礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年12月12日

アドベント連講(3)

「エッサイの根株から新芽が」

竿代 照夫 牧師

イザヤ書11章1-10節

中心聖句

11:1エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

(11章1節)

アウトライン:

 キリストの誕生はその何世紀も前から予言され、期待されて起こったできごとである。 そして、キリストは予言のとおりダビデ王の家系に生まれた。

 ダビデの王朝は永遠に続くという神の約束は、紀元前586年のエルサレム滅亡によって反故にされたかに見えた。

 しかし、ダビデの血をひくイエス・キリストの誕生と、その再臨のときに実現する神の王国によってその約束は成就する。

 ここではこのことを、一度は切り倒された切り株から新芽が生えてやがて実を結ぶことにたとえている。

 このことから、神の約束に対する忠実さを見ることができる。

 私達も人生の中でたとえ絶望的な状況や望みが断たれるような目にあっても、神は切り株から必ずや新芽を生やしてくださる方であることを信じ、常に希望をもって進もう。

 そして、神の国の支配原理である「愛」が私達の心の内を、家庭を、職場を、そして世界を覆い尽くすことを期待し、祈り求めよう。

教訓:クリスマスのできごとは、神の約束に対する忠実さを証明している。


導入

 今日はクリスマスを前にしたアドベント(待降節)連講の第3回目です。

 クリスマスとはご存知のようにイエス・キリストが誕生した日ですが、キリストはある日突然にお生まれになったのではなくて、その誕生は人類の歴史が始まって以来何度も何度も繰り返し予言され、期待されていた出来事でした。キリストの誕生以前に書かれた旧約聖書の中で、彼の誕生の場所、処女降誕、家系、名前、性格、働き、その死とよみがえりなどの全ての事が詳しく予言されています。

 例えば旧約聖書「イザヤ書」の7章、9章や11章ではキリストの誕生が明確に予言されています。イザヤは紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に予言していたのです。

 ここで、本日の聖書の箇所イザヤ書11章の中から、格別に第1節をご一緒にお読みいたしましょう。

「11:1
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 今日はこの11章1節に焦点をあててお話したいと思います。

 初めて聖書をお読みになられる方は「エッサイってどんな野菜?」とお思いになるかもしれません。(笑)実はここでは、キリストがどんな家系から生まれるかということが予言されているのですが、初めての方にもわかるよう順を追ってご説明したいと思います。

 この部分はその前の10章の続きなので、10章を読まないと前後関係がわかりません。そこでまず、10章にどんなことが書いてあるのかをざっと見てみましょう。


I. 予言の背景:アッシリヤへの刑罰(10章全体)

 10章では当時世界帝国として隆盛を極めていたアッシリヤが滅ぼされるということが予言されています。アッシリヤは今のイラクのあたりにあった国で、現代の大統領のサダムさんとは直接関係ありませんが、大変征服欲の強い国でした。

 イザヤ書の書かれた紀元前8世紀にアッシリヤは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。
 
 そのアッシリアが何故活躍したかという理由が10章の5節と6節に書かれています。

「10:5
ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。

 実はアッシリヤは神を敬わずに背いたイスラエルの民に怒った神が、これをこらしめるための道具として用いたのでした。

 しかし、アッシリヤは自分が道具であることを忘れ、道具としての活動範囲を超えて高ぶりと暴虐に走ったのでした。

「10:7
しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。

 そこで、神はアッシリヤより強力な国バビロンを興してアッシリヤをも滅ぼそうとされました。

「10:15
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。

「10:16 それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。

「10:24 それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。10:25 もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。10:26 オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。

 そして33〜34節では主の裁きが全土に及ぶ様子が描かれています。

「10:33
見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。

10:34 主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。

 そのような裁きの中でレムナント(=残りの人達)と呼ばれる神に立ち返る人達もいました。

「10:20
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
10:21
残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。

 そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれることが次の11章で続いて予言されるわけです。


II. エッサイの根株:メシヤとその王国

「11:1
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 この新芽は全ての物が失われ、滅び去った後に奇跡の様に、或いは不死鳥の様に甦る王国及びその中心人物を指しています。ユダ王国が徹底的に滅ぼされても、その破壊の廃墟から新たな生命が生まれ出るのです。

(OHP1)

 根株というのは切り株のことですが、古くなって衰えた木を切り倒した切り株から新しい芽が出てきて再び新鮮な木として成長し、やがて実を結ぶというのは植物界の道理であります。

 それをイザヤはダビデの家にあてはめているのです。エッサイとは実はダビデ王の父親の名前で、野菜とは関係ありません。そのエッサイの子供ダビデ王の築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によって王朝は一度は切り倒されるけれども、そこから新芽が生えてメシア(救い主)が生まれるというのが、この11章1節の予言です。

 その中心人物はメシヤ(救い主)であり、それはエッサイの家系(ダビデ王の家系)から生まれると予言されています。「枝」とは、華やかなもの、飾りに使うもので、メシヤを象徴しています。

 ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神より与えられていました。

 第Uサムエル記7:16にそのことが示されています。

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

 しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの王国と王朝はBC586年のエルサレム滅亡と共に滅びたのです。

 では、神はダビデに嘘をついて、約束は反故にされてしまったのでしょうか?この神の御ことばは、その場限りの適当な励ましに過ぎなかったのでしょうか?

 そうではありません。目に見える王朝は滅ぼされましたが、ダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによってこの約束は成就したのです。イエスによってもたらされた神の國はとこしえに続くという形で、最初よりも素晴らしい形で約束は守られたのです。

 このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

 マタイの福音書は新約聖書の最初の書ですが、その第1章1節には長々とイエス・キリストの系図が記されています。新約聖書を初めて手にとった人が1ページ目から読もうとすると、最初にわけのわからない名前が羅列されているのでたいていの人は退屈してあきらめてしまいます。

 読み手の立場から見たら一番悪い構成のように思われますが、実は当時のユダヤの人達にイエス・キリストはイザヤの予言どおりダビデの家系に生まれたということを示すことはたいへん重要なことだったのです。

 そして、いいかげんなことを書いたのでは、まだその誤りを指摘されうる時代に書かれたのですから、その系図は事実であったと考えられます。


III. メシヤの特徴(2-10節)

 2節以降にはメシヤとメシヤによって造られた王国の特徴が述べられています。

1.聖霊に満たされた方である。

「11:2
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

 メシヤは「聖霊」に満たされた方で、その「聖霊」には以下の7つの働きがあると言ってます。

1)主からのもの:ここに父、御子、御霊の麗しい三位一体の姿を見る。
2)洞察力
3)弁別力:この二つは知的
4)伝達能力
5)実行力:この二つは実践的
6)主を知る知識
7)主を恐れる敬虔:この二つは霊的

 そして、実際イエス・キリストは正にこの御霊に満たされた方でした。さらにこのような御霊は私達一人一人にも与えられているのです。

わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。」(ルカ4:18)

2.公平さ、公正さ

「11:3
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、

 主は表面に現れたものではなくて、私達の心を見なさるのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるのです。

3.正義

「11:4
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

 先日来神奈川県警の不祥事が報道されておりますが、そのような「正義」がないがしろにされている時代にこそ、私達クリスチャンは正義の実現を切実に祈り求め、また主張すべきところは主張できる人間でありたいものです。

4.平和

「11:6
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
11:10
その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

 それがどんなに素晴らしい平和な様子かは何も言わずにこの絵を見ていただければおわかりになると思います。(笑)

(OHP2)
 
 ここに絵にしましたように、仲良しの羊と狼、菜食主義のライオン、コブラやまむしと戯れる子供などの様子が描かれています。

 この平和の描写は文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するのです。しかしその本質である愛が支配する世界は、今私達の心の中で始めるべきものです。
 
 家庭にあっては、ライオンのように怖い父親が草を食べるライオンのようにやさしくなり、狼のようにがみがみと人に食って掛かる母親が噛み付かなくなるのがクリスチャンの家庭のあるべき姿ではないでしょうか。

 そして私達はやがて来るべき再臨の世に大きな希望を持ちたいと思います。


終わりに:

 最後にパウロの語った3つのキーワードに沿って、本日のお話しをしめくくりたいと思います。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(第1コリント13:13)

1.希望

 私達の人生においては、一生のうちに何度かは絶望的な経験や望みが断たれる経験をすることがあると思います。
 仮にそのような状態にあっても、神様は根株から新芽を生やしてくださるお方であるという希望を持って歩みたいと思います。

2.信仰

 信仰とは神の御言葉は必ず成就するということを信じきる事です。信じれば救われるという神の約束は必ず成就すると信じることです。

 クリスマスにイエス・キリストがお生まれになったという事実の中に神の約束への忠実さを見ることができます。私達はこのことに励まされて、信仰を新たにしたいと思います。

3.愛

 愛は神の王国の支配的原理です。

 私達の心の内を、家庭を、職場を、そして世界を愛が覆い尽くすことを期待し、祈りながら進みましょう。

 お祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 991215