礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

99年12月26日

「私に力を与えて下さる」

井川 正一郎 牧師

第2テモテ4章1〜18節

中心聖句

17しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。

(4章17節)

アウトライン:

 キリスト信仰のゆえ、激しい迫害に遭い、投獄され、殉教直前のパウロ。しかし、神は、絶善(善いことが全くない)、絶縁(人は離れてゆく)、絶望(希望がない)からパウロを救い出された。そしてパウロは、「神は私に力を与えて下さった」と告白する。

 どのような時、そのような力が与えられるのだろうか。それは、

 1)神がそばに在る時

 2)目的(宣教)がある時

 3)神の御旨の中にある時

である。

 このことを常に感じて、新しい2000年に踏み出して行こう。

教訓:力を与えてくださる神


導入

 1900年代最後の礼拝メッセージになります。第2テモテ4章17、18節をもう1度、お読み致します。

17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。

18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

 ご存知の通り、第2テモテは、パウロの最後のもので、キリスト信仰の故に迫害を受け、殉教の直前に書かれたものです。この手紙は、若いエペソ教会牧師テモテへの指示と激励が記され、また、パウロ自らの状況と信仰の告白も述べられています。

 この書は、あたかも今年を締めくくろうとしている私たちの心境、状況に当てはまるものと考えております。もっとも、パウロのような迫害、殉教といった緊迫した中ではないかも知れませんが、厳しい状況の世の荒波の中にあって、やっとの思いで年の締めくくりを迎えようとしているお互いにとって、パウロの信仰告白は、慰めとなり、また、励ましなると確信致しております。

 この個所のパウロの状況は、まさに、人からも神からも見捨てられているのではないかと誰もが考えてしまうほどの厳しい状況の中に置かれています。キリストへの信仰のために迫害を受け、ローマの獄中・牢屋に閉じ込められ、殉教を目の前にしています。

 しかし、パウロはどうだったでしょうか。そうです。17節のおことば(告白)の通りです。

17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。・・・私はししの口から助け出されました。

 「しかし」は、聖書の中にしばしば出てくる「Great But」です。信仰による逆転劇を示す偉大な「しかし」なのです。「私に力を与えてくださいました」、「私はししの口から助け出されました」と力強い信仰告白がなされています。


どんな状況(外的環境)から、力が与えられたか(救出されたか)

 今日の説教題は、17節より「私に力を与えて下さった」です。このテーマに基づき、パウロがどんな状況から助け出されたのか、どんな力をあたえられたと言っているのか、3つの点からお話したいと思っております。

・絶善の中からの救出

・絶縁の中からの救出

・絶望の中からの救出

 ここで、「絶善」とは、日本語にない、私の造語です。「全く善がない」ということです。また、「絶縁」とは、「人が離れていってしまう」ということです。

(1)絶善の中からの救出

 絶善の中から、すなわち、全く善なんか無いと思われる状況の中で、力を与えてくださり、救い出されたと告白しています。

 17節「ししの口」あるいはその言い換えと言える18節の「すべての悪のわざ」にみられるように、当時は善は全く期待出来ず、悪しかはびこっていない状況であることがわかります。ローマ帝国のネロ皇帝により、キリスト者は激しい迫害に遭います。ある人は火あぶりの刑に、ある人は獣に食い殺され、またある人は獄中にて、と次々に殉教していったのです。また、迫害を逃れるべく、「クリスチャンではありません」「信仰を捨てました」と巧妙に世を渡る者もいました。

 そのような罪悪が吹き荒れる嵐の中で、ある意味では、獄中だからこそ、パウロは静かに神と一対一の恵みの交わりを持つことが許され、罪の世にあって罪にけがれず、神のみまえでのきよき、また善きことを保っているのです。

 神は、どんなに悪がはびこっていると思われる状況でも、善きことがあることを私たち信仰者に示し、善を行う力を与えてくださいます。だからこそ、常に神の御前でやましいことのないやり方、方法、手段をもって事を運びたいと思います。

(2)絶縁の中からの救出

 デマス、アレキサンデレ、法廷で弁明してくれる資格のある人はみな、パウロのために弁明しようとせず、みんな離れて行き、見捨ててしまいました。信頼していた人から裏切られるほど悲しいことはありません。それが絶縁です。

 そんな中に置かれたパウロでした。「しかし」とここでパウロは告白します。人はみな見捨てたかも知れない。しかし、主は決して見捨てたまわないお方。

 そして、皆さん、神はすべての人が見捨てたと思う状況の中でも、実は数こそ少ないけれど、助け手を用意していて下さっていることに、気づきたいと思います。ここでは、テモテ、ルカ、マルコ等・・・。そういう人もいない、その時こそ、主がそばにいるではないかと強く私たちに迫って下さいます。「絶縁の中から、主は力を与えて下さる」パウロは信仰を力強くあかしします。

(3)絶望の中からの救出

 パウロの状況は、もはや死が待っているだけでした。一日でも一年でも長生きしたい。少しでも生きて楽しみたいという思いがあるのが通常の人の心です。普通であれば、全く望みなんて有り得ないと思われる状況が、今のパウロの状況といえます。

 しかし、パウロには、地上的なものへの執着はありませんでした。それは、ピリピ書やコリント書等で伺い知ることが出来ます。そして、改めて「GREAT BUT」と言います。「天の御国に救い入れてくださいます」(18節)と・・・。

 獄の中であっても、殉教の死を前にしていても、決して望みは絶たれないとパウロは告白します。永遠の失われない望みがあるではないか・・。永遠に続く天を仰ぎ見ているパウロなのです。


どのような時(内面的に)、力が与えらるのか

 3つのことをお話しました。パウロは、絶善の中から、絶縁の中から、絶望の中から、主が力を与えて下さると信仰告白しています。では、一歩踏み込んで、どのような時にそのような力が与えられたのでしょうか。箇条書き的に3つに学んで、今日のメッセージを締めくくりに向かわせていただきたいと思います。

(1)神がそばに在る時

 神が近くにいて下さるからこそ、力なのです。そして、この「力」とは「私の内側に力を注いでくださる」との意味です。第一義的には、強くあれ、勇気を持てとの力を意味しますが、それ以上に悩み、苦しみ、もはや私の中には何の力も無いというその心の中に、神の力がドクドクと血液の中に脈打つように内側に注がれていくとのニュアンスです。そばにいて下さり、私のことを一番よく知っていて下さるからこそ、この時とばかりに「力」を注いで下さるのです。

 この力を頂戴した時、どんな絶善、絶縁、絶望の中にあっても、それを乗り越え、対処できるのです。

(2)目的がある時

 17節の通り、私を通してみことばが宣べ伝えられるためにという目的がありました。その目的に向かっている時、「神の力」は注がれるのです。裏を返せば、自分の計画や勝手な願いに向かう時は、神は力を注いで下さらないということを意味します。

(3)神の御旨の中にある時

 神の御旨の中に信仰者がいる時、力が与えられるのです。罪やけがれがあっては力はありません。嘘をついたりした時、人はオドオドしたり、ビクビクしたりするものです。そこには本当の力はありません。きよきにある時、それが力となるのです。


おわりに

 この一年の歩みを振り返り、私たちはどのように証しするでしょうか。パウロのように「しかし、主は私に力を与えて下さいました」と証しできるでしょうか。パウロの証しは、パウロの時代だけのことではありません。今も、これからも、神が私たちに力強く約束していて下さるのです。この約束を私たちのものとするために、

・近くにある神の臨在を感じて歩むこと

・目的をしっかり持って歩むこと

・常に神の御旨のきよきの真中を歩むこと

を確認したいと思います。

 主ゆるし給うならば、この一週間そのように、いや、新しい2000年に踏み出していく私たちに対して、いつもそばにいてくださり、力を注いで下さる神に心から感謝して進もうではありませんか。

 お祈りいたしましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 991228