礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
99年11月28日
アドベント連講(1)
「ただ一度だけ」
井川 正一郎 牧師
へブル人の手紙10章
9この御心に従って、イエス・キリストのからだが、ただ1度だけささげられたことにより、聖なるものとされているのです。 (10章9節) |
アウトライン: ただ1度だけとは
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教訓:イエス様の血潮によって洗っていただき、血潮によって洗いきよめていただこう。
導入
今年もクリスマスのシーズンを迎えました。クリスマスは、イエス・キリストのご誕生を祝う日、記念のときであります。その意味・目的について、多くの思い巡らしがなされてきました。学生時代に、クリスマスの意味・目的について7つの面から学んだことがありました。
クリスマスは,人間の贖いのためになされたものですが、具体的に、
(1) 神の約束のたしかさを示すため。預言は成就する。
(2) 父なる神をあらわすため。目に見えない神を見ることができるように。
(3) 忠実な大祭司となるため。
(4) 罪を取り除くため。
(5) 悪魔の技をこぼつため。
(6) きよい生活・生涯の模範を示すため。真の人間の生き方を示すため。
(7) 再臨の備えを示すため、
であります。
聖書全体から,このように学びました。ある人は、「…するため」と記されている聖書のお言葉から、クリスマスの意味を学びます。
マタイの福音書には、イエス様がこの地上に来られたのは、律法や預言書を廃棄するためでなく成就するためであると、
マルコの福音書には、人の子がきたのは、仕えられる為ではなく、かえって仕えるため、また、多くの人の為に贖いの代価としてご自分の命を与えるため、
ルカの福音書には、人の子が来たのは、失われた人を探し救うため、正しい人を招くためでなく、罪人を招くために、
また、パウロは、キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものであると、
また、このヘブル書では、主賀人と同じ血肉を持たれたのは、憐れ深い、忠実な大祭司となるためであると、そして,ヨハネは、悪魔のわざをこぼつ為に,神の子が現われたと,それぞれ記しています。
今回は、特に,ヘブル書を開きました。
申し上げましたように、ヘブル書は,キリストがこの世に来られたのは、忠実な大祭司となるためと記しています。ただ1度だけ―――このことばが、今年のクリスマス講壇の第1回目のメッセージであります。
ヘブル書は新約のレビ記と呼ばれていますが、「よりすぐれた」御方=キリストがおられていることを示している手紙であります。
「よりすぐれた」−務め、約束、契約の仲介者,希望とのことばがキーワードの一つです。繰り返しますが、ヘブル書は,特に大祭司としての務めを果たすために地上に来られたキリストを示しています。これが、クリスマスの一つの意味であります。「ただ1度だけ」――これが、今回のメッセージであります。
では、その意味するところを、4つの面から考えて見ます。
(1)まず第一に、当たり前のことを申しますが、これは,確かになされた歴史上の出来事・事実であったことを意味するのであります。
ただ1度だけ、ということは、少なくとも一回という回数が考えられます、それは、そう言う出来事が合った,事実があった、ということを意味します、これは大切な宣言、ステイトメントであります。
クリスマスは、キリストの生涯,十字架、そして復活も全て歴史的事実であるとの宣言であり、作り話しでも、お伽話しでもありません。事実であります。これは、わたしという個人の進行にとって、また皆様にとっても、信仰土台となる、大切なステイトメントでありますので、あえて、ここでポイントとしました。
数週間前に、H2ロケットの打ち上げがありましたが、あたかも人工衛星が地球の回りを何回も回って再び地球に戻ってくるとき、太平洋のこの地点・この地点と言う、その計算されたピンポイントにおります。
クリスマスは、神の側から見れば、この小さな地球のという衛星の,また狭いイスラエルという国の中の、さらに狭いベツレヘムの、さらにそのピンポイントというべき馬小屋の,さらに狭い、飼葉桶というところへ、見事な出来事が起きたのであります。歴史的な出来事であります。
(2)第二番目に、本来の第1ポイントでありますが、これは、完全・完璧を意味するのであります。
不完全であり、足りない所があるとか、補うところがあるとか、そういうことが一切ないものであります。失敗したと言うことで、やり直すとか、繰り返す必要の全くない、完全・完璧を意味するのであります。1度きりで完全・完璧な御わざであったのであります。
先ほども振れましたが、数週間前に種子島からH2ロケットが打ち上げられましたが、失敗しましたね。今後の気象情報や、宇宙開発の分野で相当に遅れをとるとのことであります。気象衛星は、あと2年間もつ電池がつまれているとのことですが、何百億かの損失、失敗であります。しかし,クリスマスのみわざは失敗ではありません。ただ1度だけで、完全、完璧なものであります。
7章24,25に有名なお言葉があります。
ヘブル7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、代わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を,完全に救うことがおできになります。
ついでですが、7章の27節にもう一つ,大切な「ただ1度」という個所がありますので、しるしを付けていただきたいと思います。
7:27 ただ1度でこのことを成し遂げられたからです。まさに,繰り返す必要のない、ただ1度であると言うことです。先ほども申し上げましたように、ヘブル書は、新約のレビ記とも呼ばれています。レビ記との対比で記してあるといってもよいと思います。
レビ記に記されている大祭司とは、民の贖いの為に、とりなしをするもにとして聖別されたものですが、ヘブル書に記されてある新約の大祭司、すなわちキリストとの違いがいくつかあります。
旧約聖書での大祭司は、
a) 人間・罪人であること。民の罪を贖うが自分のためにもせねばならない。
b) 年1度,必ず、毎年繰り返し必要がある。
c) 動物の血を携えて、いけにえの血を携えてなされるもの。
これに対して、新約聖書での大祭司は、
a) きよき人間が全ての民のために、
b) ただ1度だけ、
c) それもご自身をいけにえとして、ご自身の血をもって贖い、とりなす。
いってみれば、ただ一度だけのみわざで完全・完璧であり、贖いに必要なすべてのものを含まれていることを意味します。(3)ですから、第3に、この「ただ一度だけ」とは、永遠、世界大、全ての人に及ぶものであります。
いちどとは、限られた時間のものではありません。限られた地域・範囲のものでも、限られれ他人たちだけのものでもありません。永遠のもの、世界大にひろがっっているもの、そして全ての人に及ぶものであります。
ヨハネの福音書に、もろもろの人を照らす真の光がやってきたとありますが、太陽・日の光は,全ての人に例外なく及ぶものであり、誰でもその恩恵にあずかることができるのであります。
完全で,完璧なみわざであるからこそ、時代を超え、どの時代でも、どの民族であっても、「神に近づく人々」が、この1度だけの恩絵に預かれるのであります。
(4)そして第4に、「1度だけ」とは、「聖なるもの」とするとの目的を持っているものであります。ヘブル書10章10節、大切なお言葉ですので、ごいっしょにお読みしましょう。
ヘブル10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ1度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
聖なるものとは、全うするとの意味であり、全うするとは、不完全であったものを、ついに何の不完全さも見られないようにする(なった)ということ、すなわち完全となった、全うされたという意味です。
聖なるものというとき、罪汚れがあるとき、人は完全ではなく、不完全であります。聖なるものとするために、クリスマスがただ1度だけなされ、罪の解決がなされました。完全、そしてこの聖なるものの中身は、いわば救いの全部が盛り込まれています。
悔い改め、救いのスタートだけでなく、きよめ、復活・栄化まで、まさに永遠の天の御国にいたる恵みの全部が入っています。これをぶつの言葉から見てみましょう。
ヘブル9:14 まして、キリストが傷のないご自身を,とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
このことばは、その具体的内容であるといってもよいでしょう。
聖なる者,救い・きよき者とせられる恵み、ただ1度だけの完全なみわざによって、永遠まで約束されているのであります。で、その聖なるものとされる方法が、特に血によってなされることに心をとめたいと思います。
血とは、ヘブル書では、「1度だけ」のほかにも、「忍耐」「信仰」「忍耐」「約束」、Let us−レット・アス――…しようではありませんか−ということばがありますが、「血」ということばも、大切なお言葉であります。
ヘブル書は、血の流れている手紙、血がにじんでくる手紙、血だらけの書簡だと思っています。
ちょっと,聖書でその言葉を捜してみますと、9章7節、12節、13節、14節、18節、10章19節、22節、12章24節、13章11章、12節、20節とあります。
あのゲッセマネで祈って下さった主イエスがいまも、大祭司として、どうしようもないようなこの私の為に、汗が血のしずくのように流れてとりなしてくださっています。なんということでしょう。1つもそのような思いをもって読むのが、ヘブル書であります。
では、血によってとは、具体的には、
A)まず、いのちの犠牲がある事であり、救いは犠牲の上に成り立っています。命は血の中にあり、贖いの為に、血が、いのちが要求されています。9章22節、10章4節にありますように、キリストの血によってだけ贖いが成りたつのであります。
クリスマス物語は,心あたたまるものです。お星様が光って,らくだが通りますが、実は、舞台裏では血が流れています、あたかも、祝会のとき、幼年、CSの幼子たちがかわいく演技しているとき、かげで汗だくになって先生方が、舞台下あるいは舞台裏で苦労していうるかのごとく、クリスマスとは、その血潮を流してくださるために生まれてくださったといえます。
B)命が失われたと同時に、新しい神の命があたえられたことであり。
C)また、命があたえられたとは、神と同じ性質が与えられたことであります。
D)そして、きよめの生涯を送ることができるのであります。良心をきよめ、罪の行ないを切り離すことができるのであります。そして,生きる神の心より仕えることのできるものとなります。
では、私たちの生活にどのように適用して行けばよろしいでしょうか?
箇条書き的に,一つだけ取り上げます。
それは、「血潮によって洗って頂き、血潮によって洗いきよめていただこう」、血潮のシャワーをあびながら自分を吟味し、洗い流し、きれいになものとさせていただこう、レット・アスであります。
10年くらい前に、天に帰られた渡辺勧士のお証詞をご存知かと思います。毎朝出勤するとき、玄関先で奥様の手をとり、握手してお祈りのときを持っておられました。人間、いつどうなるかわからない。これが地上の最後の別れになるかもしれないとの思いも持ちながら、いつも、あのことばを口にしてお祈りしたと言います。そうです、「その子イエスの血、すべての罪より我らをきよむ」であります。これが地上での最後の別れであったとしても、お互い、一切のわだかまりもない。確信を持つことのできる関係であるから、心から「行ってきます」と安心して出かけることができたのであります。おたがい、握手するかどうかは別としして,夫婦が,親子が、また兄弟たちが、また友人の間で、お互いが「その子イエスの血…」であったならば、どんなに幸いであるでしょうか。
数日前の悲惨な事件=文京区音羽での事件で、被疑者は「長い間、親同士の心のぶつかり合いがあった」と供述しているといいます。其れが本当の動機かはべつとしましても、お互い、あの人との間に「心のぶつかり合い」があっては大変です。また、神様との間に「心のぶつかり合い」が会っても大変です。心のぶつかり合いのまったくない関係、わだかまりのない関係でありたいものであります。
其れをきれいにしてくださるのは、間にはいって、とりなしてくださる方、キリストの血潮=「その子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ」―――2000年前に起きた「ただ一度だけ」のみわざは、いまもこれからもわたしたちにあてはめられる幸いなものであります。そして、聖なるものとさせていただこうではありませんか。…しようではありませんか、これが今回のメッセージであります。
Editied and written by K. Ootsuka on 991204