をしようという運動のことを指します。今で言うなら、トルコや台湾の大地震に際して募金活動をするようなものです。今ならマスコミなどでその日のうちに情報が世界各地に伝わりますが、パウロの時代ではそのようなことはありませんでしたので、パウロ自身が大きな目的を持ってこの運動を宣教地に浸透させていったわけです。

では、なぜエルサレムのクリスチャンたちは困窮にあえいでいたのでしょう。エルサレムの人々が貧しかったのは、ユダヤ全体の政治的不安定が根底にありました。さらに、クリスチャンの受けていた迫害がその経済的困難を増幅していたようです。使徒6章にある日々の施しの記事は、エルサレムにいた初代クリスチャン達の貧しさを示しております。

加えて、折々の飢饉の故に貧しさが厳しくなっていたようです。そのひとつが使徒11:28-30に記されております。

「アガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」

これは、コリント書の10年前、AD45の時の事で、この時既のパウロ(サウロ)は第一次エルサレム救済献金に携わっていたのでした。

第1コリントで書かれているパウロの第三次伝道旅行で行った募金は、この時から比べるとはるかに大規模なものでした。それは、その献金活動を通じてパウロにはある
壮大な計画があったからです。


2.募金の目的:

1)感謝の表われ

異邦人福音宣教という霊的な祝福を頂いた異邦人教会が、その祝福の源となったユダヤ人教会に感謝を表わすという意味が、この募金活動には込められておりました。いわば「ピンチの母教会を助けよう!」というものでした。

ローマ15:25ー27には

「今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」

と記されています。マケドニヤはピリピ教会のあったところでありますし、アカヤはコリント教会のあったところです。また、第二コリント8:19にはこれが「恵みのわざ」であり、「私たちの誠意を示すため」とも記されております。

2)愛の表われ:

もう一つの理由は、神様からいただいた恵みを貧しい人々に分かち与えようという愛が動機であったということです。

第二コリント8:13、14でパウロは

「私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」

と書いています。これは片方が豊かで、片方が貧しいと言う状態を放っておいては良くない、共産主義のような制度や義務の上での形ではなく、愛のゆえに平等であるべきだ、と言う考えがあったからです。

更に理由を加えるならば、エルサレム指導者との約束もあったでしょう。ガラテヤ2:9、10では、

「私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」

と記しております。パウロが伝道旅行にでかける前に行った「貧しい人々を忘れるな」というエルサレム教会指導者との約束を今果たしている訳なのです。

3)証しの為:

理由の三番目としては、「救いはイスラエル(すなわち割礼を施したユダヤ人)に限られる」という狭い考えを持っていたエルサレム教会の人々に、「救いは全世界の異邦人に及びました。その証拠がこの愛の献金ですよ。」という証し、あるいは啓蒙的な意味があげられます。パウロの世界宣教のビジョンにとって、「割礼の有無に関わらず救いを受けることが出来る」と言う内容は譲れない一点でありました。

第二コリント9:12、13には、

「なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。」

とその証し的な意義が記されております。

もう一つ付け加えさせていただけるなら、福音を頑なに拒んでいたユダヤ人に「それによって妬みを引き起こさせてその幾人でも救おう」(ローマ11:14)というパウロの伝道的目的も含まれていたように私は思います。パウロにとっての重荷は、「世界宣教で多くの民を救いに導いたが、一方で同国人のユダヤ人にはいまだに多くの救われない人間が残されている」と言うものでした。しかし、彼は世界宣教の一つの成果をエルサレムに示すことで、ユダヤの人にねたみを引き起こしてでも、一人でも救いたいと考えていたのです。


3.献金に関するいろいろな表現

ここで、ちょっと脱線するようですが、この際、献金について新約聖書で使われている用語に目を留めて見たいとおもいます。

1)献金(ロギア)=当然払うべき税金などとは別に自発的に捧げるお金
2)
恵(カリス)=受ける価値がないのに受けた恵に感じて捧げるもの
3)
交わり(コイノーニア)=交わりの印(第二コリント8;4)
4)
奉仕(ディアコノス)=クリスチャンの奉仕の一形態(同9:1)
5)
横溢=恵の横溢・あふれ出ることです(同8:20)
6)
祝福(ユーロギア)=祝福の心をもった贈り物(同9:5)
7)
奉仕の業=ボランティアの奉仕
8)
施し=使徒24:17
9)
供え物=同上

このように、献金には色々な意味があり、目的があることが分かります。

余談:5)の献金をあらわす横溢で「あふれ出る」というのは「絞り出す」のとは違います。ビリーグラハム大会で聞いたこういう小話があります。ある市場で大男がオレンジジュースを絞って売っていたそうです。この男は大変な力持ちで、カスカスになるまでオレンジを絞ってジュースにしておりましたが、あるとき「この私が絞ったオレンジから一滴でも絞ったものがいれば賞金を出そう」と言ったのです。これを聞いた何人もの腕に覚えのある男たちが挑戦しましたが、だれも一滴も絞れませんでした。そのうちにある痩せた小男がやってきて挑戦しました。誰もが「あの男には出来まい」と思っていたのですが、なんとその痩せた男がオレンジを握りしめると、一滴、二滴、三滴と汁がしたたり落ち始めたというのです。これを見たオレンジジュース売りの男が、「これは驚いた。あなたは一体何ものですか?一体どういう秘訣があるんですか?」と聞いたところ、その痩せた男は「私は教会の会計です。」と答えたというのです。(爆笑)



4.献金の方法についてのパウロの示唆

1)充分な準備をしなさい。

泥縄で献金するようではいけません。集会で慌ててポケットを探るようなことではいけないということです。十分な準備をして献金に望むことが大切です。

2)定期的に(主の日に)それを行いなさい。

この箇所の記述から、当時のクリスチャンが既に日曜日を礼拝の日(ユダヤ教では土曜日が安息日)としていたことが示唆されます。日曜日に礼拝の時に定期的に献金するように勧めていたわけですが、これは一時にまとめてというのは難しいかもかもしれないが、定期的にという習慣を付けると楽にできるものだと言うことを指摘しているわけです。

3)収入(繁栄)に応じて

献金はその人の経済力に応じて行うもので、無理をする必要はありません。また、義理や見栄ですることもないのです。しかし同時に、繁栄(新改訳では「収入」となっていますが言語的には「繁栄」の方が近い)の目的をも良く考える必要があります。神が私達に繁栄を許しなさるのは、神の御用に役立つためであり、個人の欲望を満たすためではないのです。

John Wesley は興味深いことに、説教の中で教会員に「出来るだけ儲けなさい」と語っています。これは世に富があふれるなら、それをクリスチャンが少しでも集めて神の御用に用いるようにということであり、彼は同時に「質素の生活(simple life) 」と「出来るだけ貧しい人に与えなさい」と語っております。

4)各々が

献金は会員全員が額の多少に関わらず行うことが大切です。額が少なくても、全員が参加し、皆が積み重ねることが大切なのです。

5)霊的営みが献金集めに優先する

パウロは自分がコリント教会を訪れるときは、すでに献金について気を配らなければならない状態を終えていて欲しいと言っています。つまり彼は、コリント教会に行ったときは純粋に霊的な目的の話しをしたかったのです。

6)明朗な会計システム

パウロは、複数の人がお金を取り扱うこと、迅速に送るべきことを示唆しつつ、不必要な疑念を起こさせないように配慮を示しております。お金はとてもデリケートな問題であって、この問題でつまずく教会が多いのも事実です。私達は献金に対する明確な理解、良き動機をもってこれに加わりたいと思っています。それを扱う教会会計も、疑念の余地を残さないような明確な会計システムを持つこと、情報公開で皆の理解を得ること、予算・決算を明らかにすることが大切です。実際私たちの教会では、高橋会計・赤石会計のご努力により、毎月面倒に見えるようでも会計報告をさせていただくなどで、会計制度の明朗化に努めているのです。

7)喜んで

喜んで、感謝の気持ちで献金することが大切です。無理をするのでもなく、惜しみつつするのでもなく、感謝の心を持って、喜んでこれを行いたいものです。

第二コリント9:5-7には

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

と記されています。「喜んで与える人」と言う言葉には、最も豊かであられた主イエス・キリストが、クリスマスで貧しい馬小屋で卑しい人間の姿としてこの世に来られ、罪もないのに十字架に架かってまで、我々を救い、豊かにされたお姿が投影されるのです。



今日は、献金という普段余り扱わない、しかし大切な問題を扱いました。献金の中に表われる私達の神への感謝、周りへの配慮、それによって学ぶ信仰の学課をしっかり学ぶものでありたいとおもいます。また、与えられた金銭をどういうものと見るか、どう扱い、どう管理するか、私達の金銭管理をしっかりと行い、simple life に心がけて、主の前に歩ませていただきたいと思います。

Edited and written by K. Ohta on 991114