礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年11月21日

コリント書連講(41:終講)

「愛をもって一切のことを」

竿代 照夫 牧師

第1コリント16章5〜24節

中心聖句

14いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

(16章14節)

アウトライン:

 第一コリントの講解も、いよいよ今日で終わりとする。

 パウロはこの章で、自分の計画、推薦状、挨拶などいわゆる実際的な事を述べている。

 しかし、その根本を流れる思想を一言で言うならば、それは「愛」である。

 そしてパウロは、「一切のことを愛をもって行いなさい」と勧めを述べている。

 この「一切」という言葉の中には、私たちの「すべて行動」と「すべての人へ」と「愛だけ(名誉や競争でなく)」が含まれる。

 私たちは、この言葉を、パウロの、否、イエス様ご自身の教えとして、日々の営みの中で、実践していきたい。

教訓:ほんとうの愛の実践


導入

 昨年の7月から学んでまいりました第一コリントの講解ですが、名残惜しい気もしますが、いよいよ今日で終わることと致します。本来であれば、2回に分けて学びたい手紙の締めくくりの部分ですが、クリスマス講壇を控えており、今日で終ることが日程の上からは区切りが良いのかと思いまして、少し無理を承知の上、16章全体を学ぶことに致します。

 16章は、これまでのようなコリント教会内部の問題を扱うというより、パウロ自身の旅行の計画、献金のプロジェクト、推薦状といった実務的な内容で締めくくられております。しかしながら、実務的な文章の中にも、キリストにある者の愛の配慮というものがうかがえますので、学ぶに価値のあるものと思われます。


第16章 5〜24節 概観

 それでは、アウトラインを見てみましょう。

1)訪問の予定(=伝道者の教会への愛)

 まず5〜9節ですが、これは、パウロの旅行の計画が述べられています。すなわち、このパウロが手紙を書いている年を西暦55年としますと、コリントにおいて56年の冬越しをしたい、そして、それまでは今いるエペソに滞在したい、というわけです。

@コリントでの冬越し

5-6 私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。

 旅の途中でちょっと寄るというような軽い訪問ではなく、落ち着いた交わりを持ち必要な勧めと矯正を行い、彼等の見送りを得てエルサレムに行く、とパウロはその計画を述べているのです。パウロは何とセンチメンタルなのでしょう!。もっとも、この計画はコリント教会の反対グループの存在のために延期となりました。

Aそれまでのエペソへの滞在

8-9 しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。

 パウロにとってエペソでの教会建設は命を賭けた重要なプロジェクトであり、その為に為すべきことが山積していました。福音に対する人々の反応も大きかったのです。と同時に、反対勢力もそれに比例して大きくなっていました。それで、このまま去る事は無責任であるので、ある程度働きの目鼻がついてからエペソを去るべきと感じていたのです。

2)同労者の推薦(=伝道者同士の愛)

@テモテ

10-11 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

 この手紙の運び人であるテモテを受け入れ、また、平安の内に送り出して欲しいとパウロは要請しています。パウロは、コリント教会が伝道者に対して非常に批評的な態度を持っていることを案じて、テモテを心配させたり、軽んじたりしないように願っている訳です。

Aステパナ達

16-18 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。

 コリント教会の代表者としてパウロを安問していたステパナ達を労いつつ、彼等指導者達に服従するようにとパウロは勧告しています。伝道者に対する小さな奉仕によってどんな大きなリフレッシュメントを与えるかの実例をここにも見ることが出来ます。ここでは「安心させて」とは、「休ませて」または「リフレッシュして」という意味です。

B勧め

13-14 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

 この推薦文の中間に、勧めがあります。「目を覚ましていなさい。」とは、コリント教会に入り込んでくる福音的ではない諸要素についてであり、「堅く信仰に立ちなさい。」とは、聖書の信仰に堅く立ちなさいの意味であり、「男らしく、強くありなさい。」は、勇気への勧めです。そして今日の中心テーマである、「いっさいのことを愛をもって行ないなさい。」と勧めが述べられています。

 今日ここに注目したいと思います。愛こそ全ての徳を繋ぐ帯であり、全ての徳の前提条件です。主を愛するから、目を覚まし、主を愛するから堅く立ち、主を愛するから勇気を持ち得るのです。

3)よろしく(=教会内の愛)

19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

 エペソ教会を中心としたアジヤの諸教会からと、アクラ・プリスカ夫妻とその家庭集会のメンバーからのよろしくを伝えています。教会の交わりの広さと深さを示唆する挨拶です。

21-24 パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。

 最後の締めくくりの部分、パウロが自筆で挨拶を書いています。

 「主を愛さない者は呪われる」(アナテマ、ギリシャ語で呪いという意味)は、「主を愛さない」に強調点があり、愛の絶対性を示しています。「主よ、来てください。」(アラム語で主は来る、との意味)は、再臨への切なる待望です。

 「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。」は、人間の愛の源である主による私(パウロ)の愛が伴う様に、との願いです。ここに、「一切のことを愛をもって」とのパウロのスピリットがうかがえます。


終りに(パウロの勧め:愛をもって一切のことを)

 最後に14節の聖言で終わりたいと思います。

14 いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

 「一切のこと」の中に私達のあらゆる活動が含まれています。教会における活動だけが、愛をもって行うのではありません。私たちがきびしいビジネスの只中にいる時も、商談のやり取りをする時にも、満員電車の中で足を踏まれそうな時にも、あるいは、勉強して激しい戦いのある時にも、「一切の」という中には、私たちの全ての活動が含まれているのです。その時に、私たちは、愛をもって活動しているでしょうか。「一切のことを愛をもって」、パウロはこう語っています。どうぞ、私たちの愛というものが断続的なものでなくて、すべての分野、活動に広げられるものであることを祈り、実践しようではありませんか。

 2番目に、「一切のこと」には、私達のあらゆる人間関係が含まれる、ということであります。伝道者同士、伝道者と信徒、信徒同士における人間関係はもとより、ノンクリスチャンとの人間関係など、あらゆる人間関係が含まているのです。私はこの人は好きだから愛するけど、この人はきらいだから愛さない、では、異邦人が自分に挨拶する者に挨拶するのと同じではないか、とイエス様は語っています。私たちは、すべての者に雨を降らし、太陽の日を照らして下さる神様のご愛をもっているならば、私たちは、私たちに敵する者に対して、心から尊敬し、言葉をかけ、その方の祝福を祈るべきではないか、これがイエス様の教えであります。

  3番目に、「愛をもって行ないなさい」とは、愛だけの動機で行いなさいということであります。愛以外の動機が混じってはならりません。しばしば、私たちは、人のためになるようなことをする、けれどもついでに、私の名前も少しは認めてもらいたい、あるいは、これだけのことをしたんだから、相手から感謝をされて当然だ、というような見返りを求める気持ちがないでしょうか。混じってしまうことがありますね。これだけのことをしたのに、ありがとうの一言もない、・・、人間ですからそういう場合、ムッとしますよね。ムッとするのはきよめに反するでしょうか。私は反しないと思います。けれどもムッとしながらも、「神様、ムッとさせられるような人ですが、どうぞ祝して下さい」とお祈りしたならば、すばらしいと思います。私たちのすべての行動の中は、愛だけが動機であるのであって、その他にそのことを通して自分も得をしよう、自分の名声を高めたい、競争心、嫉妬などが寸分でも混じってはなりません。

 主が私たちに求めているのは、純粋なナルドの香油なのです。初めていらっしゃった方のために、ここでちょっと説明しましょう。主イエスキリストが十字架に掛かられた最後の週、ベタニヤで休んでおられた時に、マリアが石膏の壷を持って来ました。この中には、非常に価値の高い、300デナリの価値の香油が入っていました。1デナリは、当時の労働者の一日の報酬ですから、労働者の1年分の労働に匹敵するのです。マリアはその壷を割り、香油を全部、イエス様に塗られたのです。周りの人たちは、何と無駄なこと、他にも方法があるだろうに、と彼女を非難したのです。しかし、イエス様は、この女のするがままに任せておきなさい、この女は、自分に出来る限りのことをして、私の葬式の準備をしてくれたのです。イエス様は彼女の心を見られたのです。彼女のこの行為は、福音が全世界に述べ伝えられる時に、キリストの福音と共に語り告げられるだろう、とまで賞賛されたのです。

 私たちの愛の行動は、人には評価されないかも知れません。他の人から見れば、何でそんな愚かなことをしているのか、と言われるかも知れません。けれども、私たちの心が、一生懸命このことをもってイエス様にお仕えするのだ、というものであるならば、他の人が何と言おうがよいではありませんか。

 主が私たちに示して下さった愛をもって、私たちは、心を尽くして主を愛し、己のように隣人を愛する者とさせていただきたいと思います。これをもってコリントの手紙の講解を締めくくりますけれども、どうぞ、この「愛をもって行ないなさい」という教えを、パウロの、否、イエス様ご自身の教えとして、日々の営みの中に、実践させていただきたいと思います。

 お祈り致しましょう。

Do Everything in LOVE !


Editied and written by N. Sakakibara on 991123