礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年12月5日

アドベント連講(2)

「クリスマスに現れた恵み」

竿代 照夫 牧師

第二コリント8章1-9節

中心聖句

9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

(8章9節)

アウトライン:

主イエスは神の栄光と力を持つ富んだお方であったが、自ら人間の形を取られ、貧しさと苦しみの中を生きられた。この恵みのゆえに、我々は罪から救われ、高められたのである。これがクリスマスの意義である。

私たちはその恵みを感謝して頂戴し、それに答える者となろうではないか。

教訓:クリスマスの恵みの本当の意義を知る。


導入

今日はアドベント(待降節)の第二の礼拝です。先週から主が来たり給うたことの意義を、色々な角度から学びつつありますが、今日は主キリストの謙遜という角度から、この9節の聖言を中心に学んでみたいと思います。

この第二コリント8章と9章は、3週ほど前に第一コリントの連講(最後の16章後半)で触れたように、パウロが始めたエルサレム教会救援大募金計画について語っている所です。

ここでパウロは、コリント教会内の募金状況が余り進んでいないことを懸念しています。しかし彼は、そのようなコリント教会に対していきなり「それではダメだ」と言うことはせずに、マケドニヤの諸教会(ピリピ・テサロニケ・べレヤの教会)の良き模範を示しつつ(1節)、彼らがそれを完了するようにと励ましています。さらに、命令口調ではなく、恵みに感じる心から自発的に献金するようにと勧めております(6−8節)。

そして彼らが恵みに感じるべき理由として、クリスマスから十字架に至る主キリストの恵みを挙げながら、キリストが全てを捨てて下さった模範について述べているのが9節となります。その内容を一言で言いますと、キリストが貧しくなられたことによって私達が富む者となったと言うことです。これは言い換えますと、宇宙規模のシーソーゲームと言うことが出来ます(左図参照)。


I. キリストは富んでおられた

1.神ご自身のかたち:
キリストは富んでおられた方でした。しかし、裕福だったというわけではなく、神ご自身であるという意味で富んでおられた方でした。

ピリピ2:6を見ると「キリストは、神の御姿」「神のあり方」というもっと詳しい表現が出て参ります。前者は神としての実質、後者は神と等しくある立場を表します。どちらを見ても、主イエスが神ご自身であられたことが判ります。これはキリスト教の、主なる神=イエスキリスト=聖霊の「三位一体」をあらわしています。その存在の態様は勿論知り得ないものですが、父なる神との深い交わりの中にあって、主イエス・キリストが神たる実質と姿をもっておられた事は確かです。主イエスは、神様が我々を愛してくださると言うことを代表する、神の一つの側面・人格なのです。

2.神の栄光:
ヨハネ17:5には「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」という表現で、17:24では「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光」という言葉で、天地創造の前から父なる神とともに大きな栄光に包まれておられたキリストの姿が描かれています。

3.神の力:
ヘブル1:8、12には「(御子については)神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。・・・あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」と記されております。主イエス・キリストが支配者としての権威、力を備えておられたことが分かります。


II. キリストは貧しくなられた

キリストの恵みを知ると言うことは、キリストの三十有余年の人生を、一人の偉人の人生と捉えるの以上のことがなければなりません。それは、主イエスが神の座という最高の栄光の地位を捨てて、罪深く悩みの多い貧しい人間の姿を取られたことが、いかに犠牲に満ち、また謙遜にあふれたものであったかを知ると言うことに他なりません。

1.人間のかたちを取ったこと自体が...

ピリピ2:7,8には、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ・・・」とありますが、人間の形、構造、もっというならば弱さをまとわれたこと自体が大変な謙遜です。

これはなかなか喩えづらいものがありますが、あえて言い換えますと、今日皆さんに「一日蟻になって下さい」と言われて、そうするようなものなのです。主イエスの犠牲とはそれほどの大きなものであり、実際はそれ以上のものであったわけです。

2.文字通りの貧しさの中に生きられた:

主イエスは馬小屋でお生まれになりましたが、当時でもそんな貧しい状態で生まれてくる者はほとんどいませんでした。そして幼児期から十字架に至るまで、人間の社会、醜さと欲望の渦巻く社会の中にもまれて生きて下さったのです。また、乞食と同然のような、何も所有せず、貧しさの極みのような境遇に自らを置いたのです。この主イエスの地上における貧しさとは、中途半端の貧しさではなく、物乞いをしなければならないほど無一物となるほどのものだったのです(ptoocheuooの文字通りの意味はそうである)。

それはクリスマスの時だけの一時的なものではなく、キリストの一生を貫くいわば生き様でありました。つまり生き方の方向として、上昇志向ではなく下方への傾きを持っておられたのです。より貧しく、より低い道を選ばれました。税金を払うお金も無かった記事もあるほど質素な生活であったようです。別の記事を見ますと、「スズメ5羽勝った方が2羽買うよりお得だ」と言うようなことをおっしゃっておられますので、今で言いますところのスーパーの安売りなんかもよくご存じだったようです。さらには、十字架の上では下着すら奪われる本当の無一物になられてしまいました。

3.弱さ苦しさの経験:

主イエスは、しばしば飢え、疲れ、落胆し、私達の全ての感情の理解者となられました。救い主となられるために、我々と同じ様になり、罪を他にして我々と同じすべての苦しみを経験されました。ヘブル2:17には、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とあるし、ヘブル2:18には「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」とあり、ヘブル4:15には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべて点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあります。

4.そして最後は悪しき者達の手によって最も苦しい残酷な刑罰を受けられた:

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:8)。とありますように、このような苦しみの人生の最後は、身に覚えのない罪によって十字架にかかるというものでした。それは私たちの罪を贖い、私たちを富む者とし高めるためであったのです。


III. 私達が富む者となった

1.罪からの完全な救い

イザヤ書 53:5,6には、主イエスにより反対に我々が富める者となったことが記されています。「私達のそむきの罪の為に刺し通され、私達の」咎の為に砕かれた。彼への懲らしめが私達ね平安をもたらし、彼の打ち傷によって私達は癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と記されています。主イエスの十字架の犠牲により、私たちは罪の重荷、最後の審判への恐怖、死の恐れを除かれたのです。苦しみの極致を主イエスが経験された理由は、まさにここにあるのであり、そして最後に勝利の言葉「すべては完了した」とおっしゃられたのです。

2.神の右の座に座る恵み(彼の甦りに与ることによって)

そればかりでなく、エペソ2:6 に「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と書かれているとおり、私達は主イエスの永遠性により永遠の生命を与えられ、神の相続財産を受け継ぐ者とされたのです。

3.彼の恵みを素直に受けよう:

8章9節に戻りますと、パウロは、すべてこれらの事は主の恵みだと言っています。ここで言う恵みとは、受けるに値しないものに与えられる特別な顧みを指すものです。パウロはここでは「恵みを知っています」と言っていますが、本当は「その恵みの価値をあなたたちは本当に知っているのか?」と聞きたかったのではないかと私は思います。「本当に知っているか。」この質問は、今日の私たちにとっても重要な質問であります。知っているならば、本当に感動する筈であり、生涯が変わる筈です。


終わりに:それでは私達は何をすべきなのか

1)過去を割り引かずにしっかり正直に見つめること。自己中心の考えを捨て、主によって今栄光の身に変えられていることを知ることで、本当の意味の感謝の気持ちが出て参ります。

2)主イエスがどんなに大きな犠牲を払われたかを十分に評価すること。実感を持って主イエスの行われたことを知るべきです。

アーネスト・ステューイと言うアフリカ・テヌウィックの医療宣教師がおりました。彼は本国で豊かな医師でしたが、アフリカに赴き小さな診療所にとどまって献身的に働き、その診療所を大きな病院にまで成長させたのです。生い立ちは豊かでしたが、彼は貧しい現地の人と同じように生活しました。にもかかわらず、現地従業員たちの労働争議などで調整役に当たったため、罵声を浴びたりしたのです。これは主イエス様のようであります。

このように愛以外の何の感情も持たない人を取り上げて、人間というのは罵声を浴びせたりするのです。水戸黄門なら「この印籠が目に入らぬか!」と啖呵を切りたくなる場面ですが、それをやってしまうと神様の救いの計画が台無しになってしまうのです。主イエスは、そのような屈辱的な状態にあっても、最後までその計画に従われたのです。このような大きな恵みにより、私たちが救われたことを忘れてはなりません。

3)最後に挙げるなすべきことは、このような恵みを受け取ることです。せっかくの恵みでも、それを受け取ること無しでは何にもなりません。つまり主イエスの恵みを、信仰という形で受け取らないと何も起こらないのです。これは救いに限らず、聖潔や信仰の成長にも適用されることです。信仰の心を開き続けて下さい。

また、私たちはこのクリスマスの恵みを自分だけのものにするのではなく、他の方に対しても何らかの形でお渡しするべきではないでしょうか。その方法・道は無限にあります。どうぞこのようなクリスマスの恵みをも、ご自分のものとして下さい。

お祈りいたしましょう。


Editied and written by K. Ohta on 991211